自分を呼ぶたったその一言に、一瞬にして頭が真っ白になる。
「よかった。見つけた」
よほど安堵したのか、ほっとした声と同時にさらに強く抱きしめられる。
何がどうなっているのかさっぱりわからない。固まったままのスノーリルにようやく気がついたのか、その人はするりと腕を解いた。
「リル?」
覗き込まれた視界に鮮やかな緑色の瞳が斜め上からやってくる。髪をそっと撫でられようやく瞬きを思い出した。
「どう、して」
疑問が沢山ありすぎてそれ以上、何から言葉にすべきかがわからない。
「うん。リルがいるから」
それなのに、なぜかその質問にきちんと笑顔と返事が返ってくる。
「観光?」
どこか間の抜けた質問に、小さく首を振って答える。
「……ちがう」
「逃げたかった?」
「…ちがう」
違うはずなのに、そこから先が出てこない。
目の前の微笑がどこか悲しそうなのは気のせいだろうか。その表情に胸の奥がぎゅっと絞まるような感覚を覚える。それと同時に警鐘が聞こえる気がした。
髪に触れていた手が頬を撫で、言葉を選ぶように、躊躇うようにゆっくり口を開く。
「リル…」
この先は聞いてはいけない。警鐘は逃げろ逃げろと響いているのに、一歩も動けない。鮮やかな緑の視線が逃がしてくれない。
その逸らせない視線の呪縛から解き放ったのは、突然の泣き声だった。
母親の抱いていた赤ん坊が突然泣き出したのだ。その大音量にびくりと体を振るわせるほど、スノーリルはその人の世界に捕らわれていた。
驚いたのはその人も同じだったのだろう。視線をスノーリルから赤ん坊へと移したその横顔を見て、ようやくここがどこなのか、彼が誰なのかを思い出した。
「…クラウド王子」
スノーリルの声にもう一度向けられた視線に、今度はなぜか捕まらなかった。
「貴方がどうして、ここにいるんですか」
「だから、リルがいるから。皆心配してる」
正論である回答に、スノーリルは視線を落とした。
「すみませんでした」
「とりあえず港まで戻ろう。捜索隊が出てるんだ」
手を引かれてそのまま来た道を戻る。
流れに乗ってただ歩く。見える背中がどこか遠いのに、手を見ればちゃんと繋がれている。妙に冷静な自分がいることに驚いているのに、何故か泣きそうなほど動揺している自分もいる。
「あの、どうして…」
「ん?」
「若!」
スノーリルが疑問を口にしようとした時、店の一つから声がかかった。
「その方が?」
声の主を見るとスノーリルとクラウドを交互に見て、最終的にクラウドに視線を固定した。その様子にクラウドは一つ頷いて見せた。
「じゃあ、他の連中にも言っておきます」
「ああ、頼む」
そのやり取りで彼がスノーリル捜索隊であることがわかった。
「それで、何?」
「いいえ。今わかりました」
これだけの人の中からどうやってスノーリルを探せたのかと思ったのだが、つまりはそういうことだ。あの小さなトラホスですらそうなのだ、この巨大国家がそうでないわけが無い。つまり、港町にも彼らの支配は行き届いているのだ。
腑に落ちた途端、どこかぼんやりしていた思考が透明に澄んだ。
「…行きましょう?」
立ち止まったまま動かないクラウドに気がつき、歩くように促す。しかし、目の前の人は流れる人の波の中で杭でも打たれたように動かない。
「私を心配してる人がいるのと同じように、貴方がいなくなって心配してる人もいるのではないですか?」
忙しい「仕事の鬼」と言われている彼がここにいるということは、少なからず仕事が滞っていると考えていい。
そもそも、皇太子である彼自らが出てくる必要ない。顔を知っているのだから適任ではあるだろうが、だったらカタリナを連れてきたほうがよほどよかったのではないだろうか。
目的は果たせたし、心配させている自覚もあった。見つかったのなら素直に従うべきだとも思う。動かないクラウドの横を抜け、今度は逆に彼の手を引いて歩く。行き着く先は港だ。土地勘のないスノーリルでもわかる。
港に近付くと見覚えのある人が積まれた荷箱の上にどっかりと腰を下ろし、煙草をふかしてこちらを窺っていた。
「見つけたんですね」
煙と一緒にそう声をかけられ、スノーリルはぴたりと足を止めてその人物を見た。それと同時に後ろから「ああ」と返事が聞こえる。
ということは、この人も捜索隊の一人だったのか。煙草をふかすその人物は先ほどあったばかりの男性だった。つまり、あれから見張られていたわけかと息を吐き出した。
「お帰りになるんで?」
「ああ、馬は?」
「あちらに繋いであります」
そんなやり取りを聞きながらふと見える海に視線をやった。それに気がついたのだろう、質問が降りてくる。
「帰りたい?」
「帰るわ」
「そう…」
「うん」
質問に即座に答える。それはさっきここで決めたことで、すぐに変わるほどの心境の変化は無い。
穏やかな海がどうしてか冷たく感じて、荷物を運ぶ人たちに目をやる。
「どこに?」
「え?」
予期していない質問に思わず視線を上げた。その先を狙ったようにある緑の瞳とぶつかったことで今までその視線を避けていたことに気が付く。
「どこに?」
真剣に真直ぐ見つめてくる瞳に意識の全てがその人に向かう。向かってしまえばそれまで気付かなかったことにも気がつく。
表情がひどく硬い。繋いでいただけの手が強く握られる。何かを恐れているような雰囲気が彼を妙に幼く見せた。それは、探している間に会った彼で、時々こんな風に頼りなげな印象を落とす。
思わず手を伸ばしかけ、ぐっとその気持ちを押さえ込んだ。
「トラホスに、帰るわ」
どう見えても、目の前にいる人はこの国の皇太子なのだ。スノーリルがそうであるように、それも変わる事はない。
告げた瞬間。繋がれていた手が強張ったのがわかった。
「…そうか」
低く一言だけ告げる彼の表情があの時見たような無表情なものへと変わり、繋いでいた手を離し、背を向けて歩き出す。
その背中を呆然と見つめていると後ろからそっと背を押された。
「馬は向こうだ」
「あ。はい」
見上げるとあの煙草の男性がすぐそこにいた。
それをきっかけに歩き出すが目の前を歩く背中がふにゃりと歪んだ。
「…っ」
理由に思い至って慌てて足元に視線を落とす。
どうしてか胸が痛い。引き絞られるような痛さにその上の服を握り締めた。
見なければよかった。
手が強張った瞬間。緑の瞳が傷ついたように揺れ、スノーリルを視界から排したのがわかった。
傷つけた。
それだけはわかった。
きっと言ってはいけないことを言ったのだ。
でも、なぜ?
どうして、自分はこんなにも泣きたいのだろう。
一度目を閉じてから、もう一度目の前を歩く背中を見る。
手を繋いでいた時と同じ距離。きっとあと一歩大きく踏み出せば触れることも簡単だ。でも、あの時よりもっと遠く感じるのは手を繋いでいないから。
「あ…」
先ほどまで繋がれていた手を見た。
拒絶されたのだ。それが、信じられないほど痛い。
どうしよう、と思った。
謝らなければと思って、何をと自問する。
傷つけた事を? でも、何が彼を傷つけたのかもわからない。
トラホスに帰ると告げたことが原因だと思うが、それは謝ってもしかたがない。どうしたって帰らなければならないし、帰る場所はそこしかない。
それは彼だってわかっているはずだ。
感情と一緒に細く息を吐き出す。
結局のところは自己満足だ。彼は謝って欲しいわけじゃないだろうし、謝っても何も変わらない。
よく考えれば嫌われるのはいい事だ。こちらの想いも吹っ切れる…。
「…っ……?」
自分の考えに唇を噛むとぽんと頭に軽い衝撃が当たる。何かと思ったのは一瞬でそれは隣を歩く煙草の人の手だった。
見上げると、にっと口の端をあげて笑いかけられる。
どうやら慰められたようだ。
「一頭で大丈夫ですか?」
視線を戻すとそこには黒い馬が一頭大人しく待っていた。
「平気だ。……どうした?」
それに乗りながらクラウドが答え、手を差し出した。差し出された手と馬を交互に見やり、さきほどの瞳を見るのが怖くて、目の前にあるクラウドの靴に視線を留めて答える。
「あの、馬に乗ったことがないんです」
頭上からため息が一つ落とされた。その気配にまた胸が痛む。
「セルバ」
「はいはい」
「!?」
返事と一緒に体が上に持ち上げられた。突然の不安定さに近くにあったものにとりあえずつかまると、腰の横にある物体は煙草の人の頭だった。驚いている間に今度は腰に別の手が回される。
あっという間に馬の上に乗せられたスノーリルは何が起きたのかわらからず、回された腕にしかっかりと捕まって、下になった煙草の人と視線を合わせる。するとにっと笑われ助言をくれる。
「しがみついていれば大丈夫。落とすなんてへまはしないでしょうから」
「当たり前だ。じゃあなセルバ、世話になった」
「いえ。結局俺らは何もしてません。メディアーグの旦那によろしく」
「ああ」
片手を挙げた煙草の人、どうやらセルバというらしい男性に短く返事をすると、馬を歩かせた。