「?」
目を覚ますと薄暗かった。
すぐに額の上に置かれたもののせいだと理解する。無意識にそれに手をやると水に浸したらしく濡れていた。
布を少し動かして周りを見ようとしたが、視界がぼやけてよく見えない。ぼや〜っと目に映るのはきらきら光る緑色と、抜けるような青色だ。
思考もぼんやりとしているが、どうやら寝ている状況は飲み込めた。
青色は空で、緑色が木の葉だとわかるくらい視界がはっきりすると、その端に見慣れた茶色いツンツン頭が見えた。
「………ヒロ?」
俺の声にぱっと振り返るその顔は間違いなくヒロだ。
「よかった〜。気がついた。大丈夫?」
ほっとしたように笑うヒロに素朴な疑問が生まれる。
「なにしてる?」
「な〜にしてるって…。お前、それはこっちのセリフだって〜の!!」
俺の返事にヒロは大げさに額を押さえ、よろめくふりをして怒った。
その仕草に苦笑しながら起き上がり、そこでようやくここがどこかを知った。
俺が寝かされていた場所は待ち合わせた公園の木陰だった。
「かつら軽い日射病で倒れたんだよ。あんなところで一人で突っ立って何してたん?」
いまいち事態を飲み込めていない俺はヒロの説明でようやく思い出した。
そうか、俺はあのまま倒れたんだ。そういえばヒロの声が聞こえたきがしたな、とぼんやり思い出す。
コンクリート・フィッシュは多分捕獲したと思うが、その後秋山さんはどうしただろう。と、倒れる直前の記憶を思い出していて、ヒロの言葉を聞き逃しそうになった。
「…一人で?」
「うん」
聞き返す俺にヒロは当然のような顔をして頷く。
一瞬全ては夢だったのかと思ったが、何気なく落とした視線の先に秋山さんの黒い帽子があった。
それを拾い上げ、見つめている俺の隣でヒロが立ち上がって歩き出す。その背中を見送り、また視線を黒い帽子へと落とし、ヒロの言葉の意味を考えた。
どういうことだろう? あの時、秋山さんは俺の後ろにいなかったということだろうか? そういえば姿を確認していない。あのとき聞こえてきたのはヒロの声で秋山さんの声はしなかった。
「ほい」
考えている俺の視界に、ヒロの声と同時に青い色の缶が現れた。
「え? あ、ありがと」
冷たい缶ジュースを買ってきてくれたヒロにお礼を言いつつ、なにげなくそれを受け取って手を止める。
ヒロが買ってきたのはスポーツドリンク。俺はあまりそれが好きではない。それを知らないわけがないヒロが、なぜかそれを買ってきたことに疑問が生じる。
「おっほ〜♪ 気持ちいい」
缶を凝視する俺の隣に寝転んだヒロの声に目をやると、額に缶をくっつけて爽快そうに笑っていた。その姿にふと笑いがこみ上げる。
もしかしたらコレはただの嫌がらせか?
少し息をついてからプルトップに手をかけた。プシュっと窒素の抜ける音が漏れる。
「ヒロがここまで運んでくれたんだ?」
会話もなかったので聞いてみたのだが、ヒロは起き上がると真面目な顔で話し出した。
「いや。どっかの兄ちゃんが一緒に運んでくれた。介抱したのもその兄ちゃんで、起きたらソレ飲ませろってお金まで置いてった」
冷たいスポーツドリンクと、ヒロの微かな怒りが胸にひんやりと落ちた。
これはマジでヤバイかも。
なにも言えずまっすぐ前を向いたままの俺にヒロはさらに詰め寄る。
「ジーンズに半袖で、笑顔のステキな兄ちゃんだった」
「………」
「かつら君? 覚えがございましょ?」
目だけでちらりとヒロを見る。顔は笑っているが目が笑ってない。
「なきにしもあらず…」
「お前の言ってた笑顔兄さんってあの人だろ?」
俺の答えにヒロは表情を変えた。
これは完全に怒っているな。
そりゃそうだ。学校で会わないと言ってから時間はそんなに経っていない。ヒロがあの場所に現れたのも多分心配して様子を見に来たのだろう。
「ごめん」
長年の友人であるヒロにはわりと何でも話しているが、これ以上何も言えなかった。俺に起きたことを話すことでヒロも巻き込んでしまいそうで…。
嫌われるのを覚悟で沈黙した俺に、ヒロは小さくため息をついた。
「別にいいけどさ。あんまり危ないことするなよな〜」
しかしヒロは、怒るわけでも責めるわけでもなく、笑いながら肩をぶつけてきた。
意外なヒロの反応に思わずぽかんとしてしまった。俺の心配はまったくの取り越し苦労となったことに少なからず安堵を覚える。
何も聞かずに缶ジュースを飲むヒロを見て、俺もスポーツドリンクを口にした。薄く甘い水は乾ききった喉には少し痛く感じた。
「で? お魚さんは捕まえたの?」
――ゴックン。
「!!…ゴホッ、ゲホッ!」
前触れもなく突き出されたその言葉に思いっ切りむせてしまった。
「…な、何、言って!…」
言葉もままならないほど動揺した俺に、ヒロはこれ以上ないくらいの意地悪い顔で笑った。
「ふふん。かっチャン。お前は嘘つけない性格してるんだから、吐いちゃいな。楽になるぞぅ」
「………うぅ」
警察の誘導尋問のような巧みさで俺に詰め寄るヒロに、これ以上話さないでいるのは無理だと悟った。
「ふ〜ん。世の中不思議なこともあるもんだぁね」
俺に起きた話を聞いたヒロの第一声はこうだった。
あんな話を信じたのだろうか? 表情を見る限り、ヒロは否定的な感情はないように見える。
「…ヒロは信じるんだ?」
体験した俺自身が信じるのに抵抗があったことだけに、体験すらしていないヒロがそう簡単に信じられるだろうか?
「言ったろ? かつらは嘘つけない性格してるんだって。それに、あの兄ちゃんが現れたのもタイミングよすぎだし」
俺の質問にヒロはにっと笑って見せた。
「それにしても、警察の人には見えなかったな。大学生とかそんな感じ」
「俺もそう思う」
スーツ姿の最初の印象はサラリーマン。でも新社会人とかそんな感じじゃなく、スーツも着慣れている感じだった。しかし、今日見た秋山さんの印象だと大学生のようにも見えるくらいだった。
「もう会わないんだ?」
ヒロは俺の持っていた秋山さんの帽子を取り上げて被ったが、すぐに脱いだ。
「ん。多分な。…ってか、できることなら二度と会いたくない」
俺の今の素直な感想だ。もう二度と、永久に会いたくない。あの笑顔を思い出し手に力が入り、薄い缶がペコリと凹む音がした。
「無理かもよ?」
「あ?」
なぜか否定するヒロは帽子から何かを取り出して俺に差し出した。
どう見ても紙切れのそれには数字が並んでおり、その下に走り書きがあった。
【090−………
捕獲は成功。次に会う日まで元気でね】
「だってさ♪」
「……は…」
ヒロの明るすぎる声と、秋山さん直筆のコメントに笑いたくなったのは、決して嬉しいからではない。
暑い暑い今年の夏は始まったばかり。
世紀末の大予言は俺に限っては大当たりだった。
「あ、あっの、笑顔悪魔ぁ!! いつか絶対に殴ってやる!」