時々しか会いにきてくれなかったのは、彼が国で一番忙しい人物だから。
会っているのがばれるとまずいのは、彼が皇太子だから。
起きている事件の事情をよく知っていたのも、スノーリルが"太陽王"の娘だと知っているのも、国の代表である立場だから。
今となっては全て納得できるものだった。
そう、納得はしている…。
一度目を閉じる。
今の状況にみんな心配している。特にカタリナは。
「トラホスへ……」
トラホスに帰ることは、ディーディランに来た時から考えは変わっていない。
それなのに帰るのだろうと聞かれて即答できなかった。
それは望んでいないということだろうか? いいや。望むと望まざるとに関わらず、スノーリルはトラホスへ帰るしかない。それ以外の道など………。
目を開けてふっと息を落とす。
一つ残るための道がある。アトラス王子の求めに応じればディーディランに残る事は可能だ。
だが、それを望んでいるのかと言われれば答えは出ている。
「私はアトラス王子を好きじゃない」
彼もスノーリルを好きではない。でも、欲しいと言った。その真意はわからない。
「私が好きなのは………」
無表情に見上げてきた緑の瞳を思い出す。
まるで人形のようだった。冷たく、無機質で完璧な。
それを見た一瞬。間違えたかとも思ったが、声をかけた瞬間に正しいと知った。でも、それ以上その場にいるのが怖くなって逃げ出してきた。
逃げ出したくせに何が怖かったのかわからない。
知らない顔をした彼が怖かったのか? 皇太子の彼が怖かったのか?
「…息苦しい」
ここにきてからずっと、うまく息ができてない気がする。いつもはもっと色々と考えているのに、思考の糸がふわふわと宙に浮くだけでうまく考えがまとまらない。もっとしっかりと考えたいのにここにはその場所がない。
「………海が見たいな」
トラホスではいつも見る事ができたシェハナ海が、ディーディランでは見ることができない。ディーディランも港はあるが、この首都からは距離がある。王城の一番高いところからならもしかしたら見ることができるのかもしれないが、そこへは当然一人で行けるはずもない。
本当に息苦しくて硝子戸を開けテラスに出てみた。
夜風はひんやりとしていて少しだけ頭をすっきりとさせてくれた。下を見ると所々に篝火が焚かれている。時々兵士が二人組みで歩いているのが見えた。視線を建物に移すと所々の窓に明かりが灯っている部屋がある。まだ働いている人もいるようだ。
「アルジャーノン大臣に会わないと」
会って、トラホスへ帰るのだと告げなければ。大臣にも都合がある。期限にはまだ達していないが、ミストローグとの関係が良好になったのであれば大丈夫だろう。
ふわりと風が頬を撫でる。
「う〜。やっぱり、海が見たい」
どうしても考えが大事なことから逃げていく。
考えたい事はもっと別なことなのに、どうしてもそこから離れてしまう。無意識に避けているのはわかっていても、中々そこに集中できないのは傷つくのが嫌だからだろうか。
ふと下を覗いてみた。
「それほど高くないかな?」
夜明けまでの時間を考え、ぐずぐずする暇はないと判断した。
ただ、今はどうしても考える時間が欲しかった。
◇◇ ◆ ◇◇
翌朝。カタリナはいつもと同じようにスノーリルが寝ている場所に向け声をかけた。
「おはようございます。スノーリル様」
しかし返事が無い。ここ最近ずっとそうで、本当は起きていることが多かった。
無理に起こすこともなく、そのまま窓を覆うカーテンを取り払う。
振り返ってもう一度声をかけようとし、カタリナは凍りついた。
人一人分膨らんだ上掛けの下に人の気配を感じない。焦って上掛けをはぐると何着かのドレスがつまっているだけで、着るべき人物がいない。
「どうやって……」
次の間の扉を通ればトーマスが気がつく。トーマスが気づかなくても、まだいるディーディランの護衛が気づくだろう。そして、間違いなくカタリナは気がつく。
しばらく考えたカタリナが真っ先に向かったのはテラスだ。
見かけ上、特に変わった様子はなかったが、一箇所だけ布がぐるりと巻かれている欄干の足がある。その下を覗くと一本になった敷布やらテーブルクロスやらがさがっていて、カタリナはとりあえずそれを引き上げた。しかしやたらと重い。
よく見れば、その先に結構な重さがありそうな置物が付いている。
「こんなこと。どこで覚えたのかしら」
解けない独特の結び方がしてある事といい、揺れを軽減するために錘をつける事といい、決してお姫様が知っている情報ではない。
ここは二階。下をみれば結構な高さがあるのだが、よく考えてみればトラホスの城とさほど変わらない。
このスノーリルの強行にカタリナはなぜか眩暈よりも、頭痛よりも、苦笑が洩れた。
「元気になったと思っていいのかしら」
しかし、それでいいわけが無い。ここはトラホスではない。ディーディラン国なのだ。ミストローグからの刺客の心配も完全になくなったわけではないし、ここはトラホスに比べれば相当危険な国なのだ。
カタリナはとりあえず護衛部屋に向かった。中にいるトーマスに話をすると一つ唸ってからアドルを振り返る。
「クラウド様の周辺に現れると思いますか?」
初めは驚きに目を見張っていたアドルも、トーマスが振り返る頃には冷静になっており、カタリナに質問をする。
スノーリルがこういう行動をするときは大体の率で相手を知りたい時である。
しかし、カタリナは少し眉を寄せて首を振った。
「今回ばかりは私にもわかりません。でも、ここはトラホスではありません。スノーリル様も勝手が違うはずです。初めに行きそうな場所もわかっています」
「どこに?」
スノーリルが人目を避けるために一番初めにしなければならないこと。それはあの非常に目立つ白い髪を隠すことだ。
「染めるにはどうしても水と場所が必要になります。水は手に入っても場所はそう簡単にあるわけではないです。もし、私がスノーリル様の立場なら、離宮に向かいます」
この城で唯一よく知っている場所だ。しかも離宮であるため普段人気がない。アリスガードがあの場所に誘い出したのもそういう場所だからだ。
カタリナの指摘に一行はすぐに離宮に向かった。
「遅かったわ」
そこには染め粉の入っていた空瓶と水桶、そして一枚の紙が置かれていた。
「なんと?」
「"海を見に行ってきます"」
「馬鹿なっ!」
読み上げたカタリナにトーマスが低く呻くように声を上げた。
「通れるような門扉はありますか?」
「いくつかあります。その前に、とりあえずアルジャーノン様に連絡します。もし城下に出たのであれば私たちでは足りません」
アドルの言葉にカタリナは頷いたが、トーマスは渋い顔をしてアドルを見ていた。
「トーマス殿もいいですね?」
「ここはトラホスではない。そちらに任せるしかない」
念を押され、トーマスは仕方がないように渋面を崩すことなく頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇
コツコツと扉が叩かれ、応対に出たサミュエルがアドルの訪問を告げた。
「おはようございます。緊急事態です」
煉瓦色の髪の男が無表情に告げた言葉に眉を上げたが、後ろから続く人物たちを見てなるほどと頷いた。
「それは穏やかではないな。執事殿と護衛殿までいるということは相当な緊急なのですかな?」
いつものようににこやかな笑顔を浮かべるアルジャーノンに、カタリナは挨拶もそこそこに今朝起きた事を話す。それを聞いたアルジャーノン大臣は目を見張り、アドルに確認すると一つ頷かれた。
「サミュエル。メディアーグを呼べ」
「はい」
命令を出したのはその場にいたもう一人の大臣だ。
「俺も行く」
「どちらへ?」
「元凶の所だ」
それだけ言い残して執務室を出て行った。その後姿を見てカタリナは眉を寄せアルジャーノン大臣を見た。
「あの方は確か…」
「クロチェスターです。昨夜の話が今日実行されるとは思いませんでしたな」
さらりと出てきた答えにカタリナはアルジャーノン大臣をしばらく凝視していた。
クロチェスターの補佐がメディアーグである。アルジャーノンとは別だと思っていたのだが、こんなにも近くにメディアーグと繋がる人物がいたという事は、アルジャーノン大臣は全てを知っている可能性がある。それをあえて今まで黙っていたということだ。
「さて、問題はいつ抜け出したか…。執事殿が最後に見たのは?」
わずかに殺気のようなものまであるカタリナへの質問に、今はそんな恨み言を考えている場合ではないと思いなおし質問に答えた。
「夕食をとった時です。その後に侍女のリズが会っていますが、一人で考え事がしたいということで退室しました」
「夜のうちに準備しても、動いたのはおそらく明けてからだと思います」
カタリナの事実とアドルの推測を聞き、アルジャーノンは一つ「ふむ」と唸った。
「どちらにしろ、情報を待つしかありませんな」
「私も城下に出たいのですが」
カタリナの申し出に視線を合わせる。
「伝があると?」
「はい」
もし、トラホスの情報網を使えるのならそれが一番早いことは間違いない。自国の姫を探すのだからこちらに不利に働くことも無いだろう。
「トラホスにいて一週間の潜伏を果たしたと聞きましたが?」
「なに?」
了承しかけたところに届いたアドルの言葉に思わず聞き返した。
カタリナを見れば難しい顔で沈黙しているし、トーマスは眉間にくっきりと皺を寄せむっつりと黙り込んでいる。その様子からどうやら事実であるらしかった。
「それではなおさら情報を待ったほうがいい。それに、まだ城から出たとわかったわけではないのですから」
「ええ。ですが、海に行くと言った以上、実行しているはずです」
「…予想外に活発な方だったのですね」
アルジャーノン大臣の率直な意見に、カタリナとトーマスは顔を合わせて同時にため息を落とした。
その様子にどうやらかなり苦労しているようだと思い、思わず苦笑がもれた。