行く手を阻むように降り続けていた雪はいつの間にかやんでいた。
黙々と歩くフェリスがそのことに気がついたのは、踏みしめる雪がいやに白く、明るさを増したからだった。
立ち止まり確認するようにぼんやりと頭を上げると、暗い紺色の空にくっきりと丸い月が浮かんでいた。
先ほどまで全く見えていなかった景色は、雪がやんだことと月の明るさではっきりと見て取れた。といっても、降り続けた雪のせいで、そこにあるはずの道も、木々も、山も全てが白かった。その白い世界の中で、唯一色を纏うフェリスの服は薄い桃色のドレスだ。幾重にも薄布を重ねた上物のドレスは、襟元が大きく開いている。
息が凍るほどの氷点下の世界にその姿は非常識極まりない。
寒さなど感じていないのか、彼女は月に誘われるようにふらふらと歩き出す。
幾重にも重ねた薄布が歩を進めるごとに揺れる。揺れるといっても舞うような優雅さは欠片もない。降り積もったばかりの新雪を引きずり、重たく揺れる。
誰も踏みしめていない雪の上を進む先には断崖がある。
その淵に立ち、月を見る彼女はこの世ならざるほどの美しさを宿していた。
しかし、その美しさは空ろで、危うい。
断崖絶壁に立つ彼女の背を押すように風が吹いた。
さわりと、真綿のごとき雪は月光を宿し、キラキラと、まるで星が降るように舞う。
「ここなら死ねるかしら?」
その神秘的な光景に微笑み、死を口にする。
彼女のいる場所は小高い丘で、通り名を「墜ち人の丘」という。
市街からそれほど遠くもなく、彼女の立つ場所からは街の明かりが見えている。その多くは貴族の屋敷だ。
フェリスの家もその小さな光の中に含まれていた。
そう、つい先日までは。
長い亜麻色の髪は結われておらず、背を押す風に逆らうことなく舞い上がる。
「大丈夫よね。この高さなら…助かっても凍死だろうし…」
フェリスは崖下を覗き込み暗く笑う。
あと一歩踏み出せば、この世界から解放される。
その意思を肯定するように風は背を押し続ける。
「死ぬのか? もったいない」
彼女が風に身を任せようとした瞬間。前触れもなく声がかけられた。
反射的にフェリスは思わず振り返る。
その動作は寒さでぎこちなく、断崖へとよろめいた。
「きゃあ!」
思わず叫んだフェリスの体をひょいと抱きとめる腕があった。
「ああ。すまない。ついな」
真横から回された腕にしがみついたフェリスの耳に、実に心地よい声が謝る。
「助けるつもりはなかったんだが」
無慈悲な言葉とともにフェリスは安全圏へと放たれた。
平地の雪の中にへたり込むと、なぜか安堵が広がり大きく深呼吸をした。
冷たい空気に肺が痛くなる。
「大丈夫か?」
つい先ほど助けるつもりはないと言ったその口で、今度は気遣う風な声に、フェリスはその人物を見上げた。
月光の中、雪の白さも手伝い意外にもその人の顔を認識できた。
声からも男性だとわかる。柔和な顔に、長い金髪。均整のとれた体には黒い服をきっちりと着込んでいた。しかし、どこか違和感を覚えフェリスはわずかに眉を寄せた。
その表情に彼はくすりと笑う。
「邪魔をするつもりはなかったんだ」
先ほどフェリスが行おうとしたことに対しての弁解をしているようだ。
「どうせ死ぬんだろう? だったら俺にくれないか?」
男性の言葉でフェリスはさらに眉を寄せ、明らかな嫌悪を表情だけで表した。
「勘違いするな。俺が欲しいのはお前じゃない」
男性が一歩フェリスへと近づくと、粉を踏みしめたときのような音が鳴る。
フェリスは無意識にその音源を見つめた。
「俺が欲しいのはお前の命だ」
目の前にまで来た足をたどり、再び男性の顔を見上げる。
「…命?」
「そう」
短い質問に、短い肯定が返ってくる。
寒さに凍りついた体は動かすことができず、思考も同じように凍りついたように上手く回らない。
ぼんやりと見上げるフェリスに、男性は視線を合わせるために膝をついた。
「死にたいわけはこれか?」
そっと彼女の口元、口角の辺りに触れる。
その瞬間。まるで火にでも触れたように男性の手を払った。
「それくらいじゃ死なないか」
睨みつけるフェリスに男性は愉快そうに笑った。
「貴方は誰なの?」
「それを聞く前に、俺の質問に答えろ」
どの質問だったのか、思い出すのに少し時間がかかった。そのくらい思考は鈍くなっている。
その思考を助けるように男性がもう一度繰り返す。
「死ぬつもりなら、俺にくれないか?」
そう、命を。
近くにある女性とも思えるほどの柔和な顔を見つめ、それはどういう意味だろうと回らない思考を巡らせる。
しばらくそうして見つめあっていたが、男性は何の前触れもなく、フェリスを抱き上げた。
あまりに唐突過ぎてフェリスは抵抗も声を上げることもできなかった。
「少し思考を回復させたほうがいい。これはお前にとっては重要な問題だからな」
そういうと近くにあった恐らく岩だろう――なにしろ雪を被っていて何かはわからない――そこへフェリスを座らせる。
何が起きたのかわからない様子のフェリスを置き去りに、男性は作業を続ける。
自分の上着をフェリスにかけてやり、雪で固まりだしたドレスの裾を払う。
フェリスが少し高い場所に座ったおかげで、膝をついた男性を見下ろす形になった。白いシャツに黒いベストを着込んでいる姿は、フェリスと同じくらいの年齢だろう。流れる真直ぐな金髪は後ろで一つにまとめて流している。
仕草や態度で彼も上流階級の者だということは一目瞭然だ。
肩にかけられた上着は今まで男性が着ていたおかげで暖かかく、それゆえに寒さを感じて上着をかき寄せた。
「そんな姿でよくここまで歩いてきたな」
フェリスの様子に男性はくすりと笑い、ドレスの裾を少しだけ持ち上げた。
「靴はどうした?」
質問の通り、フェリスは靴を履いておらず、寒さのせいでか赤くなっているうえに、雪が凶器となり、すり傷のようなものをいくつも作っていた。
フェリス自身そのことに気がついたのはどうやらたった今のようだ。
質問に少しだけ首をかしげ、小さく「さあ」と答えただけだった。
可能性として逃げたときに落としたのだろう。
そう、彼女は逃げてきたのだ。ここから見えたあの小さな光の中から。
黙ってうつむいたフェリスに、男性はそれ以上の立ち入った質問をしなかった。
「それで、どうする?」
先ほどの質問に戻り、まだ答えていないフェリスは、考えを巡らせた。
「…命が欲しいってどういうことですか?」
「そのままだ。お前の持つ命を俺のために使わないかと言っているんだ。もちろん自由は保障してやる。生きる自由、死ぬ自由。両方な」
「断れば?」
今まで空ろだった瞳に、微かに意思が戻り男性の瞳を凝視した。
「それはそれでお前の自由だ。ここから飛び降りるのも、凍死するのも勝手にしろ。今の時期なら死ぬのにそう難しくはない。ただな…」
フェリスの視線を受け止め、男性は笑う。
「死ぬにしてもなぜこんなところにきたんだ? もう少し簡単な方法もあるだろう」
市街から程近いとはいえ、それでもかなりの距離がある。いくら死ぬためであっても雪の中を歩くには労力を必要とする。
「お前がここまで歩いてきたのは死ぬためじゃない。生きる方法を探してきたんじゃないのか?」
全てを見透かしたような男性の瞳に、フェリスは言葉を詰まらせた。
ここに来る間、靴をなくしたことにも気がつかないほど考えていた。これからどうするか、どうすべきか。何か方法はないのか。
考え、答えはいつも同じところへと行きつき絶望へと落とされる。
それでも死を考えたのは、ここがあの丘だと気がついたからだった。それまで考えることはもちろん、思いもしなかった。
「私にはもう何もないわ。そんなこと、誰に言われなくてもわかってる。でも、"私"は私のものよ。勝手に私のことを決めないで!」
今まで抱えていた思いを声に出すと、涙も溢れてくる。
決してプライドが高いのではない。ただ、不当な扱いを受けることへの嫌悪と、悔しさ。無力な自分に対するやるせない思いからだ。
顔を覆って泣きだしたフェリスに男性はただ笑った。
「人間という生き物は支配するのが大好きな種族だ。特に男はな。土地を、家畜を、弱い者を、女を。どれだけ支配したかで価値が決まる。そういう世界生きているのだから、それは仕方がないと受け入れるべきなのではないか?」
面白そうな男性の質問に、フェリスは顔を上げた。
「そこから抜け出す方法が死か」
フェリスの世界には社会があり、そこで生きている。生きるためにはその社会の中でしか生きられないのだ。それ以外は望むべくもない。
「もし、それ以外にもあるとしたら?」
柔和な顔は微笑めばとろけそうなほど温かい。
「それを俺が与えてやれるといったら?」
頬を伝う涙が外気の冷たさに凍りつく。
その冷たさに淀んでいた思考がすっきりと澄んでいく。
ここは「墜ち人の丘」
かの丘の上には城があり、その城には美貌の青年城主が住んでいる。
滅多に表に顔を出さない彼だが、なぜか国に多大なる影響力を持っている。国王はもちろん、高い地位にいる人間は彼に一目を置いていた。
城主の持つ地位は伯爵位でしかないのにだ。
フェリスの家は高い地位にいるわけではなかったが、血筋は良かったため彼の噂を幾度となく聞いていた。
『グリフイーセンは人間ではないらしい』
目の前にいる自分とさほど変わらない年の男性をもう一度よく見る。確かに美貌の青年だ。しかし、人間以外の者には見えなかった。
微笑む顔は柔和で、髪を結い上げれば女にも見えるだろう。背はそれほど高くもなく、体つきも細い。
観察するように見つめるフェリスは、ふと彼の服装が自分と変わらず薄着であることに気がついた。
そういえば、彼はどこから現れた?
素朴な疑問は疑惑へと転じフェリスは無意識に唾を飲み込む。
「どうする?」
「わ、わた、私は……」
いつの間にか歯の根が合わないほど震えていた。
寒さのせいばかりではないことは明らかだったが、今まで寒さを感じなかった精神のほうが異常だったことを考えれば、正常に戻ったといってもいい。
がたがたと震えるフェリスに男性は意地悪そうにくすりと笑う。
「なるほど、お前はそれなりの地位にいた人間か」
やはり見透かしたような視線に恐怖を覚え、卒倒しそうになる。
大混乱を引き起こしているフェリスの様子に、男性はくすくすと笑い、ドレスの裾に手を伸ばし、少しだけ持ち上げた。
恐怖が多くを占めるフェリスの思考は固まったまま、成されるがまま、彼の行動の行方を見ているしかできなかった。
男性は雪で凍傷一歩手前のフェリスの足を持ち上げ、躊躇うことなくぱくりと口へと運んだ。
食べられると思ったフェリスは足を引こうとするが、恐怖と緊張で体は言うことを聞いてくれず、結局何もできないままその行為を見ていた。
しばらくしてから、どうやら食べられることはないのだと認識した。
彼は傷を舐めているだけのようだ。
冷たすぎて何も感じなかった足に、じんわりと温かさが戻り、感覚が戻ってくる。
感覚が戻ると思考も混乱を収め、冷静な判断を下すようになる。
冷静さを取り戻したと同時に、先ほどの恐怖と同じくらいの恥ずかしさがフェリスを襲った。
金髪の美貌の青年が、跪き、自分の足を舐めているのだ。
「あ・あ・あ・あの! ま・待って! お願い!!」
必死でやめるよう叫んだが、ちらりと視線をよこしただけでやめる気配はない。
いや、その視線で逆に心臓が跳ね上がった。
忘れていた鼓動がうるさいほど耳に聞こえている。
結婚前の乙女が素足を男性に見せるなどもってのほかなのに、見せるどころか触れさせ、それ以上の行為をさせている。
どうしたらやめさせることができるのか、全くわからず、恥ずかしさのあまり顔を覆って沈黙してしまった。
覆った顔が熱く、おそらく耳まで真っ赤になっていることは間違いないと確信できた。
先ほどとは全く違う理由で泣きたい気分になっていると、ふわりと髪を撫でられ反射的に体を強張らせた。
「お前の世界へ帰れ」
囁かれるやさしい声に顔を上げると、男性は小さく頷いた。
「ここは俺の領内だ。迷い人は保護してやる。だが、助けを求めにきたのならそれ相応の代価が必要だ。よく覚えておけ」
そう言うと立ち上がり、再びフェリスを抱き上げた。
「あの。自分で歩けます」
「靴もないのにか? やめたほうがいい」
男性はそのまま歩き出す。フェリスは大人しく抱かれたままどこへ行くのかと、彼の行く先に視線を送る。
そこはフェリスが歩いてきた道がある場所だ。
「あ」
いつの間にかそこに一台の馬車が停まっていた。
御者席には背の高い体格よい男性が座っており、彼が近づくと御者台から降りて車の扉を開ける。
どうやら彼はこの馬車でここまできたようだ。
「放っておけばいいものを」
その御者は男性にぼそりと漏らす。フェリスはそのことに驚いて思わず御者を見つめると、男性がくすりと笑った。
「男なら放って置いたがな」
御者の無礼な物言いを気に止めることなく、男性はフェリスを抱いたまま馬車に乗り込んだ。