公爵のいるホールへ足を踏み入れる前に一つ深呼吸をした。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
短く答え、一歩を踏み出す。
「フェリス! お前は…!!」
「申し訳ございませんでした」
いの一番に怒鳴られ、フェリスは頭を下げた。
「まあ。そこまでにしてあげてください。あんな姿でこの雪の中を歩いていたのです。それ相応のことがあったのでしょう」
「む…!」
男性の言葉に痛いところをつかれた公爵は言葉を詰まらせ、視線を逸らした。
「もう平気か?」
「はい。おかげ様で楽になりました。ありがとうございました」
フェリスは男性にも頭を下げた。
顔を上げるとそこには柔和な笑顔があり、フェリスは一度だけ微笑んで見せた。
「こい!」
それを見ていた公爵は面白くなさそうにフェリスの腕をつかみ、強引に外へと連れ出した。
「フェリス。今度はちゃんと靴を履いているんだぞ?」
引かれながら振り返るが、その言葉の意味を理解する暇はなかった。
あわただしく馬車に乗せられ、そのまま馬車は走り出したのだった。
「急げ。早くここから出ろ」
公爵は御者席にそう命令を出し、跳ね橋を渡りきるまでは一言も発しなかった。
跳ね橋を渡り少しすると溜めていた息を吐き出し、後ろにある小さな窓から城を見た。
「あの化け物め。いつかあの場所から引きずり落としてやる」
フェリスも城を見ていた。公爵の言う化け物の城は、フェリスにとって一時の天国だったといえた。
「未練があるのか?」
突然、公爵にそんな言葉を投げかけられた。
「あんな化け物でも見目はいいからな」
鼻で笑うとフェリスをまじまじと見つめた。
「それで? どうだったのだ、あの化け物は?」
「どう、とは?」
質問の内容がわからず、フェリスは聞き返した。
「きゃあ!」
突然に腕を引かれ椅子に押さえ込まれてしまった。フェリスの上から公爵はさらに訪ねる。
「良かったか? くそ親父の物になるのですら腸が煮えくり返るというのに! お前はあの化け物のものに成り下がったのか!?」
怒声とともにフェリスの頬に熱のような痛みと同時に音が弾けた。
あまりの衝撃に目の前に星が見える。
口の端がまた切れたのか、口内に血の味が広がった。
ぐいと胸倉をつかまれ引き寄せられ、そのまま椅子に叩きつけられた。
「ぐっ」
高級な馬車で椅子は柔らかかったため、後頭部をぶつけて昏倒する事態はまぬがれたが、それでも息が一瞬止まる。
「この私が、お前を手にするためにどれだけの時間と金を費やしたか、お前にわかるか! それをまたあの豚の手に渡るどころか、その前に化け物の手に渡るとは!」
どうやら公爵は思い違いをしているようだと、そのくらいはフェリスにもわかっていた。しかし、降りかかる言葉はやはり要領を得ない。
その中でも最たる不明な言葉がフェリスの耳に残る。
「貴方が、私を?」
呆然と繰り返すフェリスに、公爵は見下し嘲笑うように口の端を上げた。
「こう言えばわかるか? お前の母はいい女だった」
「!!」
その言葉に、その笑いに、フェリスは一瞬にして理解した。
体中の血が沸騰したかのように全身が熱く、自分でも信じられないような力が生まれた。
フェリスは上半身を起こし公爵を殴った。
「貴方がお母様を!!」
記憶に蘇るのは泥だらけで、家畜小屋に捨てられていた母の姿だ。
間違いなく乱暴された痕があり、手には高価なカフスが一つ握られていた。そのカフスが誰のものか皆知っていたが、知らぬ存ぜぬを通された。
男爵でしかない父には何もできず、まだ幼かったフェリスには真実を伝えられることはなかった。
渾身の力で殴りつけたフェリスは怒りに震えていた。
「父は確かに言っていたわ。コールドレイゼンの紋がついたカフスだと。でも、それが母を殺した犯人のものと決まったわけじゃないって!」
今ならわかる。違うのだ。父は全てを知っていた。知っていたが男爵家と公爵家では太刀打ちできるわけもない。
「ふん。お前の父はただの臆病者だ」
殴られたほうの頬を手で拭い、フェリスを見やる。
「お前の母が何を隠しているのか知っていて、半年も知らぬふりをしていたのだぞ? 週に一度、お前の母は我が屋敷に来ていた。あの豚にいいようにされ、あまりにも可哀想だったのでな、私が助けてやったのだ」
「助けた?」
フェリスは眉をよせ、公爵の次の言葉を待った。
「ああ。こうしてな!」
「いや!」
次の瞬間。フェリスの首に公爵の手が回された。
上から体重を乗せているので、女の力では逃げるのも手を外すのも無理だった。
どんどん視界が狭まっていく。
もう少しで窒息するというところで公爵は手を離した。
「!…げほっ!」
大きくむせ、息を吸うフェリスの耳元に公爵が囁く。
「お前は母親にそっくりだ。母と同じように、あの豚にいいようにされるのなら、いっそのことここで私が殺してやろう……その前に」
朦朧とする意識の中、公爵が自分の足を持ち上げるのがわかった。
「確かめないとな」
にやりと笑う口元だけが見て取れた。
もうだめだ。これ以上は耐えられない。今すぐ死ぬ方法などいくらでもある。
そう、死を考えたとき、ふとあの執事の言葉を思い出す。
自分の上で準備を進める公爵を、ぼんやりと霞む視界に捕らえながら、なぜか無性に可笑しかった。
「なんだ。うれしいのか?」
壊れた笑いなのは一目瞭然。目じりから一筋涙が伝う。
「アルス」
目を閉じ、自嘲とともに洩らされた言葉は公爵には聞き取れなかった。
「なに?」
訝しげに聞き返すと同時に馬車が急停止した。
「! 何をしている!!」
御者席へ怒鳴ってみたが、馬の嘶きだけが響いてくる。
何事だと馬車の扉を開けて外を窺った。
暗澹とした車内に清涼な空気が入り込み、フェリスはその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「貴様!!」
その悲鳴に近い怒声にフェリスは、何があったのかとのろのろと体を起こす。
公爵の肩越しに外の景色が見える。
外は雪だ。一面の白。
その白の中に黒い木々と、黒い衣装を身につけた人が立っていた。
フェリスが顔を覗かせたことに気がついたのか、その人は声をかけてきた。
「約束だ。迎えにきたぞ」
「何のまねだ! これは!」
公爵は怒鳴り、車を降りた。
「さて? 何のまねといわれてもな。呼ばれたのできたのだが、俺の勘違いか?」
最後の言葉は車の入り口に立っているフェリスへと向かっていた。
無視された公爵は車内に転がっていた剣を取り出し、鞘から抜き放った。
「化け物め! お前に渡すぐらいなら私の手で殺してやる!」
「フェリス。俺はまだお前の答えを聞いてない」
いきり立つ公爵を完全に無視し、男性は微笑しフェリスに尋ねる。
「私には死の選択しかないみたい。貴方が欲しいなら差し上げます」
「では、もらおう」
二人の間に取り交わされた話に、公爵はフェリスに向け剣を突き出した。
「シャルル」
「うわ!!」
突き出された剣に、反射的にフェリスが車の中に倒れこむのと同時に、公爵は何物かに横倒しにされた。
フェリスは何が起きたのか分からず外を見ると、公爵の上に大きな犬がのしかかっていた。
「ご安心を。シャルルは聞き分けのいい狼ですから」
「お…オオ!!!」
男性の言葉に公爵は声も出せなくなったようだ。
「おいで」
声にならない公爵の悲鳴を無視し、男性は両手を広げフェリスを迎えた。
フェリスは何も考えず、真っ白な雪の上を駆け、男性の腕の中へ飛び込んだ。
「どうして?」
「後でな。それより靴はどうした?」
泣きながら駆けてくるフェリスの足には靴がなかった。
ひょいと抱き上げ尋ねる男性に、フェリスは小さく笑う。
そんな二人の姿を狼はじいっと見つめていた。
それを見計らい公爵は雪の中を這いずり、どうにか御者席に上りつくと手綱をとった。
死に物狂いで遠くなる光を、フェリスは晴れ晴れとした気分で見送った。
「さて、帰るか」
そのまま歩き出した男性に頷くと、ふと歩みが止まった。
「?」
明るい月明かりの中、まじまじと見つめられフェリスは首をかしげた。
「本当にいいんだな?」
今さらな気もするが、もうフェリスに迷いはなかった。
「ええ。どうぞご賞味くださいませ?」
あの執事の言葉を口にして、はっとした。
「よし。ではまずこれを頂こう」
ゆっくりと顔が近づき、また口の端にやわらかな感触があたる。
「やはり、死ぬのはもったいないぞ」
「はい」
間近に聞こえる声に、フェリスは目を閉じ静かに答えた。
どんどん上昇する体温と鼓動の早さに、今生きているのだと実感していた。