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こたえる声
04
 次の日は夜が明けきる前に目が覚めた。
 穏やかな気候であるため、朝でも上着を羽織るほど寒くない。
 寝巻きのままそっとベッドを抜け出し、窓を開けて空を見あげる。太陽の昇る方角はこの窓から右側を覗きこまなければならない。ぼんやりと森の影に色をつけながら朝日が昇ってくる。
 大陸から見た日の昇る場所はトラホスのある位置である。その方角をぼんやりと眺めていると後ろから控えめに声がかけられた。
「スノーリル様」
 振り向かずともわかる執事の声におもわず苦笑が洩れる。
「大丈夫よ。明日まで待つから」
 言いながら窓を閉め、カタリナを振り返る。その姿を認めて少しだけ驚いた。
「起こした?」
「いいえ。気になって起きてきただけです」
 珍しく寝巻きのままのカタリナに首を傾げて尋ねると苦笑が返った。
「明日も晴れるといいですね」
 今日が始まったばかりの朝に、すでに明日の朝の天気を口にするカタリナに、スノーリルはただ頷いた。
「お着替えになりますか?」
「そうね。うん。着替えてしまうわ」
「はい」
 返事をして引っ込むカタリナを見送り、もう一度窓の外を見る。
「晴れるといいわね」
 誰にともなく呟いた声が他人事のように、どこか遠く感じた。
 

◇ ◇ ◇ ◇

 
 その日、マーサとリズは荷造りに忙しく、スノーリルも手伝っていたのだが、お昼前に訪問者がいると告げられた。
「どなた?」
「ミア・メディアーグ様です」
 意外な名前を聞いて驚きはしたが通すように言うと、件の夫人はにこやかにやってきた。
「お久しぶりです。先日は夫が失礼な事を言ったのではないかと、気が気ではなくてやって参りました。お時間は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。少し騒がしいですけど」
「気になさらないでください」
 荷物をまとめていると言ってもそれほどの荷物があるわけでもなく、実際はいつもと同じくらい静かなものだ。時々何か物を落とす音がするが、それはきっとリズが何か粗相をしているのだろうと思われる。
「夕べ、夫からスノーリル姫がトラホスにお帰りになると聞いて驚きました」
「突然決めたので。挨拶もできなくて申し訳ありません」
「いいえ。それぞれ事情がおありでしょうから」
 窓際のテーブルへ座ることなく話していたのだが、カタリナがお茶を持ってきたことでようやく座った、その仕草に不意に覚えのある違和感があった。
「…あの」
「はい?」
 どういうべきかと言葉を探して自然、視線が下に動く。
 スノーリルの視線の動きに夫人も視線を動かすと、「あら」と小さく微笑んで顔を上げた。
「もしかして、おわかりになるのですか?」
 その言葉が肯定を意味した。
「あの、やっぱり」
「はい。私も驚いているのですが、どうやら子を授かったようです」
 幸せそうに微笑んでお腹をさする夫人にスノーリルも微笑んだ。
「おそらく二ヶ月くらいでしょうか。でも、どうしておわかりに?」
 まだ目立つほど膨らんではない場所を見たスノーリルに、夫人は素朴な疑問を投げかけた。
「え? えっと、さあ…?」
 説明しようにもスノーリルにもわからない。ただ、姉の妊娠や、大臣の妻、侍女の妊娠なども当てていて、トラホス貴族の間では広く知られている。それにより、スノーリルはやはり「白異」なのだと畏怖の目で見られる一因でもあった。
「スノーリル姫にはきっと幸せを見つける力があるのですね」
 にっこり微笑まれてそんな風に言われると逆にぽかんとしてしまう。
「お幸せですか?」
「ええ。もちろんです」
 何のためらいもなく言い切る夫人が眩しかった。
「そうですか」
「スノーリル姫も幸せにならなければなりませんよ。人に与えてばかりではいけません。ね? 執事さんもそう思うでしょう?」
 少し離れた所にいたカタリナを振り返って夫人は同意を求めた。
「はい」
「不幸がそうであるように、幸せも人に等しくやってきます。世の中とはそうしたものだと、身を持って知っている者の意見として聞いてください」
 まるでスノーリルが拒否するのをわかっていたように、やんわりと微笑みながら優しく告げる。
 強い女性だと、そう思った。
 だからこそ幸せなのだろうと、そうも思った。
 スノーリルにはその幸せを受け取れる強さがない。
 否定も肯定もさせぬまま、話はトラホスの話になり、しばらく話しこんでから「では」と夫人が立ち上がるまでゆったりとした空気が流れていた。
「明日、見送りに行きますね。嫌だといっても行きますから。それを言いにきたのです」
 にっこりと断ることは出来ないのだと先に告げられ、苦笑して頷いた。
 夫人が帰るとすぐに昼食の時間だった。
「随分話しこんだのね」
「はい。夫人は話し上手ですね。先ほどアトラス様からも面会の申し出がありましたが、いかがなさいますか?」
「アトラス王子が?」
 夫人がいると告げると午後からでもといいと去って行ったらしい。
 最後に会ってまだそれほど日数はたっていないはずであるが、遠い昔のような感じがするほど気にもなっていなかった。
 話があるとしたら今回の帰国のことだろう。
「いいわ。会いますとお返事してくれる?」
「わかりました」
 本来はあちこち回ってお暇を告げなければならないのだが、突然決まったことでもあるし、事前に会う手続きがなければ大抵の貴族は会ってくれないこともある。それを理由にあいさつ回りをしていない。
 本音はただ単に、部屋から出たくないだけだが、あいさつするほど親しいわけでもない。
 
 
 昼食後、テラスから差し込む光の当たる場所でゆったりと過ごしていると、アトラス訪問の知らせを受けた。
 立ち上がり扉をくぐってくる王子に一礼する。
「お帰りになるとか?」
 開口一番の言葉に思わず苦笑が洩れる。
「はい。突然で申し訳ありません」
「本気なのですか」
「はい」
 身振りで席をすすめると首を振るのでそのまま立ち話になる。
 仁王立ちしたアトラスは腕を組んでじっとスノーリルを見据える。濃いこげ茶色の髪は光を直接受けないと黒く見える。しかし、やはりというか、クラウドとは似ていないと思った。
 ぼんやりとその容姿を見つめていると、アトラスが少し眉を寄せ視線を横に逸らした。
「兄上には言ったのですか」
「はい。港で会った時に直接申し上げました」
「他にも何か話しをしたのですか」
「はい。少しですけど…」
 本当に少しではあるが、帰る以外の話しもした。しかし、質問の意味がよくわからない。何が聞きたいのだろうかと小首をかしげる。
「話をしてどう思いましたか?」
 そんなスノーリルに気付いたのか、まっすぐ見つめてくる質問に、いつかの「絶対はない」という言葉が頭を過ぎった。
「それは私ではなく、クラウド王子にお聞きになったほうがいいですよ」
 例えこちらが気に入ったとしても、何かが起こるわけがない。起こる可能性があるとしたら、向こうの感情だ。そして、それも起こるはずのない現象で、アトラスが危惧する事など何もない。
「私は明日、朝一の船でトラホスに帰ります。大臣にもクラウド王子にも了承を得たからこそ、帰るのですよ」
 反対をするものなどそもそもいない。いや、もしかしたら軍部の人間は少し待って欲しいかもしれない。でも、スノーリルの役目はまた違うし、すでにその役目も全うしている。
 話しに耳を傾けていたアトラスは小さく息を吐き出した。
「兄上が貴女に興味を示さなかったのでしたら、それでいいです」
 ほっとしたようなため息に、今度はスノーリルがアトラスをじっと見つめる。
「だから、私の気を引こうとしたんですか?」
 ふと思い浮かんだ理由を口にするとアトラスがはっとしたように目を見開いた。それが肯定を表していることは間違いない。
 なんのことはない。やはりアトラスはスノーリルのことなど好きではなかったのだ。
 そのこと自体どうでもいいのだが、アトラスがそれほどクラウドを大事にしているとは思わなかった。
「兄上はこのディーディランの王になる。それを邪魔するような要素は早々に取り除かねばならない。貴女には悪いが、できれば今後近付いて欲しくはない」
 今までになく熱心に語られる言葉は決してスノーリルを虐げているわけではない。純粋に兄を案じているのだとわかった。
 以前はアトラスの方が皇太子に近かったと言われていたらしいが、誕生に三日しか違わない兄が国王になることに疑問はないようだ。
「アトラス王子。初めからそうおっしゃっていただいていたのなら、私はダイアナ様に打たれることなどなかったかもしれません」
 あの一件はそもそもアトラスがスノーリルを欲しいなどと言ったことが原因だ。
 しかし、当のアトラスはスノーリルの言葉の意味を理解はしていない様子で、眉を寄せ困惑を示しただけだった。
「クラウド王子ばかり見ていないで、どうぞ周りにも目をお配りください」
 からかいの混ざる声に、ようやくアトラスもからかわれている気が付いたのか、ほのかに頬を染めそっぽを向いた。
「俺の話はそれだけです。航海の間、何事もないよう無事をお祈りします」
「ありがとうございます」
 スノーリルよりも年上であるアトラスであるが、どこか可愛く見えにっこりと微笑んでお礼を言うと、それが気に入らなかったのかまた眉間に皺を寄せてしまった。
「一つだけ聞いてもいいですか?」
「はい」
「貴女はどこまで知っていたんですか?」
「どこまで…とは?」
 知っている事はほとんどない。ここに来てから自分の役目を知ったくらいだ。
 質問の意味がわからず聞き返したのだが、アトラスは頭痛がするのか、こめかみの辺りに手をやって目を閉じ、少し疲れたように言葉を吐き出した。
「いえ。もう、いいです」
「?」
「もう一つだけ…」
「はい」
 こちらは聞きにくいのか、しばらく視線を床に落とし思案しているようだったが、それが終わり顔を上げた。
「クラウドが貴女を好きだと言ったら、貴女はどうしますか?」
 思ってもみなかった質問に、スノーリルはしばらく呆然とアトラスを見つめた。その瞳にある、はぐらかすことを許さない真摯な眼差しにどう答えるべきか迷った。
「わかりません。自分でも、どう答えるかなど…」
 その時になってみないとわからない。
「好きですか?」
「はい。もちろん」
 ぽつりと聞かれた言葉に、反射的にそう返した声に驚いたような視線を受け、スノーリルは続ける。
「もちろん、アトラス王子のことも好きですよ。そのくらいの感情は許して欲しいです」
 続く言葉の間、絶句していたアトラスは、スノーリルの言葉が終わると目を閉じ眉間に皺を寄せ、長いため息を落とした。
「やはり貴女は危険要素だ。早くトラホスに帰るか、俺の所に来るかしてください。それ以外は許しません」
 厳格な父親が取り決めたことを話すような口ぶりで告げるアトラスに、束の間ぽかんとしたが、思わず吹き出した。
「笑い事ではないです」
「ごめんなさい。ええ、そうですね。ふふっ」
 再びそっぽを向いてしまったアトラスはまたぽつりと洩らす。
「兄上も貴女が好きですよ」
「え」
「もちろん。俺もですけど」
 ぴたりと笑いを納めたスノーリルに、口の端を上げて笑う。悪戯っぽいその表情があまりにも似ていて思わず絶句した。
 胸の奥にズキリと痛みが走って、一瞬息が止まった。
「ありがとうございます」
 笑顔でそういうだけが精一杯だ。
 アトラスは話はこれで終わったと踵を返す。その背中が扉に消えた後もしばらくじっとその扉を見つめていた。
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