その人物はクロチェスターの訪問に驚いたように顔をあげた。
「どうした?」
「陛下、申し訳ありません。これお借ります」
「ああ。構わんが…何事だ?」
実の息子を指差し「これ」と呼んだにも関わらず、まったく気にすることなく、この国の最高権力者は尋ねた。
「緊急事態です」
「緊急? それは大変だな。早く連れて行け」
二人のやりとりを聞けば当事者なのに、なぜか本人の意見など聞かずに進む話に、「これ」呼ばわりされた皇太子は無表情のまま一度息を吐き出した。
「それで?」
「白姫が消えた」
簡潔で端的な説明に、眉を寄せ射るようにクロチェスターを見た。
「消えた?」
「攫われたとかじゃないらしい。海へ行くと書置きをして消えた。まだ城内にいる可能性も高いが、今メディアーグに…」
全部を聞き終わる前に椅子から立ち上がり、扉に向かった皇太子を目で追いながら話す。
皇太子は扉までたどり着くと思い出したように足を止め、扉の取っ手に手をかけて振り返った。
「父上」
一言だけ発すると、国王は優しく微笑んで頷いた。
「早く行け」
了承を得るとあっという間にいなくなった背中を見送ると、クロチェスターも国王に一礼し執務室を後にしようと扉をくぐる。しかしすぐに呼び止められた。
「ハロルド」
そこには少し心配そうな国王の姿があり、クロチェスターは笑顔で請け負った。
「大丈夫です。あのクラウドが逃がすわけありません」
「…そうだな」
「はい」
一瞬だけ視線を落とし考えた国王の言葉に即座に答え、もう一度一礼するとクロチェスターも執務室を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇
目指す場所はアルジャーノン大臣の執務室だ。情報は間違いなくそこに集まる。クラウドはできる限り急いで「消えた」以上の情報を得るためにその場へ向かった。
一つ階段を下りるごとに一昨日の出来事を思い出す。
会議室にエストラーダが乗り込んできたのは予想の範囲のことだった。ミストローグから使者が来たと知れれば、間違いなく飛び込んでくるだろうと思っていたからだ。そして、予想通りエストラーダは怒鳴り込んできた。今まで意図的に伏せていた事の真相を知ったのだろう。
ミストローグ国の二人のやり取りをこのまま眺めているわけにもいかず、仕方なく声をかけて話を進める中、マストリーグが扉に注視した。その視線を追う形で扉に目をやり、一瞬ここがどこかを忘れた。
そこにいる人を認めたその瞬間に思わず立ち上がりそうになった。
白い髪はいつもと同じ、飾りも何もなくただ背に流している。飛びぬけて美人というわけではないが、十分可愛いといえる顔立ちで、呆然とこちらを見ているのはトラホスで見つけた少女だ。
どうしてここに、と思っているのはおそらく彼女も同じだろうと、どこか冷静に思う半面、どうするつもりだろうと内心焦った。彼女は自分に対する周りの評価というものをよく知っている。こちらの身分を知れば、このままなかった事にされる可能性は大いにあった。
今すぐにでも駆け寄って捕まえたい心を抑えて、彼女の動向を窺った。
するとエストラーダの紹介をきっかけにこちらに歩いてきた。
その一歩一歩に心臓が高鳴り、彼女以外何も見えなくなる。
目の前に立ち、真直ぐに見下ろしてくる薄い茶色の視線は、何を考えているのかわからず、がらにもなく逃げ出したくなった。表情がないと白い髪も相まって冷たい印象を落とすと同時に、無条件で懺悔をしたくなるのは人が持つ白への畏怖からだろうか。
見つかってしまった焦燥は、断罪される諦めへとなりつつあった。
しかし、彼女はやがてふわりと微笑み言ったのだ。
――貴方はクラウドよ。これでいい? 妖精さん――
告げられた答えと、問い。
その問いに答えようとしたのだが、答える前に彼女が逃げた。
追うべきだとわかっていても、それができる状況でもなく。ミストローグとの同盟を結ぶほうを優先し、結局それ以来彼女とは会っていない。
期限まではまだある。そう、思ってもいたが、実際は会うのが怖かっただけかもしれない。その結果がこれかと思うと自分に腹が立ってくる。
走り抜けた廊下の端に目的の場所を捉えた。
その大臣執務室の扉の前によく見知った人物がこちらを見ていた。おそらくこちらの慌しい足音に気がついたのだろう。
「兄上!」
「北門が怪しい」
近付くとその人はすぐに答えをくれた。
「外に出たということですか?」
「見かけない侍女が一人通ったそうだ。メディアーグ夫人の使いとかでな」
「!?」
「行ってこい。セルバへの連絡も今出したところだ」
「あと、頼みます!」
北門は商人たちの通用門でわりと警備は緩い。それでも怪しい者は質問をされるし、留め置かれる場合も少なくない。
メディアーグ。その名前がどのくらい影響力があるのか知っているとは思えないが、その侍女がスノーリルであるならば、意図して使った可能性が高い。
「…リル」
初めて出会ってから十二年。
再会してからはまだ一ヶ月半。
まだ何も始まっていないはずだ。
彼女の答えと本音をまだ聞いていない。
こちらの答えと本音もまだ伝えていない。
誰かの手に捕まる前に。誰かの感情に落ちる前に。
焦燥ばかりが募る思考に、ふいに夜の庭園での言葉が蘇る。
――あのね。………私、好きな人がいるの――
あの言葉がもし本当だとしたら……。
いや例え、すでに心に誰かがいるのだとしても……。
捕まえられるのだろうか? 違う。捕まえなければならない。
真直ぐ北門にたどり着くと、そこにいた門兵が驚いた様子で出てきた。馬とマントを一つ借り、すぐに港を目指して馬を走らせる。
トラホスには定期的に船が出ている。渡航に一ヶ月が掛かるので、ある程度の間を置いて大なり小なりがトラホスへ向かう。確か次にトラホスへ向かう船は三日後の予定なはずで、とりあえず今港に逃げられたからといってすぐにトラホスへ帰られるということはない。
港へ向かう途中、彼女がどうしてこんな行動に出たのかを考えたが、実のところよくわからない。
トラホスに帰るというのが一番当てはまるが、お金を持たない彼女がそれを実行できるとは思えないし、こんなことをする人物がそこを考慮しないわけが無い。
いや、もしかしたらそこまで考えお金を持って行ったとしたら? あり得ないとは言い切れない。そもそも、どうやってあの部屋から逃げ出したのか。あそこにはアドルがいたはずなのだ。
そこまで考え嫌な予感が頭を過ぎる。
トラホスに帰られたら、もうどうすることもできない。
使者が持って帰ってきたトラホス王の返事を思い出す。
――くれてやるのは我が娘だ。覚悟しろ――
父の話では彼の王は多くを語らない。それゆえにその言葉の意味をあとで信じられない場面で思い知ると。
「それが、今、か?」
とにかく、なにより、見つける事が先だ。
ここはディーディランでトラホスに比べれば危険が多すぎる。
馬を走らせ、ようやく見えてきた港町の端を視界に捉え、初めに向かうべき場所を思い出し、少し道をそれて直接海岸へ向かった。