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想いの帰結
04
 夜明け少し前に抜け出し、港町にたどり着く頃には日は高かった。
「お嬢さん。海が見たいんだって言ったかな?」
「はい」
 途中乗せてもらった馬車で酒樽と一緒に揺られていると、御者台のおじさんがのんびりと尋ねてきた。それに答えるとおじさんは「ふむ」と顎鬚に手をやった。
「それじゃあ、町の中を通るよりは港に直接行ったほうがいい。町からだと行き着くまでが大変だからね」
 そう丁寧に教えてくれたおじさんは港町の外れでスノーリルを降ろしてくれた。
「この道を真直ぐ行くと港に出る。一人で大丈夫かね」
「はい。ありがとうございました」
 笑顔で礼を言うとおじさんも微笑み「気をつけて」と言って去っていった。
「ん。もう少し」
 教えてもらった道をどんどん歩き、民家の裏手を抜け、町の喧騒が聞こえるのを横目に歩くと、ようやく視界にシェハナ海が映し出され思わず感嘆の声が洩れ出る。
「海だ」
 久しぶりに見るシェハナ海は、最後に見た時と変わらず、銀色に輝く水面を湛え、真直ぐに水平線を描いている。
 当然トラホスは見えない。でも、この先には間違いなくトラホスがある。こうして見ると随分遠くへきたと実感する。船がなければ帰れない。高い場所を飛ぶ鳥を見て少しだけ羨ましかった。
 出たところは海岸ではなく、港の外れで、左手方向に大小さまざまな船が停泊していた。
「トラホス行きはどれかな」
 渡航期間が一ヶ月なので、定期的に船が行き来しているのは知っている。しかし、今はそんな事よりもどこか落ち着ける場所が欲しかった。
 
 少し歩いてみると港は町より少し低い位置にある事がわかる。その町へ続く階段がいくつもあり、その一つに腰を落ち着けた。膝に肘をつき、両手で頬を支え、遠くトラホスのある海の向こうを見つめる。
「心配してるな。きっと」
 海風に当たっていると、ふいに今朝の強行を悔いてしまった。一応書置きはしてきたが、そういう問題ではない。だってここはディーディランなのだから。
 それでも海が見たかったのだ。どうしても。抱えた感情の整理と、これからどうするのかを考えねばならないから。
「…クラウド・ホルシェノ・ディーデル。だったかしら?」
 この国の誰もが認める皇太子殿下の名前。そして、幼い頃に名乗らなかった少年の名前。
 ディーディランに来る前に、当然名前だけは教えられていた。
 ディーディラン国皇太子。つまりは次期国王だ。
 噂ではとても優秀で仕事の鬼だと聞いたし、エストラーダは冷たい印象があると言っていたのを思い出す。
 あの会議室で見たクラウド王子はまさに噂どおり。怜悧な雰囲気を纏って、泰然と大きな椅子に鎮座する姿はまさに次期国王だった。
 もしかしたら、再会したのがあの皇太子だったらわからなかったかもしれない。
「……そのほうがよかったかな」
 でも、会いにきたのは昔の彼のほうだ。よく笑う、スノーリルを「リル」と呼ぶ人。
 一度目はほぼ夢の中の話でほとんど覚えてない。二度目が本当の再会。
 声も姿もあの時の少年とは重ならなかったけど、言葉と行動に間違いないと確信した。トラホスでの約束をそっくりそのままなぞれるのはあの少年しかいない。
 確信の大きな決め手だった右の瞼にそっと触れてみる。
「おまじない…ね」
 その場に何度か贈られたキスの意味にようやく思い至る。右目に触れるのは失せ物を見つけるおまじない。右目は真実を見ると言われている。
 見つけて欲しかった真実とは、彼がこの国の皇太子であるということだろうか。
 約束した時は違ったが、あの時スノーリルの髪の意味をそれほど深くは考えなくても、今ならば十二分にわかっているはずだ。皇太子という立場ならばなおさら、スノーリルがそうだと知ったときの反応などわかりそうなものだ。
「ああ、そっかぁ」
 唐突に、あの時逃げ出した理由がわかった。
 怖かったのだ。彼の出す答えが。
 あの時あのまま答えを聞いていたら、彼はなんと答えたのだろうか?
 いいや。聞いても答えは同じ。
 初恋は実らない。
 特にスノーリルの場合、それは今後においても言えることだ。
「恋……」
 ――スノーリル様の中にある感情は間違いなく恋です――
 カタリナの確信の声をまざまざと思い出す。
 あの時は自覚など全くなかった。
「ううん。違う」
 考えたくなかった。気づきたくなかった。知りたくなかったのだ。
 それはきっと、彼に会う前、アトラスがそうではないかと思った時にすでに答えが出ていたから。
 ――もしかしたらすでに想う相手が?――
 アトラスの質問にわからないと答えたのは本当だ。ずっと自分の心がわからなかった。十二年という歳月で、忘れていてもおかしくない約束を覚えていてもらって嬉しかった。でも、ただそれだけかもしれない。
 そう思い込むことで蓋をしたのだ。この切ないだけの想いに。
「…っ」
 海と船を見ていた視界が半分水に沈む。
 溢れる前に膝を抱えた腕の中に顔を埋め、きつく唇を噛んでから、大きく息を吐き出して感情の波を乗り越える。
 彼を見てドキドキするのは、彼が好きだからだ。
 今までにも好きな人はいた。でも、今回ほど相手を前に混乱を極めたことはなかった。そういえば、カタリナもそれを指摘したことがあった。
 それほど彼はスノーリルにとって特別な存在なのだ。
 でも、彼にとっては?
 腕から顔を上げて海を見つめる。視界が滲んでいて水平線はぼんやりとしていた。
 彼にとってスノーリルが特別だと思っていることがあるとしたら、一つだけ思い当たる物がある。それは今は薄茶色になっている、元は白いこの髪だ。思えば幼いあの時も彼は髪に触りたがった。
 海風に乱された髪を両手で撫でつけ、一房摘まんでみる。
「…約束を守っただけ。かな」
 ――それでも会いにくるから――
 あの日、確かに約束した。
 しかし、今現在皇太子である彼がトラホスに来ることはおそらく無い。白異であるスノーリルが例外でディーディランにいる今この時期を逃したら、次はいつになるかわからない。
 そうなのだ。ただ単に約束を履行しただけかもしれないのだ。
 そこまで考えて、ふうと息を吐き出した。
 所詮、これはスノーリルの考えであって、彼のものではない。何を考えて接触してきたのかもわからないし、彼を見つけた後まだ一度も会っていない。いや、会いたくないのかもしれない。それにこちらが見つけたことで約束は果たされているので、これ以上会う必要はない。
「そうね。うん。トラホスに帰ろう」
 目的は達した。約束も守った。聞かなくても答えは一緒。
 これ以上、ここに留まる理由がないのは確かで、どんなに考えてもここに残る理由は思い浮かばない。
 決意が固まるとお腹が小さな音を立てた。
「お腹減ったな。でもお金ないし」
 立ち上がってもう一度水平線を見やる。今度ははっきりと水平線が見えた。
 見えない故郷に帰ればまたいつもと同じ、平和な日常が待っている。
「エスティに手紙書こう」
 帰ることと、今までのお礼と、これからも仲良くして欲しいこと。それと、今回の自分の気持ち。心配されていたのはよくわかっていたから。
 
 
 しばらくそのまま海を見つめていると、横手がにわかに賑やかになった。見てみるとどうやらこれから荷積みが始まるようだ。
 その様子をぼんやりと見ていたが、ふと思いつきで近寄ってみた。
 泊まっている船を見回すと大きさは中位と言ったところか、その船に荷物がどんどん運ばれている。
 その近くに一人煙草をふかしている男性がいた。さぼっているのか、あるいは監督しているのか、堂々と船に荷を運ぶ様子を腰を下ろして見ている。スノーリルが近付くとチラリと視線を寄こして、また船に視線を戻した。
「あの。トラホスの定期便はいつ出ますか?」
 構わず話しかけると、男性は視線だけをくれる。
 陽に良く焼けた肌に、同じく赤く焼けた茶髪の男性は、トラホスでも良く見る海の男だ。一見実に怖そうだが、ぶっきらぼうなだけで優しい人が多い。
 スノーリルの認識にそうあるだけであるのだが、この男性も例に洩れずスノーリルをまじまじと見た後、あっさりと答えてくれた。
「三日後だ」
「三日…」
 その答えをおうむ返しに呟く。
 三日。長いような短いような。
 乗客はすでに決まっているのだろうか。いや、スノーリル一人くらいならおそらく乗る余地はあるだろう。別に上等な部屋でなくてもいい。それに乗れるようにカタリナに言っておこう。
「ありがとうございました」
「気ぃつけな。嬢ちゃん。ここはトラホスじゃねえ」
 お礼を言うとそんな言葉が返ってきて、スノーリルは目を見開いた。
「トラホスの人間だってわかりますか?」
「水平線眺める奴は大体そうだ」
 どうやら先ほどのスノーリルの様子を見ていたらしい。
「気をつけます」
 同郷の思わぬ共通心理に微笑むと、一礼してその場を後にした。
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