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こたえる声
05
 アトラスの訪問を最後に、ディーディラン最後の夜は更けていった。
 荷物の整理もつき、することもないので本を読んでいるのだが、どうも集中しきれない。
 原因はわかっている。
 昼間のアトラスの言葉のせいだ。
 深くはない言葉だったのだ。スノーリルの言葉への意趣返しであって、それ以上の言葉ではない。
 それなのに、そのたった一言が心の奥をずっと締めつけている。
「スノーリル様」
「そろそろ時間?」
「はい」
 今朝早く、メディアーグ夫人の訪問よりも早く、シルフィナからの招待状が届いていた。始めは行かないつもりだったのだが、そこに書かれている内容に断るには少し可哀想かと、結局受けることにした。
 その内容というのが、スノーリルの滞在時間がなくなることを知った王女エマリーアが、どうしてもと駄々をこねたということだった。そこでようやく思い出したのが、その前にあったお茶会の誘いで、話が来るまですっかり忘れていた。
 さすがに断りづらい誘いで、夕食を一緒にと朝一に予約が入っていた。
 場所は後宮内ということで少し緊張していたが、さすがに明日帰るスノーリルに突っかかってくる人間もいないだろう。できれば王妃には会いたくはない。
 そんな事を思いながら席を立ち、カタリナの後ろを歩いて行くと、ちょうど扉が叩かれた。
 カタリナが出てみれば立っているのはサミュエルとアドルだ。
「申し訳ありません。執事殿に用がありまして」
 奥にいるスノーリルが見えたのだろう、サミュエルが挨拶の後にそう告げてきた。
「シルフィナ様とお食事があると聞きまして、後宮前まではアドルが同行しますので、来ていただけませんでしょうか?」
 サミュエルはきっと難色を示すだろうカタリナの先手を打つ形で、アドルを連れてきたようだ。間違いなくアルジャーノン大臣の策略の匂いがする。
 少し迷惑そうな顔をしたカタリナが振り返る。それにスノーリルは笑顔で頷いた。
「大丈夫よ。マーサとリズを連れて行くから」
 後宮は原則として男性は入れないが、侍女が二人いればさすがに牽制になるだろう。
「それにシルフィナ様もいるし」
 エストラーダとよく似た感じがする王女に、スノーリルはそれなりに信用を寄せている。王妃にスノーリルを売ったりしないくらいには。
 少し思案した様子のカタリナも、小さく息を落として頷いた。
 
 
 急遽、マーサとリズ、アドルと一緒に後宮へ向かうスノーリルの後姿を見送り、カタリナはサミュエルと一緒に廊下を進んでいた。
 会話は一切なく、ただ連れられるにまかせ歩き、ついた先は意外な場所だった。
 威厳すら漂うような、重厚な木製の扉。その意味を知らないほど世間知らずではない。
 サミュエルがその扉を叩くと、中から扉が開けられた。
 現れたのは濃い灰色の髪。"サニー"メディアーグその人だった。
「悪かったなサミュエル。できればアルジャーノンには黙っていてくれ」
「はい。では、私はこれで」
 頭を下げ、サミュエルはすぐにその場を去った。
「聞きたい事があってな」
 サミュエルが姿を消すと、それだけを言い扉を開け放したままメディアーグは部屋の奥へ進んだ。入るも去るもカタリナの自由らしい。サミュエルを寄こしたのはどうやらメディアーグのようだ。そう考えるとアドルを用意したのもメディアーグであろう。
 しばらく部屋の前で逡巡したが、開けっ放しの扉をくぐり、閉める事はせず一応の警戒は示して部屋の奥に進む。と言っても、扉に一番近い机にすでに人が一人鎮座しているのが見えていた。
 立っているメディアーグより扉に近い位置で止まると、ひとつ礼を取る。
「スノーリル様の執事をしております。カタリナ・ラストールと申します」
 腰を曲げるだけの礼をし、真直ぐ椅子に座るその人物を見つめた。
「クラウド・ディーデル。一応この国の皇太子だ………ラストールの意味をスノーリルは知っているのか?」
 あまりに単刀直入な質問に正直驚いた。しかし、表情に出すことなく一度メディアーグを見る。彼の言う「聞きたい事」とはそのことだろうか。
 まさかそんな事を聞かれるとは思わなかったが、視線を戻し一つ頷いた。
 首肯しただけのカタリナを気にすることなく黒髪の皇太子は続ける。
「そうか。…ラストールは誰に仕えている?」
「お聞きになってどうするのですか」
 その質問にそれまであった雑念が一気になくなった。
 言外に、関係ないだろうと含ませる。まっすぐにお互いを睨みあったまましばらく沈黙が部屋を満たした。
 重苦しく、ぴりぴりとした緊張感があり、空気の流れすら雑音のように聞こえるほど静かであり、そう感じるほど全神経を研ぎ澄ませているその事実に、カタリナは心中で笑った。
 臨戦態勢をとっているのは何のためなのか。
 まさか、本当に皇太子を殺すわけにはいかない。目の前に泰然と座るこの男は、カタリナの唯一の主であるスノーリルの想い人だ。もし、ここに愛用の剣があったとしても、きっとカタリナには殺せないだろう。そのくらいスノーリルは大事な人で、それと同時に、例え目の前の男が他国の皇太子ではなくても、スノーリルの想い人だということだけで殺せはしないのだと思い知る。
 思いは行動にはならず、行動に移すための動機も今のところない。
「用件はそれだけですか?」
 沈黙を破ったが質問に明確に答えるほど許してはいない。
 ラストールの意味を、と言った。ということは、この男はその意味を知っているということか。スノーリルはそのことを知っている。脅しには使えないし、使ってもらっても一向に構わない。それほど脆い絆ではないと信じている。
 こちらの返答に皇太子は少し息を吐き出し、視線を机に落とした。
「僕は、今でも多方面から命を狙われている。かつての父のように、皇太子としての務めを果たすのが一番良いことだということも、嫌というほど知っている。でも、これだけは、何があっても譲れない。譲るつもりはない」
 突然話し出した声はここで一度切られた。
 ゆっくりと見上げてくる鮮やか緑の瞳は強く、揺るがない決意を感じさせた。
「スノーリルをもらう。邪魔は許さない。それが例え、ラストールでも」
 強く言い切った言葉に、くすりと笑う人がいる。視線をやらずともメディアーグである事がわかる。
「クラウド。お前、宣言するために執事殿を呼んだのか? 違うだろう」
 ゆっくりと動く気配に視線を投げると、片手を挙げて何もしないと微苦笑する。
「頼むから睨まないでくれ。できればこの場から逃げ出したいんだからな」
 椅子に座るクラウドとカタリナの距離はかなりある。メディアーグはその間に立つように割り込むと、皇太子の机に腰を預けた。
「聞きたい事は一つだ。カタリナはスノーリルの味方なんだな?」
 どうやらそれてしまった話を戻したらしい。
 どこかふわりとした印象を落とすメディアーグの言葉には確信があり、否定する必要もなかった。
「マーサは、スノーリルに従うと言っている。おそらくそれがどんな結果でもだ。だが、マーサとカタリナは、違うだろう」
 これも確信を持って聞かれる。
 マーサもカタリナも思いは一緒だ。スノーリルの幸せを願っている。
 だが、お互いにその思いに違いがあることにも気付いている。マーサはあくまでも王女であるスノーリルの幸せを願っているのに対し、カタリナはスノーリル個人の幸せを願っている。
 姫としての幸せと、個人としての幸せは違う。
 メディアーグはどうやらそれをこの短い間に見抜いているようだ。
「さすが、情報を操っているだけはありますね」
 夫人の言葉から察するに、きっとそういうことだろう。
 メディアーグもカタリナの言葉を否定はしなかった。目を細めて微笑するとわずかに首をかしげた。
「答えは?」
 さすが、元皇太子とでも言うべきか。
 いや、きっと人心掌握術ではこの人のほうが上なのだろう。しかし、答えを聞きたいのはメディアーグではなく、その後ろにいる皇太子だろう。そちらに視線を戻して答える。
「邪魔はしません。ただ、あの方の心を動かすのは容易なことではありません」
「わかってる」
 やはり目を合わせると睨みあう形になってしまうのは、別に意図したわけではない。お互いに譲れないものがある、ただそれだけだ。
 その緑の瞳を捕らえたまま、こちらからもずっと聞きたかった事を聞いてみる。
「貴方は、スノーリル様を好きなのですか?」
 トラホスの王女としてではなく、太陽王の娘としてではなく、「白姫」としてではなく。
 意味は通じたと思って返事を待つ。
 すると、対峙していた緑色の瞳から強さがなくなる。その代わり眉を寄せた。
「ラストールに言っても仕方ないだろう」
 その言葉にメディアーグが思わずと言った感じで吹き出す。その背中に睨みを一つ向けてから、少し考えるようにして机の上に視線を落とした。
「僕は、リルしかいらない」
 あの強い宣言が嘘のような、ぽつりとした呟きだった。
 その言葉にはっとした。
 そうなのだ。スノーリルを"リル"と呼んだことが全ての答えなのだ。
 今と昔では立場が違うとスノーリルは言っていたが、それはきっとスノーリルだけが思っている感情ではないのだろうか。
 先ほど彼は確かに「スノーリルは」と言っていた。それが今は「リル」と呼んだ。それはきっとカタリナがスノーリルを「姫」と呼ばない事と同じ理由であるはずだ。
 それを裏づけるものとして、彼はスノーリルをわずかな時間で探し出した。その事実はカタリナに大きな心境の変化をもたらしていた。しかし、だからこそ苛立ちがあるのも事実だ。
 頑ななスノーリルを、一度捕まえられる決定的な機会があったはずだ。
 スノーリルが港へ逃げたあの時である。
 なのに、どうしてか、戻ってきたスノーリルは帰る決意を固めてしまった。それはきっと、決定打を打たない、この目の前の男が悪いに決まっている。
「私は、もう二度と、あの方が髪を切る姿を見たくはないのです」
 そう、もう二度と。
 あんなことはさせないと、彼女の両親と自身に誓った。
「それは僕も同じだ」
 あの当時を知る皇太子も強く言う。
「だから、邪魔はするな」
 再びの強い宣言にカタリナは思わず笑みをこぼした。
「わかりました。邪魔はいたしません」
 どうやらこの皇太子殿下は意外に自信家であるようだ。
「お願いですから、捕まえるのでしたらしっかり捕まえてください。でないと本当に逃げられますよ」
 カタリナのその言葉を聞いたメディアーグがゆっくり後ろを振り返るが、その前にすでに皇太子は眉を寄せて視線を落としていた。
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