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コンクリート・フィッシュ 03
 次の日もあった補習は、いつになくあっという間に終わった気がした。
 終わりのチャイムが鳴ると、俺は机にべったりと張り付いた。
「はぁ〜」
 結局、あの後魚を見ることはなかったし、今朝も登校途中で見ることはなかった。そのため昨日一日の出来事はまるで夢だったようにさえ感じる。
 唯一あれが現実だと確認できるものは、ズボンのポケットにしまいこんだままになっている名刺だけだ。
 それを引っ張りだして、目の前にかざしてみる。
 どこからどう見ても白地に黒の文字が等間隔に並ぶ普通の名刺だ。しかし、何気なく裏返してみるとそこは普通と少し違っていた。
 赤い墨汁、朱墨というやつでなにやら書いてある。よく神社のお札なんかに書かれているようなものだ。高校生の俺に到底読めるわけがない。
 その文字をじぃっと眺めていると、廊下から俺の名前を呼びながら走ってくる音が聞こえて名刺をしまった。
「かつら、かつら! 見てみ〜!」
 例により茶色いツンツン頭のヒロである。
「何事だ?」
 ヒロは俺の机の前の席に座ると、よく見えるように答案用紙の両端を指でつまんでみせた。
「上手いだろ。アン○ンマン♪」
 得意げに見せるそれは確かによく描けていた。
 …コレをわざわざ持ってきたのかこいつは。ため息が出そうになったが、頬杖をついて苦笑するにとどめた。
「…それだけじゃ腹は膨れない。どうせだったらショク○ンマンとカレー○ンマンも足してくれ。メロン○ンナもあるとなお嬉しい」
「贅沢を言うな。おれの限界はバイ○ンマンまでだ」
 俺の冗談に真面目な顔で答える。
「バイ○ンマンじゃ腹下すだろうが、せめてド○ンちゃんにしてくれ」
 そんな会話をしているとクラスのやつらが笑って野次を飛ばす。
「お前らそんなとこで漫才してるなよ」
「何〜!? ただじゃないぞ、金払え!」
 その野次にヒロが笑いながら受け答えをするが、俺はそれに参加するほど気分が乗らない。
 小さく息を吐き出したのをヒロが目敏く見つけ、首をかしげた。
「どした? あ! 告ってフラレた?」
 俺がそのくらいで落ち込むような性格をしていないことを、十分承知しているヒロは、にやりと笑って言う。
「振られたんならまだいい。年上の笑顔兄さんに脅された」
「笑顔兄さん? 誰それ?」
 言ってしまってから話すべきかどうか、限りなく迷った。
 俺が昨日体験したことを話したところで信じてもらえるか? 俺自身でさえまだ信じきれてない体験だ。いくら長い付き合いでも信じてはもらえないだろう。
 いつか話せる時がきたら話せばいいと思い直した。
「…なぁ。警察庁って警察のことだよな?」
 魚の話は別として、ヒロに一番気になっていることを聞いてみた。
 俺の質問の意図がわからないのだろう、ヒロはただ頷いた。
「警察官が身分を証明するときって警察手帳見せるよな?」
「うん。普通はそうだと思うけど? 何、職務質問でもされたん?」
 からかい口調で聞いてくるヒロに苦笑いを返す。
「その笑顔兄さんがそう名乗ったんだけど、手帳は見せられなかったな〜と」
 そういえばあの人、秋山さんは「一応所属は」と言っていた。一応ということは実は警察の人間ではないということだろうか?
「その人に脅されたって、なんて?」
 ヒロの質問に考えから引き戻される。
「え? いや、今日の昼会うことに」
 これは言うつもりはなかったのに、うっかりそう答えてしまった。
「会わないほうがいいんじゃないの? アブナイ人かもよ?」
「だよな。このままバックレたほうがいいよな」
 そう答えてこの話はここまでにした。世話焼きなところのあるヒロに全部を話すには気が引けたからだ。
 危ないことは昨日の時点でわかっている。あんなまともじゃない生き物と向き合っている人間だ、危ないに決まっている。
 俺の答えにヒロは何か言いたそうだったが、ここで俺にとってはタイミングよく邪魔が入った。
「お。トベ、お前今日は部室寄れよ」
 ヒロの部活の顧問が、ヒロを見つけ声をかけてきた。
「あ、はい。って先生、俺はミトベ! トベじゃないです! わりぃ、かつら。そういうわけでして」
 顧問に名前の修正をしてから、俺に謝る。本当はただ「今日は一緒に帰れない」と言いにきただけなのかもしれない。
「おう、わかった。頑張れ、水戸部比呂」
「うん。ヒロ、がんばるっ」
 俺のささやかな応援メッセージに、冗談で目元を手で拭いながら教室を出ていった。本当に愉快なやつである。
 俺もすぐに教室を出て自転車置き場まで行く。飯にしようかと思ったがあまり食欲がない。
 今日もとにかく暑い。太陽が輝く空は雲ひとつない晴天。遮るものが何もなく、直接紫外線が突き刺さって痛いくらいだ。
 その日差しを浴びながらまた道路に立ちっぱなしなのかと思うと気分が沈む。しかし、一度付き合うと決めてしまった以上そこから逃げるのは性に合わない。
「はぁ。俺って実は律儀な性格なのかな〜」
 重い気分を引きずりながらも結局、約束した公園にやってきた。
 公園内を見渡すが秋山さんはまだ来ていない。あまりにも暑いせいか、子供の姿もなかった。
「待つか」
 日陰を探して座るが何か落ち着かない。考えないようにしていても緊張のほうが勝手にやってくる。自然と心臓がドキドキ鳴り始め、周りのセミと同じくらいやかましくなる。
「ごめんね南君。待ったかな?」
 いつの間にやら秋山さんが横に立っていた。
 少しびっくりして秋山さんを見ると昨日と違い、黒いキャップを被りジーンズに半袖姿だった。その姿にこの人の年齢というものがふと気になった。
「今日も暑いね。あれを捕まえるには絶好の日和でもあるけど、こっちが参りそうだね」
「そうですか?」
 嘘だろうという思いが半分、嫌味が半分。汗一つなく涼しそうに笑う秋山さんは絶対に参ることなどなさそうだ。
「南君は若いから平気? それとも単なる嫌味かな?」
「あははは〜」
 さすが秋山さん、見事に俺の思考を読み取ったようだ。笑ってごまかすしかない。
「そうそう、その調子で頑張ってね。じゃあ、行こうか」
 気分を害することもなく、秋山さんは昨日と同じ方角へ向けて歩き出した。俺も腰を上げそれに続く。
「今日はちゃんとあれが来るといいね。あ、昨日あれから会った?」
「いいえ。会いませんでした」
 少し後ろを歩いていた俺を振り返りながら聞く。一応気にはしてくれていたようで「よかった」と微笑んだ。
 昨日と同じところに同じものが用意されていた。
「昨日と同じように立ってくれる?」
「はい」
 俺は昨日と同じように四角に張られたテープの外側に立った。
「わっ!!」
 突然、ぽふっと頭に何か被さってきた。
「暑いからね、そのままだと日射病で倒れるよ」
 頭に手をやると秋山さんが被っていた帽子があった。
「ありがとうございます。って、秋山さんは?」
 俺に渡したことで今度は秋山さんが直射日光を浴びることになる。
「僕は大丈夫。気にしないで」
 そう笑顔で請け負う秋山さんに、やっぱりこの人は参ったりしないんだと密かに思った。
「…これ遠慮なく借ります。あの、それと質問があるんですけど…」
 借りた帽子をきちんと被り直して秋山さんに尋ねてみた。
 そんな時間はないと言われるかと思ったが、秋山さんはいつもと同じように笑って頷いてくれた。
「そうだね。たくさんあると思うけど、僕以外の質問になら答えるよ」
 釘を刺されたことで俺の最大の疑問は封じられてしまった。しかし、聞きたいことはなにも秋山さんのことだけではない。
「昨日『あれが見える人がいたとしても』って言いましたよね? あれってどういう意味ですか?」
 昨日、聞き返すには遅すぎて聞けなかった疑問を秋山さんに聞く。
「ああ。そのままだよ。普通の人にあれは見えないんだ」
 秋山さんのその言葉を受け入れるにはかなりの時間を要した。
「昨日も言ったけどコンクリート・フィッシュは人に危害を加えない。だから本来は放っておいても問題はないんだ。ただ、南君が見たコンクリート・フィッシュはちょっと強くてね。あれを見て心臓を止めた人がいるから捕獲の要請がきたんだ」
 そういえば昨日ヒロがこんなことを言っていた。
 『あの坂でどっかのおばちゃんぶっ倒れて、救急車呼ばれたらしいよ』
 あれはもしかしたらそのせい?
 呆然と話を聞いている俺に秋山さんはさらに続ける。
「南君に協力をお願いしたのもそういう訳があるんだ。ああいう類のものに対して力があるし、南君は良くも悪くも引き寄せてしまうタイプだからね。囮に適任」
「あの…ちょっと待ってください。それって俺は普通の人と違うってことですか?」
「うん」
 信じられない言葉を秋山さんは簡単に肯定してくれる。
 秋山さんが普通の人と違うことは昨日の時点でわかっていた。しかし、俺自身がそうだなんて信じられない。いや、信じたくない。
 沈黙した俺に秋山さんは何を感じたのだろう。俺の両肩に手が置かれた。
「そう落ち込まないで。ただ見えるだけだし、こちらから関わらない限り危険な目にあうことなんかないから」
 にこやかに告げられる言葉は励ましのように聞こえるが、実際のところそうではない。
「こちらから関わらない限りって、俺、今思いっきり関わろうとしてるんでけど!」
「ははは。気にしない、気にしない。さ、もう呼ぶからね。動いちゃだめだよ」
「秋山さん!!」
 どこ吹く風で立ち去る秋山さんに叫んでみるが効果はない。
 俺はあの魚を見たとき、間違いなく超えてはいけない一線を越えたのだ。そして、秋山さんはその一線の向こう側にいる人で、どうやら俺もその中の一人になってしまったらしい。
「絶対にあとで殴ってやるっ」
 後ろに立つ秋山さんにそう言ってはみたものの、実行はできないだろう。
 俺の言葉が聞こえていたのかどうか怪しいほどの笑顔で前を向くように指示を出す。まぁ、この笑顔悪魔を殴ることができたとしても後が怖い。
 限りない脱力感に襲われながら、昨日と同じように四角に貼られたテープの前に立ち、それがくるのをただ待つ。
 しかし、いつまでたってもそれは姿を現そうとはしなかった。
 炎天下。いくら帽子があるとはいえ、立っているのもつらくなり視線を落としてみると、俺の影は足元に丸く集まっていた。それにより間違いなく太陽は俺の真上にあるのだと知る。
 道路は上と下からの熱で気象庁の予想気温より確実に暑いはずだ。
 汗は止めどなく落ちるし、首筋はジリジリと焼け付くようだ。
 その暑さを強調するように路上には陽炎が揺らめく。
「秋山さん。このままこなかったらどうするんですか?」
 俺の真後ろの立っているはずの秋山さんに声をかけたが返事はない。これはこのままこうしてろと言うことだろうか。なんか泣きたい気分だ。
 ここに立ってからどのくらいの時間がたったのか、時計をしていないためわからない。本格的に立っているのもつらく、めまいを引き起こしそうだった。
 もうだめだ。座ろうかな…。
 立っていないとだめだとは言われていない。どうせ俺はあの魚を釣るための餌なんだから、ここにいれば問題はないだろう。
 そう自分に言い訳をしていると目の前の道路のずっと先に変化があった。
 焼けた道路に発生した陽炎の中を何かが移動している。まるで有名な映画のサメの背びれのようだ。
「…あ、きやま、さん…」
 後ろに声をかけたが、緊張で喉がカラカラになっていて声がでない。
 俺はごくりと無い唾を飲み込んだ。にわかに心臓が早鐘を打つ。
 絶対に何があっても動くなといわれているが、それ以前に金縛りにでもあったように動くこと事態不可能だった。
 しかし、これまでの経験で少し余裕ができていたのか、それとも単なる慣れか、前回はまったく気がつかなかったことに気がついた。いや、見えた。
 ぅうわぁ…
 それを見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
 突起物が移動する道路に紫色の光のラインが、まるで道しるべのように俺の足元まで伸びているのだ。
 これが現実だとどうして信じられるだろう。俺は間違いなく、いてはいけない世界にいる。そんな気がした。
 しかし、そんなことを考えている場合ではない。その間にもどんどん突起物は近づいてくる。
 近づいたことでその突起物がコンクリート製だと判断できた。
 大きさからいって間違いなく、あのコンクリート・フィッシュだろう。
 俺は覚悟を決めて拳を強く握った。
 来るなら来い!!
 その心の声が聞こえたかのように、ゆらゆらと進路を決めかねるように左右に動いていた突起物は、突然こちらに向かいスピードを上げた。
 怖くないといえば嘘になる。逃げ出したい気持ちを抑えるために唇を噛んだ。
 しかし、その突起物は俺との距離およそ五歩のところで道路に潜り込んでしまった。
「え…?」
 予想外な展開に気を緩めたその瞬間、目の前にとてつもなく大きなコンクリートの塊が飛び出した。
「うわっ!!」
 昨日とはまるで違うその迫力に、俺はとっさに頭を押さえた。
 飛び出す勢いで作り出された風は砂を巻き上げ、反射的に目を閉じてしまった。
 そのため頭上を飛んでいく恐ろしく大きなコンクリート・フィッシュを見ることはできなかった。いや、見たくない気持ちの方が大きい。
 ――シャン!
 一瞬の沈黙後、背後でガラスに砂がぶつかる音がした。昨日よりも大きく聞こえたそれに捕獲が成功したとわかった。
 目をゆっくり開けるとそこには紫色の光のラインもなく、いつもと変わらない道路があった。
「…終わった…」
 いつもの光景に一気に力が抜け倒れそうになる。それを防ぐために膝に手をつくと、まるで全力疾走した後のように心臓がバクバクしていることに気がついた。
 忘れていた暑さにも襲われたことでやけに息が苦しい。息を整えるために深呼吸をすると喉は渇ききっていて痛いほどだ。
 そういえば秋山さんはどうしたんだろう?
 今日は聞こえてこない声に俺は秋山さんがいる後ろに目をやる。
 その時、俺の耳に意外な人物の声が届いた。
「かつら?」
「!」
 俺を呼ぶ声に驚き、今の自分の状態も忘れて一気に体を起こした。
 案の定、許容範囲を超えた行動に視界がぐにゃりと歪む。
「かっチャン、何や…って、かつら!!」
 遠くなる意識の中で、聞こえるいつのも声が驚いたように叫んだ。
 目の前が真っ暗になり俺が覚えているのはそこまでだ。
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