以前の所有物であったその場所は今でも無断で入ることを許されているが、今の立場は間違いなくただの貴族だ。威圧感すら漂うその扉を二度叩く。
しばらく返事を待つが全くの無反応だ。
ままあることで、少しだけ思案してから取っ手に手をかけ、部屋を覗きこむ。そこには定位置に、今は何もない机の上を見つめる青年が一人。
「なんだ、いたのか。クラウド」
「…兄上」
声をかけられてからやっと気が付いたらしい青年は、まるで気が抜けたように机の上に突っ伏した。珍しい反応に少し口の端をあげ、目の前にまで歩み寄る。
「仕事ははかどっているようだな」
抜け出した昨日の分の書類の山はもちろん、今日の分の書類もあらかた片付いている。その事実が彼の心理をよく表していて思わず苦笑してしまった。
「お前は本当に有能だよな。こんな時に仕事など普通できないぞ」
こんな時。という言葉にぴくりと反応を示す黒い頭に手をやり、わしゃわしゃと撫でつつ思い出したように口に乗せる。
「そういえば、さっきスノーリル姫に会った」
これには頭を上げて、視線をよこした。しかし体勢はそのままで、見上げてくる緑の瞳が葛藤している様子がありありとわかる。この先の話を聞くべきか否かを。
「なあ、クラウド。あの子は逃げるぞ。いいや、逃げ切るぞ」
直接話した感想を述べた。あれは決意してしまった顔だ。
ただ逃げるのではなく、追いかけても捕まらないと言い換えた言葉に、また顔を腕の中に埋めて呟いた。
「知ってる」
「知ってて動かないのか?」
「僕が動いても意味がない」
「なぜ?」
いつも質問には明確に答える弟は、それでもしばらく沈黙した。
「リルの好きな人は僕じゃない。だから僕の出る幕じゃない」
「では誰なんだ?」
「アトラス」
「アトラス?」
出てきた意外な答えに思わず聞き返した。
「多分。条件に合うのはアトラスしかいないし、アトラスに言われたんだ」
「スノーリルが好きだと?」
「『俺がもらってもいいか?』って」
「なんて答えたんだ?」
「好きにしろ」
いつのやりとりかは知らないが、それでもきっとスノーリルが来た直後あたりの話しだろう。あのアトラスが何を考えてそんな事を言い出したのか手に取るようにわかり、また目の前の弟がどう考えてそんな言葉を返したのかもわかってしまった。
「当てが外れたか」
頭を埋めた腕の肩辺りに置かれていた手がぎゅっと握られる。その仕草を目に留めて思わず笑みが洩れてしまう。
「クラウド………あの子はミアによく似てる。自分の立場を理解して、それに忠実であろうとする人間だ。そういう人間の嘘を見抜くのは結構骨が折れる」
告げる言葉に、突っ伏していた黒い頭が少しだけ浮く。
「話している言葉は嘘じゃないからだ。ある意味、嘘はつかない」
「嘘?」
伏せているため篭った声だったが、はっと息を飲む気配がした。
「言わないだけ」
「そう。嘘をつかないんじゃない。そもそも言わないんだ。言葉にすらしない」
どうやら思い当たるようでゆっくりと頭を上げて、机の上に視線を落として何かを考え始める。
この顔ができるなら、まだ大丈夫だ。そう判断して姿勢を正した。
「クラウド王子。一つ良い情報を持ってきたのですが、お聞きになりますか?」
突然口調を変えたことに違和感があったのだろう、ゆっくりと顔を上げて見上げてくる。
しばらく無言で相手の反応を窺っていると、きちんと上体を起こして姿勢を正した。
「聞かせてもらう」
なんとか皇太子の顔を張り付かせた弟に、兄は眼を細めて笑った。
◇ ◇ ◇ ◇
スノーリルが落ち着きを取り戻し、窓近くの机でぼんやりしている様子をカタリナも遠くから見ていた。
「カタリナ」
侍女部屋へと続く扉近くに立っていたカタリナを認め、マーサが少し声を落として呼んだ。近付くことはせず扉の中へ入るとカタリナもしばらく遅れてから侍女部屋へやってきた。
「今使いが来て…」
そういうとマーサは一枚の紙面をカタリナに見せた。
封はされていないことからどうやらお茶会の誘いの類ではない。
開いてみるとそこには場所と意外な人物の名が記されていた。
「受けるんですか?」
リズが少し戸惑った様子でカタリナとマーサを見比べる。
「スノーリル様には話さないでおきましょう」
カタリナの言葉は予期したもので、マーサはそれについて意見はしなかった。
「相手の方にはなんと返事を?」
「私が行ってくるわ」
これもまた予期した返事で、マーサは少し躊躇った後話しかけた。
「あの、カタリナ。私が行ってはいけませんか?」
マーサの質問にカタリナは少し目を見開いた。
しばらくそのままマーサを見つめていたが、ため息を落として頷いた。
「そうね。こういうことはマーサのほうが適任かもしれないわ。私ではあの人を殺してしまいそう」
深刻なその言葉には苦笑するしかない。
カタリナはスノーリル至上主義だ。でも、それはマーサにも当てはまる。ただ一つ違うことがあるとするなら、カタリナは剣で、マーサは盾という役割だ。
カタリナの承諾を得て、マーサは記された場所へと向かった。
スノーリルにあてがわれた部屋からわりと近くの一室で、おそらく謁見の間にまたされるような控えの間の一つだろう。内部であるため窓はなく、三方の壁には扉がある。明り取りのためか、その扉には硝子がはめ込まれている。唯一扉のない壁には絵画が飾ってありその下に椅子が一脚。部屋の真ん中に丸い一抱えほどのテーブルがあった。
マーサが部屋を訪れるとすぐに扉が開けられた。中から現れたのは濃い灰色の髪をした男性。スノーリルがいなくなった際にお世話になったメディアーグだとすぐにわかり、膝を折って挨拶をした。
「スノーリル様付きの侍女でマーサと申します」
「あの執事ではないのだな」
挨拶をするマーサを見てメディアーグは口の端を上げて笑った。すぐに中に通されるともう一人男性がいる。その人物が紙面に書いてあった名前の人物だという事は紹介がなくともわかった。
「こちらが我が国の皇太子、クラウドだ」
「初めまして。マーサと申します」
こちらにも膝を折って挨拶をするが、顔を上げたと同時にひたりとその人物の視線に射抜かれる。鮮やかな緑色の瞳はとても綺麗で、妙な既視感があった。
「話しというのは他でもない、スノーリルのことだが…。その前に質問がある。マーサはスノーリルとどのくらいの付き合いなんだ?」
隣にいるメディアーグからの質問に、マーサは目をぱちくりと瞬いた。
見上げた瞳は若草色で、横柄な物言いと違いとても柔らかく優しげだ。話によると兄弟だというのに、全く違う印象を落とす二人だと頭の隅で思った。
「そうですね。カタリナと同じくらいになると思います」
「スノーリルがディーディランに残るとしたら、マーサはどうする?」
「どうもしませんわ」
にっこりと微笑んで告げるとメディアーグは頷いた。
「選択権はスノーリルにある。か」
「はい。もちろんです」
しっかりと頷くマーサを見て、メディアーグは一度皇太子に視線をやった。
「スノーリルがディーディランを選ぶとしたら、どんな理由だと思う?」
この質問にはここまで一言も口をきかない皇太子へと視線をやって、少し冷たく言葉を発する。
「理由よりも、必要かどうかです」
正直腹が立っていた。カタリナが殺しそうだと言った言葉を実行はできないが、そのくらいマーサも腹に据えかねている。どうしてこんなにスノーリルを苦しめるのだと、手を取るつもりがないのならさっさと手放してしまえと思っている。
だが、静かに真直ぐに向けられる瞳に、思わず言葉を飲み込んでしまった。
向けられる瞳の色は違うが、いつも見ている瞳とよく似ていて、初めの印象の既視感に思い当たり、ああダメだと、そう思った。
「スノーリル様は、ここに自分がいる必要性を感じなくなったから去ろうと決意なさったのですわ。あの方はいつもそうです。必要だと感じたから私を連れてきたのでしょうし、アルジャーノン大臣からアドルさんを預かったのですわ。逆に必要がないと思ったから皇太子殿下には会おうとなさらなかった」
そう単純明快といえるほど、基準ははっきりしている。
「必要だと言えばここにいると?」
「いいえ。それは、別問題です」
初めて聞いた皇太子の声に、マーサはきっぱりと否定した。
「スノーリル様が必要だと感じなければ意味がありません」
こちらが必要だからといって、スノーリルにそれが受け入れられるかは別問題だ。マーサの言いたい事をきちんと理解した様子の皇太子は、少し視線を落とした。
その仕草がやはりよく似ていて思わず言葉を続けてしまう。
「スノーリル様は基本的に人を信じてはいません。特に他人からの好意の言葉をそのまま受け止めたりはしません」
「白異だからか」
メディアーグがふと言葉をこぼす。
「ええ。他人から好きだと言われることもそうですが、ご自身が好きだということも中々受け入れようとはしません。白異の自分に好きだと思われることは、その人にとって迷惑になると、そう考えていらっしゃるようです」
視線を落としていた皇太子がマーサをしっかりと見つめてくる。メディアーグと違い強い視線を、マーサも逸らすことなく強く見つめ返す。
「本気なのでしたら覚悟をしてください。一時の気まぐれなら放っておいて差し上げてください。スノーリル様をこれ以上傷つけるおつもりなら、カタリナが黙ってはいません。もちろん、私もです」
マーサの断言に二人の間に重い沈黙が落ちたが、それを嘲笑うようにメディアーグが言葉を落とした。
「傷ついているのか」
「はい。カタリナが刃物を隠すくらいには」
はっと息を飲む気配がする。
「カタリナも私も、スノーリル様の幸せを一番に考えています。そのスノーリル様が一番幸せだと選択したのがトラホスへ帰る船です。そしてそれは、私たちにはわからない必要を感じたからなのですわ」
そう、きっと。いや、間違いなく、なんらかの必要を感じているはずだ。
「ただ、その選択が正しいとは限らないのです」
幸せの道が一つだとは限らない。
スノーリルの感じる必要が周りには不要な場合もある。
「覚悟しろ。か」
微かに笑んでぽつりと呟いた声に、マーサはやはりダメだと思った。
「諦めないでください」
思わずかけた言葉に驚いたようにマーサを見つめてくる。
「私たちが諦めたらそこで終わってしまいます」
あの薄い茶色の瞳は自身に関する全てを諦めている。普段、例えそう見えなくても、ずっと見つめ続けてきたカタリナやマーサにはわかっている。
目の前の緑の瞳も、一見強そうに見えるが同じものを持っている。それがわかってしまった。しかし、それでもまだ全てを諦めていないはずだ。スノーリルが残る方法を尋ねるくらいには。
マーサの言葉に驚いていた皇太子は、優しく微笑むと一つ頷いた。