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コンクリート・フィッシュ 01
 世紀末の大予言も外れて久しい今年は、その大予言はこの暑さなんじゃないかと思わせるくらい、とにかく暑かった。


 夏休みに入り必要のなくなった目覚ましが、なぜかけたたましく鳴り響く。
 ああ、うるさい。うるさいが、一分鳴り続けると諦めたようにぴたりと止まることも知っている。いつものように、そのまま鳴りっぱなしにさせている目覚まし時計を片目を開けて見る。
 短い針と長い針が九十度を保ち指し示していた。
 ―― 9:00。
 学校に行っている間は八時にセットしている時計は、なぜか九時に鳴り出したことになる。という事は、俺が九時にセットしたということだ。
 ……なぜ?
 そんなことを考えつつ、また夢の世界へ旅立った。
 夢の中で俺は一人教室で真っ白なテスト用紙に苦悶していた。
 ああ、そうか、補習があるんだな…。
「…やばっ!! 今日補習だ!!」
 夕べの俺を思い出し、一気に覚醒した。ベッドから飛び起きて目覚ましを見る。
 ―― 9:15。
 どうして寝たんだ俺!
 制服に着替え、カバンをひったくるようにして部屋を出ると、そこはリビングルーム。親父の後ろ頭が真っ先に目に飛び込んだ。
「おはようさん。なんだ、どこかに行くのか?」
 休みには起きるはずのない時間に現れた俺に当然の質問が飛ぶ。
「別にどこでもいいだろっ!」
 親父が飲んでいたのだろう、牛乳を朝食代わりに一気に胃に流し込む。
 急いで玄関へと向かい靴を引っ掛けるが紐が結ばれていない。わずかに時間に余裕はあるが、それでも急がねばならない。時間とともにやってくる留年の危機に必死で紐を結んでいると後ろからのんきな声がかかる。
「なんだ。学校か?」
「別にどこでもいいだろっ!」
 休みの親父にかまってなどいられない。結び終わると同時に立ち上がりドアに手をかけると、なんともわざとらしい嘆きの声が聞こえてきた。
「ああ。大きくなるたび冷たくなるなぁ。かあさん、かあさん! 育て方間違えたか?!」
 その声だけで、おそらく父は悲しい顔を作り、よよと泣くふりをしているだろうと簡単に想像がついた。それはもう十七年の付き合いだ、見なくてもわかる。
 それを思い浮かべ、ため息をつき、ドアの向こう側から振り返える。
「はいはい。父上、俺はこれから学校へ行ってきます」
 やはり目頭を押さえ泣くふりをする父に、軍人よろしく敬礼してみせると、「おお」と歓声が上がった。なんとも能天気な父である。
 部活をしていない俺が夏休みに学校へ行く理由を、この親父は理解しているのだろうか?
「そうか、そうか。やっと勉強する気になったか。うんうん」
 そんな戯れをドアを閉めると同時に終え、とにかく走る。
 階段を駆け下り、マンションの自転車置き場に出るとあまりの暑さにげんなりした。
「雨降らねぇかな〜」
 雨の気配などかけらも無い、抜けるような空を仰ぎつつ、自転車にまたがり学校へ向けて走り出す。
 
 猛スピードで自転車を転がすと十五分で学校が見えてくる。
 学校が見えるとすぐに坂道に差し掛かるのだが、この坂道が問題だった。
 何が問題かと言えば、その傾斜具合である。それは最難関の峠のように、長く急な傾斜を誇っているのだ。
 俺と同じルートで登校するヤツらにこの坂は『魔の峠坂』と呼ばれている。
 みんなこの坂の手前で車が来ないことを確認し、前かがみになり猛然と自転車をこぐ。その助走の勢いを使って一気に上りきるのだ。それが俺たちの常識。
 いつもなら難なく助走の勢いとその惰性で乗り切るのだが、今日はしかし、そう簡単にはいかなかった。
 途中で勢いがなくなり、坂の頂点一歩手前でペダルが重くなった。
「……くっ…そっ!」
 今日の朝飯は牛乳一杯のみ。しかも体は寝起きだ。
 明らかに栄養不足で力にはならないだろう。少しだけ後悔した。
 しかしこの坂に負けるわけにはいかない。
 ゆっくりではあるが確実に、ひとこぎ、ひとこぎ頂点を目指す。
 その先には間違いなく平坦な道路が待っている。
「……もう…ちょ…い…」
 息を殺し、歯を食いしばり、できる限りの力を振り絞って、この難関を制す。
「……やた…」
 足はがたがた、息も切れ切れ、自転車もふらふら。
 それでも上りきった達成感は気持ちよかった。
 思わず洩れる声に拍手を送りたい気分だ。
 しかし、気を抜いたその瞬間。視界が一瞬にして真っ白になる。
 やばい、これは酸欠と貧血でめまいを起こしたようだ。
 このままでは確実に道路に倒れるだろうと思い、片足をついて自転車を止めた。
 まだ朝と呼べる時間だというのに気温はすでに三十度を越えていそうだ。そんな中で準備運動もなしにあれだけの運動をしたのだ、そりゃめまいの一つも起こすというものだ。
 気がつけば汗だくだ。しかしハンカチなんてものは持っていない。仕方がないのでシャツで汗を拭う。
「しっかし。本っ当に暑いな」
 思わず手をかざして太陽を見上げると、一つの影が俺の頭の上、前から後ろへと通り過ぎた。
「………?????………」
 ジィージィーとセミの声がやかましいほど聞こえている。その中に粘土質の液体の上に重いものを落としたような、表現の難しい音が一つ混ざる。
「……は?……」
 俺は突然目にした光景に呆然とした。いや、事態が飲み込めなかった。はっきり言って思考回路がショート寸前だ。
 それを目にしたら誰でもそうなると思う。
 俺の頭の上を――魚、が飛んでいったのだ。
「………」
 やばい。これはそうとうやばい。どうやら俺は幻覚が見えるほど体に変調をきたしているようだ。
「とりあえず、日陰へ………………」
 しかし、足は言うことを聞かずその場から一歩も動けない。
 先ほどまで伝い落ちるほど流れていた汗は完全に止まっていた。それの代わりに冷や汗が背中をつたう。
 いや。アレはただの影だ。魚となぜ言い切れる。
「鳥じゃ……」
 坂を上りきったせいではなく、鼓動が早く、息も苦しい。
 魚だと認識したのは、その影がどう見ても鳥ではなく、魚だったからに決まっている。しかし、見た自分すらも信じられない。
 魚が落ちていった俺の後ろを振り返って確認すれば、これが幻覚だと確認できる。そうだ、そうしたらいいじゃないか。何を迷う。
「………っ」
 なぜかひどく喉が渇く。
 口の中もカラカラなのだがあるだけの唾液をごくりと飲みこんだ。
 振り返る――。これだけの作業がなぜこんなにも緊張を必要とするのか。
 ハンドルを握る手が汗ばみ、俺の耳に聞こえているのは心臓の音だけだ。あまりの動悸の激しさにその場に倒れてしまいそうになる。
 それでも俺は意を決し、一気に振り返った。
 ――ペシッ!!
「気づけよ」
 俺の額に小気味よい音と、目の前に突然現れた友人の姿に、一瞬何があったのかわからなかった。
「………」
 瞬きを数回し、茶色いツンツン頭の友人を見つめる。
「ぅお〜い。かっチャン、生きてるかぁ? ってか、お前。補習遅れるぞ」
 ぽかんとする俺に怪訝そうな目を向けたが、すぐに意地悪くにやりと笑った。
「お、おお…」
 叩かれた額に手をやって生返事をする。いつもの通りの光景がそこにあった。もちろん魚なんかどこにもいない。
「ほら! 急ぐぞ!!」
「あっ! 待てって!」
 やっぱりあれは俺の幻覚。
 魚が空を飛んだなんて、しかも水の無いこんな道路のど真ん中で。
 聞こえた音も当然幻聴。
 そりゃそうだ、魚が道路を泳いでいるわけが無い。
「幻覚だよな?」
 それでも疑ってみたくなるほどそれはやけにリアルだった。
 

 キンコン、カンコン。と学校によく使われる音が響き渡ると、各教室がにわかにざわつく。といっても今は夏休み真っ只中。ここにいるのは補習を受けにきたやつらばかりだ。
 夏休みだというのに、補習を受けにわざわざ暑い教室に通わねばならないのは、一重に俺のせいなので文句は言えない。
「終わった〜」
 席に着いたまま伸びをすると教室の出入り口から声を掛けられた。
「かーつらぁ。飯どうする?」
 声をかけてきたのは朝、俺の額を叩いたアイツだ。その質問にカバンに入れてある財布を確認しながら答える。
「倉食堂やってるなら、そこ」
「たまにキャプテン行かね?」
「う〜ん」
 "キャプテン"とは喫茶店の名で、そこはクーラーがあって夏は極めて快適な店なのだが、学生身分の俺たちには値段が少し高い。その点、倉食堂は値段も安く量もいいのだが、扇風機しかないため店内はとにかく暑い。
 夏場のキャプテンはとても魅力的で、俺はある意味究極の選択を迫られた。
 迷う理由は他でもない。バイトの給料日がまだで財布の中身が寂しいのだ。
 返事を渋っていると俺の懐事情をよく心得ている友人は、そのことに思い至ったらしい。
「あそっか、かっチャン給料日まだだっけ。んじゃ倉食堂行こか」
 屈託無く笑うこの友人とは小学からずっと一緒だ。最近では珍しく俺を下の名前で呼ぶやつである。
 俺のフルネームは南 火烈。みなみ かつらと読む。
 高校に入ってからは八割以上「南」と呼ばれる。他のやつに言わせると下の名前を呼ぶのには抵抗があるらしい。字だけを見ると読み方がわからないとも言われる。そんなことはつけた両親に言ってくれ。
 倉食堂は学校から自転車で五分ほどの近場にある。店の名前が書いてある紺色ののれんが目印だ。
 夏場は暑いため出入り口の引き戸は開け放してあって、のれんをくぐると威勢よく「いらっしゃい」と声がかかった。
 中は昼時ということもありかなりの客が入っていた。
「あちゃ〜。席空いてるかな」
「ヒロ。あそこ空いてる」
 食堂の隅っこに二席空いているのを見つけて声をかけた。
 そうそう、こいつの名前は水戸部 比呂(みとべ ひろ)だ。俺と違い名前を間違われることはないが、高校に入ってからは「トベヒロ」と呼ばれているようだ。
 最近それが先生にも定着し始め、「来年の卒業式でそう呼ばれたらどうしよう」と笑っていた。
「えっと。おれ、カツどん」
「味噌ラーメン。大盛りで」
 席へ向かう途中、厨房のあるカウンターへ声をかける。これだけでちゃんと注文したものが運ばれてくるのだからすごい。
「そういや、かつら。朝どうした?」
 席に着いてカバンを置くとヒロがそう聞いてきた。どうやら今朝の俺の様子を心配してくれているようだ。
 その質問で今朝の光景がまざまざと思い出され、少し背筋が寒くなる。俺が見たものは結局なんだったのか、夢か幻か、それとも…。
「ああ…いや、ちょっとがんばり過ぎてめまいを。おかげでお魚さんが泳いでた」
 なんと説明していいのかわからず冗談っぽくそう言う。いや、冗談にして欲しかったというのが本音だ。
「はぁ〜? 魚? なにそれ! もしかしてOーマン?」
 俺の言葉に大いに受けたヒロは、俺の不安を払拭するように笑い飛ばしてくれた。
「そういや、あの坂でどっかのおばちゃんぶっ倒れて、救急車呼ばれたらしいよ。ここん所暑いし、あの坂マジで魔の坂だからな〜」
「はは。俺もぶっ倒れかけた。実際」
 ヒロの笑いに俺も笑う。きっとあれはめまいが見せた幻だ。そう思うことにした。
 その話題はそこまでで、昨日見たテレビの話題などで盛り上がっていると、ヒロのカツ丼と俺の味噌ラーメンが運ばれてきた。
「はい。お待ちどう。まいどあり〜」
「きたきた。いただきまーす」
「いただきます」
 料理と同時にお金を払うシステムがいつの間にかできている食堂で、食べれば後は店を出るだけだ。
 いつもと変わらずくだらない話で大いに盛り上がり、近くのコンビにまで行く。目当てはもちろんクーラーだ。店のドアを開くだけでひんやりとした空気が気持ちいい。
「なに買う?」
 当然のように向かったジュース売り場の前でカバンを開けて、ある意味寒くなった。
「…財布がない」
「え!?」
 その場にあるはずの俺の全財産が消失していた。
「倉食堂に忘れたんじゃね?」
「あ」
 ヒロの指摘に、そういえばお金を出して、テーブルの上に乗せたが、カバンに入れた記憶がない。
「はぁ…。取りに行くわ。ヒロどうする?」
 この暑い中一緒に行ってもらうにも気が引けるためそう聞くと、ヒロは腕時計を見てから缶ジュースを二本取り出した。
「おれはお帰りの時間だ。うちのちびっ子迎えに行かないとだめだから」
 ヒロの家は父子家庭というやつで、弟たちの面倒はヒロがみているのだ。結構苦労人なのである。
「そっか。んじゃ、またな」
「あ〜待て待て」
 出口に向かいかけた俺の目の前に、赤い色の缶ジュースをかざすとヒロがにやりと笑う。
「仕方がないからおごってやろう」
「うう。このご恩は一生忘れません」
「うむ」
 手を合わせてそう言うとヒロは満足そうに大仰に頷いて見せた。
 コンビニでヒロと別れ俺は来た道を大急ぎで戻った。
 倉食堂に入るとすぐにおばちゃんが俺の財布を笑顔で返してくれた。ほっと胸を撫で下ろし礼を言い店を出た。
「あ゛〜あちぃ」
 昼になり日差しは朝よりも確実に強くなっている。頭がジリジリと焼け付くような太陽光線に、植えてあるヒマワリも下を向いてしまっていた。
 その光景にさらに暑さが増す。こういう日はクーラーのある家にいるのが一番である。
 ここから俺の家までならあの峠坂を通るほうが早い。自転車に乗りながらヒロが買ってくれたジュースに口をつけた。
 峠坂手前に公園があり、そこのゴミ箱へ入れるためジュースを飲みきる。最後の一滴まで飲み干すために上を向いて、缶を逆さにした。
 太陽を直接見る形になり眩しくて片目を瞑った。その瞬間、視界に映りこんだものに思わず急ブレーキをかける。
「!!」
 ――ドッブン。
 目の前を、今朝見た魚が道路の中に吸いこまれるように潜り込んだ。
 今は間違いなくこの目で見た。幻覚ではない。めまいもしていないし、なにより道路に消えていったその瞬間を見ている。
「………な、んだ………」
 ジュースを飲み干し潤っているはずの喉が早くも渇き始めている。心臓が早鐘を打ち呼吸が苦しくなる。
「キミ、今の見た?」
「!!」
 突然かけられた声に驚いた俺は、思わず持っていた缶を取り落とした。
 ――カンッ!
 それは金属音をたて、間違いなく道路は硬いものだと証明した。
 声を掛けてきた人が歩み寄り、俺が落とした缶を拾い上げると、公園のゴミ箱へ放る。缶は見事な放物線を描いてゴミ箱へと落下した。
「それで? キミは見たのかな?」
 白いワイシャツに、緑色のラインの入ったネクタイ。濃紺のスーツの上着を片手に、涼しげに笑う男性はどこからどう見てもサラリーマンだった。
「……えっと。何を、ですか?」
 動揺を拭えない俺の返事に男性は小首をかしげてさらりとこういった。
「魚」
 その言葉に俺はなぜか全身の力が抜けるような感覚に陥った。自転車に乗っていたためとりあえずその場に座り込むことはなかった。
「大丈夫? ちょっと話せないかな? 喉渇いてない?」
 にこやかにそういうと、男性は公園の中へと入っていく。それを見て慌てて男性を呼び止めた。
「あの! あれって…」
 俺の言葉に男性は半分だけこちらを向いてただ笑った。
 間違いなくこの人はあれが何か知っている。そう確信できる笑みだった。いや、そもそもあれをこの男性も見たということか。
 公園に入って行く後ろ姿を見ながら俺は判断に迷った。強制的に「ついて来い」と言われたわけではない。というか、逃げたほうがいい状況だと思う。
「………」
 魚の消えた道路を見ても、俺が見たものが本当に現実にあったことなのか判断はつかない。そこは魚が潜れるような水があるわけではなく、硬い道路があるだけだ。
 唯一あれが現実だと思えることは、喉がひどく渇いているということだけだった。
 俺を動かしたものは男性の笑みだったのか、ただの好奇心だったのか。
 結局俺はその男性の後を追い、公園へと足を向けた。
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