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墜ち人の丘 02
 乗せられた馬車は丘の上を目指していた。
 通り名「墜ち人の丘」。正式名は「落日の丘」という。
 その頂上に一つの古城が建っている。幾多の戦争を乗り切った城は実戦用に造られており、城へ入るには跳ね橋を使う。
 堀に水は入ってはいないが、かなりの深さだ。
 跳ね橋を渡り、城門をくぐり抜けるとその城が全貌を現す。
 もっとも、馬車に乗っているフェリスにはその姿を見ることはなかった。
 いや、そんなことよりも、乗せられたときと同じように、ずっと男性に抱きかかえられたまま馬車に乗っていて、他のことに気を向ける余裕などどこにもなかった。
 膝の上から逃れようと一応抵抗を試みてはみたのだが、全てにおいて退けられてしまった。
 馬車の中に明かりはなかったので、赤面しているだろう顔をまじまじと見られることがなかったのが、唯一の救いだった。
「あの、貴方はグリフイーセン様なのですね?」
 無言も気まずかったので確認をしてみた。
 この丘の上にある城にいるのはグリフイーセン伯爵。
「ああ、そうだ」
 少しだけ違って欲しいという思いがあったが、あっさりと肯定された。
「お前は?」
「…フェリス・アンファレスと申します」
「アンファレス……」
 フェリスの名を聞き、男性は思い出すように繰り返した。
「確か男爵だったな……ああ。あのコールドレイゼンの従兄弟筋か」
「…はい」
 コールドレイゼンと言えば王家にもっとも近い公爵として有名な家柄である。フェリスはその高貴な血に連なる者として存在している。
「何もない…」
 ポツリと洩らされた男性の言葉に、フェリスは息を飲みそのまま沈黙した。
 自分がここにいる理由を、彼が突き止めるまでそう時間はかからないだろう。だからといって自分から口にするのは気が引けた。
 結局気まずい沈黙を引きずり、城の前に到着する。
 外から扉が開かれると明かりが洩れた。
 それと同時に冷たい外気が車の中に流れ込む。思わず身をすくませ、そのあまりの冷たさに、フェリスは自分がどれだけ無謀な格好をしているのかをようやく悟った。
 乗ったときと同じく、男性に抱かれたまま馬車を降り、簡素で重厚な扉へ向かう。御者が先に行き、その重そうな扉を開けると、中は信じられないほど明るかった。
「アルス様!!」
 城へ一歩足を踏み入れると同時に、大音声で名が呼ばれる。
 フェリスはあまりの大きな声にびくりとしたが、当の本人、この城の主は全く動じなかった。
「ロビン。湯は沸いてるか?」
 そう声をかける後ろで扉が閉められた。その音に男性の肩越しに見てみると、あの御者の姿はなかった。
「おそらくそうだろうとシャルルが申しておりましたので、一応沸かせています」
「そうか。とりあえず体を温めろ。話はその後だ」
 男性はフェリスを下ろすと、ロビンと呼ばれた白髪交じりの男性のほうへと背を押した。
「あ・あの」
 戸惑いながら二人を交互に見る。
「どうぞ、こちらへ。わたくし執事のロバートと申します。ロビンとお呼びください」
「頼んだ。俺は仕事に戻る」
「ええ。是非! そうしてください」
 "是非"に力をこめた執事に主であるアルスは苦笑した。
「ちょうど見えたんだ。もったいないだろう?」
 そういい残しホール中央にある階段から上へと上っていった。
 アルスの言葉に呆れたため息をもらし、執事はフェリスを見やる。
「お名前は?」
「えっと…フェリス、です」
 フルネームを言うべきか悩んだが、結局それだけを伝えた。
 ぎこちないフェリスの言葉に疑問はあっただろうに、執事は笑顔を作り頷いた。
「フェリス様。では、どうぞこちらへ」
 案内されるままフェリスが行き着いた場所は、大きな暖炉がある部屋だった。部屋の中央に長い机があり、その周りを椅子がいくつも置いてある。ホールに比べると薄暗い部屋だ。
「今、湯をお持ちします。暖炉の前へどうぞ」
 促されるまま暖炉の前に行くと椅子が一つ置かれていた。その椅子の上に替えのドレスが置いてあった。
 フェリスはそのドレスを一撫ですると、ぼんやりと暖炉の炎を見つめた。
 その間に執事は隣の部屋に行き、湯気の立つバケツを持ってきた。
「とりあえずはお着替えください。それが済みましたらこちらに足をいれてください。体が温まります」
 フェリスの肩にかけてあった上着を脱がせると、気を利かせて部屋の外へ出て行った。
 それを見送りフェリスは一つため息を落とし、着替えをすることにした。
 雪を引きずったドレスは雪が溶け、かなり重たくなっている。それを脱ぎ、用意されたドレスを手に取る。
 今まで着ていたドレスとは全く違い、厚手の生地でいかにも丈夫そうだ。飾りもなくどちらかと言えば実用的に作られている。
 目の高さまで持ち上げ裾を見る。
「少し大きいかしら」
 体に当ててみるとやはり大きめで、裾をかなり引きずってしまう。
 しかし用意されているのはこの一着だけだ。仕方なく着込み床にわずかに広がった裾を見て、なぜか笑顔がこぼれた。
「お母様のドレスを着たみたい」
 小さなころにキレイな真っ白なドレスを、こっそり身につけてみたことをふと思い出したのだ。
 移動するのにそのままでは踏みつけてしまうので、いつもより多く布を持ち上げねばならない。
「あら?」
 一歩踏み出したその足下を見て驚いた。
 部屋が暗いせいか、雪の中で見たような傷はどこにもなかった。
 男性がついていた血をあらかた舐め取ってしまったせいで、そう見えるだけかもしれない。など、思い出さなくてもいいことまで思い出し、再び顔に熱が戻る。
「どうしよう。私とんでもないことをさせてしまったわ」
 相手は伯爵。フェリスはいくら血筋がいいとはいえ男爵、だった。
 パチッと火の爆ぜる音で我に返り、暖炉を見る。
 大きな暖炉ではあるが、部屋を暖め始めたばかりなのかどこか肌寒い。そのことで執事の用意してくれたバケツに足を入れることを思い出した。
 椅子に座り、慎重にバケツのお湯の中に足を浸す。
 冷え切った足には熱いを通り越して痛かった。しかし、熱湯であるわけもなく、フェリスはその熱さにゆっくりと足を沈めた。
 しばらくそうしていると、じんわりと体が暖かくなってくる。
 血の巡りもよくなったためか、体のあちこちが思い出したように痛みを伝えてきた。
 一番に痛みを訴えたのは頬だ。
 そういえば口の端が切れている。
 思い出し、フェリスはそっとそこに手を当ててみた。
「ここは冷やしたほうがいいかしら?」
 背中も思い切りぶつけているため動かすと痛いし、頭痛もする。
「…本当に…どうしよう…」
 頬に手を当てたまま、お湯につけている足を見つめると視界が歪んできた。
「お着替えは済みましたか?」
 あの執事の声がかかり、フェリスは慌てて涙を拭った。
「ええ。ありがとう」
 近づく執事に笑顔を向け礼をいう。
「ああ。だいぶ顔色が良くなりました。体に何か暖かい物を入れたほうがよいですね。何かご用意いたしましょう」
「いいえ。もう、大丈夫よ。ありがとう」
 お腹は減っているが、何かを口に入れる気はしなかった。今はこれからどうすべきかを考える必要がある。いつまでもここにいるわけにはいかない。
 しかし、そんなフェリスの考えを無視し、執事は膝をつきフェリスの足を拭くと靴を履かせ立ち上がらせた。
「さあ。こちらです。どうぞ」
 手をとり歩き始めてしまった。
 あまりの鮮やかな手並みに、フェリスは結局執事に連れられサロンのような場所へと通された。
「こちらへ」
 暖炉に近い場所に座らされ、待つことしばし。
 フェリスの前には軽食が用意された。
「あの、私…」
「遠慮せずに食べろ。どうせ何も食べていないだろう」
 フェリスが辞退しようと執事に声をかけると、入り口から男性が顔を出した。
「私どもの残り物ですが、召し上がってください。とにかく体を元の状態に戻さないと、これから何をするにも大変です」
 やさしく微笑む執事の言うことはもっともだ。
 フェリスもそれはわかっている。しかし、それでも食欲はわかない。周りは夜にも関わらずとても明るいのに、自分の周りだけ暗いもやがかかったように淀んでいる気がした。
 暖かい食事を目の前に小さく息を吐いたフェリスに、男性が近づいて顔を覗き込む。
「これのせいか?」
 顎を持ち上げられ、口元を見た。
 質問が何かを察したが、食欲のわかない理由とは全く違った。
「いいえ…」
 ゆっくりその手をどけ否定する。
 フェリスにはどうでもよいことだったし、心の闇に捕まっていた。それゆえに、男性の行動の意味がわからなかった。
「………なに、を…」
 口の端に柔らかい感触と、男性の瞳とぶつかったのは同時だった。
 目眩を起こしそうなほど熱く見つめられ、フェリスはぼうっとただ見返した。
「アルス様」
 固い執事の声に二人同時にはっと我に返った。
「はぁ。そうとう参っているな」
 男性はぼやきながら離れ、椅子に腰掛けるとフェリスのために用意された軽食をつまみ始めた。
「つまみ食いはするなとは申しませんが、貴方の場合はそこに責任が伴うのですよ?」
 男性の行動に執事は眉を寄せ、困ったように忠言する。
「わかってる。俺は別にロビンでもいいんだぞ?」
「不味くてもよろしければ、どうぞご賞味くださいませ」
「遠慮する」
 二人の会話をどこか遠くに耳にしながら、フェリスは呆然と口の端へと手を伸ばした。
 柔らかな感触がまだ残っている。
 握られた手が、近づいた吐息が、熱く蘇り、再びフェリスを恥ずかしさの海へと突き落とした。
 食べる所の騒ぎではなく、顔を歪めて何かを叫びそうになるのを必死で抑えているフェリスに気づき、執事は軽くため息をつき、再び主に忠言した。
「アルス様」
 何を言いたいのかわかっているのか、呼ばれた本人はただ笑っただけだった。
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