「リル。落としたりしないから、そんなに強く捕まらなくても大丈夫だよ」
「ごめんなさい…でも」
体に回された腕の服を両手でしっかりと握り締めているのだが、その体勢が不安定になっている原因でもある。横座り自体が不安定な乗り方なのだから仕方がないが、手を離すのは論外なのだろう。結局どうすることもできずにおろおろするばかりだ。
「不安ならこっち」
「えっ」
捕まれたままの腕で引き寄せ体に掴まるように促す。しかし、それはそれで躊躇われるのだろう。言葉につまったままどうするかを考えているが、馬の背で揺られる不安定さに結局抱きつくようにクラウドの体に手を回した。
「本当に乗ったことがないんだ」
馬は移動手段として最もよく利用するものだ。馬自体が怖いという婦人もいるがスノーリルはそういう感じではなく、ただ単にこの不安定さに慣れていない感じだ。
「トラホスは狭いから馬は必要ないの」
「ああ。そうか」
小さな島であるトラホスは一番外側を回っても徒歩三日で回れる狭さだ。馬なら一日で回りきれる広さでしかない。
「もしかして、ここまで歩いてきた?」
「途中で荷馬車に乗せてもらっ…もらいました」
言葉を選び直したスノーリルに、クラウドは目の前やや下にある薄茶色の頭に視線を落とした。
「どうして海に?」
「色々、考えたい事があって…」
語尾を濁したスノーリルの答えを、しばらく待ってみたが結局そのまま沈黙してしまった。
「トラホスへ帰るのは一ヶ月後だろう?」
スノーリルが考えたいことでクラウドが想像のつく最たる理由はそれだ。
「ミストローグ国と同盟が築けたのでしょう? 私がここにいる必要はなくなりましたからすぐに帰ります。ここに、私が皇太子妃候補として長くいるのはディーディランにとってよくないです」
確かに、同盟は成り立ってミストローグからの事後報告を待つだけになっている。スノーリルがここにきた本当の理由を考えれば用は済んだといえる。
「アルジャーノン大臣に相談して、できるだけ早く帰れる船に乗るつもりです」
一番早いのは三日後だ。
「そんなに帰りたい?」
「…こんなに長くトラホスを離れるのは初めてだから」
質問への明確な答えではないが、正当な理由だ。
話はここで途切れ、城下までの道のりの半分をお互いに無言のまま、いや、それぞれに何かを考えていて、気が付けば半分の距離だったと言ったほうが正しいだろう。
馬の揺れにも慣れてくると、今度は掴まっているクラウドが気になって仕方がなかった。必然的ではあるが、この体勢がものすごく恥ずかしく、それと同時に妙に落ちついてしまう安心感があった。
無言のまま港町から半分の距離を行くと一際高い王城が見て取れた。
それを見つけると、知らず息を吐き出していた。
「みんな心配してるだろうな」
「そう、ですね」
それは間違いないだろう。スノーリルだけではなく、皇太子まで城から出てきてしまったのだ。
「あの、お仕事は大丈夫なのですか?」
「僕一人いないくらい平気だろう。今日は父上も暇そうだったし」
「そうですか」
どこか気まずい雰囲気の中でなんとか話を続けようとするが、話題が続かない。続かないというよりはスノーリルが止めてしまう。
何か話題はないものかと必死で頭の中から探そうとするが、何を言っても続かない気がして結局口をつぐんでしまう。
また重い沈黙が続き、このまま城まで続くのだろうかと諦めかけた時、ふいに馬が足を止めた。
「?」
なんだろうと周りを見回しても特に何もない。
「あの…」
「本当に帰るの?」
「え?」
一瞬だけ、どこに? と思ったが、おそらくスノーリルがトラホスへ帰ると言ったことだろう。あまりにも時間がたっていて認識するのに時間がかかった。
見上げようとして、港で見た瞳を思い出し、途中で止まった視界にはどこか埃っぽいマントが見えた。ふいに町中で抱きしめられた瞬間を思い出して、ぼんやりとした思考が浮かび上がってきた。
「リル?」
柔らかく名を呼ばれ、はっと我に返る。
「帰ります…帰らなきゃ…だって………」
そこで言葉を飲み込んだ。飲み込んでから激しい動揺に襲われる。
「だって、何?」
頭上から降ってくる問いに何も答えられない。
掴んでいるクラウドの服をきつく握り締めて動揺をやり過ごすように、目を閉じた。
帰りたいのではなく、帰らなければならない。
それはスノーリルの感情ではなく、立場や国家という意志が動かしている。
ずっと帰ることを考えていた。それは帰りたいからだと思っていた。ここにいる必要がなくなったのだ、それは自然な考えだった。
でも、そうじゃない。
だっての後には違う言葉が続く。
これ以上ここにいるのが辛いのだ。これ以上ここにいたら想いが溢れてしまう。予感ではなく、確実に訪れる未来だ。いや、すでにその兆候はある。彼が現れるたびに期待をしてしまう。どうしてなのか涙が零れそうになる。
固い沈黙をクラウドはどう思ったのか、突然馬を下りた。
掴まる物がなく、驚きも相まって目を見開いてクラウドの姿を追った。馬を下りたクラウドはそのままスノーリルを見上げてくる。自然、見下ろす先には緑の瞳があり、その瞳が視線を逸らすことを許さない。
ずっとそうだ。なぜかこの視線に捕まると逸らすことができない。それは皇太子としての彼ではなく、スノーリルが「妖精」と呼んだ彼だ。
「好きな人ってトラホスの人?」
唐突な質問に心臓が跳ね上がった。無意識に胸の辺りの服を掴む。
好きな人。それは目の前にいる。でもそれは言えない。言ってはいけない。
「リル。答えて」
真剣な瞳がまっすぐ見上げてくる。
どうしてこんな質問をされているのだろうかと思い、そういえば初めにそう言ったのだと思い出す。あの時、どうしてそんな事を言ったのかは、今思い返してもよくわからない。それでも、一つだけスノーリルには譲れないことがある。
じっとしている馬が、尻尾を振るたびに伝える振動がスノーリルを現実に引きとめ、目の前の人が誰かを認識させる。
「ディーディランの人…です」
「誰?」
「それは、言えません」
「本当にいるの?」
「はい」
きっと嘘は見抜かれる。そういう立場の人だ。だから極力嘘はつかないようにする。王である父とする会話を思い出しながら、先手をなんとか見つけ出す。
「…何度か会ううちに、いつの間にか好きになっていました。それが今日、よくわかったんです」
それはとても痛みを伴う感情だったけれど。
今も痛いけれど。でも、好きなのだ。それだけは変わらない。
「その人のところに行かないの?」
少しの間を置いてきた質問に、思わず笑みが零れる。
「行けないの」
「白異だから?」
昔した質問と答え。でも今は、少し違う質問と答えに重ねた時間を感じた。
「その方はそんな事どうでもいいみたいですけど、問題はもっと別にあります」
「問題ないだろう。本人がよければ」
「本人がよくても周りがそれを許しません」
これは事実で確実に起こる現実だ。
「私はその方を不幸にしかできません」
自分だけ幸せでもだめなのだ。
「リル」
じっと目の前の人を見つめる。
手を伸ばせばすぐそこにいるのに、想いの距離はきっとトラホスよりも遠い。
「私が嫌なの。不幸にするってわかってて、その人と一緒にはいられない。貴方だってそうでしょう? 皇太子妃ってものすごく重圧だわ」
そう、きっと、目の前の皇太子も、初恋の人を手に入れるにはきっと限りない障害がある。あの噂話を思い出して、お互いにある共通点はそこかと思うと可笑しかった。
それでも手に入れる事ができるクラウドと、絶対に手に入れられないスノーリル。
「ですから、帰ります。私のために」
決定的な傷が残る前に。
今ならまだ大丈夫。このまま閉じ込めてしまえばいい。
「いつか、教えられる時がきたら教えますね。私の想い人が誰だったのか。きっと驚きますよ」
驚くかどうかは怪しいが、それでも笑ってくれるだろう。
「帰りましょう? 皆心配しています」
そこでようやく視線を逸らせたのは道の向こうから馬車が一台こちらに向かってきたからだ。おそらく貴族の乗り物だろう、金の装飾がキラキラと太陽の光を反射していた。
「アトラス?」
「え?」
この場にいるはずのない名前が飛び出し、下にいるクラウドに目をやる。
見上げてくる緑色の瞳が無表情に見つめてくるのに、スノーリルは言葉をつまらせた。
「言えません」
ようやく出た声は少し掠れたものだった。
「そうか」
それだけを告げるとクラウドは馬を引いて歩きだした。
まだ城下まで距離がある。乗らないのかと声をかけようとしたが、前を歩く背中が港の時と同じようにスノーリルを拒絶している。
その背中を見てまた視界が滲んだ。