その後はどうやって帰ってきたのかわからない。
気がついたらあてがわれた部屋にいた。
「スノーリル様。大丈夫ですか?」
部屋だと認識したがそのまま立っていて、椅子に座るという行動を起こすのにもカタリナの声が必要だった。
促されて椅子に座るとまた思考が真っ白になる。
どこから何を考えればいいのかわからない。いや、考えることを感情が拒否している。それでも何か考えなければならないのに、記憶がぽっかり抜け落ちたように何を考えるべきかを忘れてしまったようだ。
いなくなっていたカタリナが戻ってきて、ようやく時間を認識した。
目の前に暖かいお茶が運ばれる。
「とりあえず、お飲みください」
そう言ったカタリナもお茶を持って前の席に座わる。何気なく見ているとゆっくり茶器を持った手が持ち上がり、お茶を口にした。その行動を真似るように同じように持ち上げて口をつける。
ふわりと香るお茶はすっきりとした涼やかな香り。今は遠く離れた故郷の香りだ。
「カタリナ」
「はい」
「トラホスへ帰るわ」
「……そうですか」
「うん」
そうなのだ。もうここにいる必要がなくなったのだ。ディーディランとミストローグはめでたく同盟関係を築けたはず。明日にでもエストラーダは国へと帰るだろう。
だから、スノーリルも帰っていいはずだ。
「大臣に言わないとね」
それを決めてしまうと後はやはり何も考えられなかった。気がついたときには寝台に横になっていて、そこから見える星空を眺めていた。トラホスでは窓が小さく曇っているため、寝台から横になって眺めることなどできない。
この光景も見納めかと思ってから眠りについた。
眠ったと思ったらすぐに朝が来て、いつもの容量で着替え、また何も考えられずに時間だけがたった。
「スノーリル様。エストラーダ様がお帰りになるそうです」
その声にやはりそうなのかと思い、ようやく自分が少し良いドレスを纏っていることに気がついた。
「そう。じゃあ、お見送りしないと」
「はい」
受け答えだけはきちんとできているが、カタリナの表情が固い。心配させている自覚はあったが、どうにもならない。
気がつけばお昼くらいの時間になっていたようで、空を仰ぐと太陽は中天にあった。ぼんやりと太陽を見つめているとカタリナが声をかけてきたので視線を戻す。するとそこにはどこか曇った表情を浮かべた美女がいた。
「スノー。貴女、大丈夫?」
そういえば、昨日あれから逃げるように部屋に戻っている。
「はい。大丈夫です。昨日はごめんなさい」
心配させたままお別れというのもイヤなので笑顔を向けると、エストラーダも微笑んでくれた。
「いいえ。昨日は私のほうが悪かったわ。とんだ醜態を見せてしまって」
「ええ。とっても迫力があったわ」
くすくす笑って告げると美女は苦い顔をして「スノー」と低く声を出す。しかしすぐに表情を改め少し首をかしげた。
「スノー。本当に大丈夫?」
「大丈夫ですよ。私もすぐに帰るので危険はないと思います」
「…そうじゃなくて」
エストラーダが何を言っているのかわかっている。ただ、認識したくなくて話をはぐらかした。
「大丈夫ですから」
それ以上は聞きたくない。じっと深い青色の瞳を見つめると諦めたように長い睫毛を伏せて「わかった」と呟いた。ふと何かを思い出したように視線を再び合わせ、どこか悪戯っぽく笑った。
「忘れないでね、スノー。もしお嫁に行けなかったら私がもらってあげるわ」
初めてあった時に言った台詞を口にするエストラーダに、スノーリルも思わず笑って頷いた。
ようやく心から笑ったスノーリルを優しく見つめ、エストラーダはゆっくりとスノーリルの白い髪を撫でた。
「スノー。貴女もっと自分に自信を持ちなさい。大丈夫よ。貴女は幸せになるわ」
根拠の無い断言であるが、この蜜色の女王に言われると根拠などどうでもよくなってしまう。
「ありがとう。エスティ」
他にもいる挨拶の相手がいるので、エストラーダとの挨拶はここまでになった。
「手紙書くわね」
そういって離れていったエストラーダを見送ると、その先にディーディラン王家の人々がいる。それだけを認識して、視線を彼らの靴に落とした。
赤いエストラーダの靴が動き、馬車に乗り込んだところでようやく顔をあげ、沢山の馬車や騎馬、護衛たちを見送った。
スノーリルと同じく見送りにきていた人々たちが動き出したのを感じながら、それでもその場にしばらく佇んでいた。
「スノーリル様」
カタリナの声にのろのろと顔を上げると、ふわりと抱きしめられた。
「……カタリナ?」
返事の変わりにゆっくり髪を撫でていく。
「私たちもトラホスへ帰りましょう」
「…っ……」
優しく労わるように告げられる声に、どうしてか返答につまった。
「帰るのですよね?」
「……カタ、リナ」
「トラホスへ」
「………」
返事をしないスノーリルにカタリナは小さな子にするように、背中をぽんぽんと優しく叩く。
「まだ時間はあります。ゆっくり考えてください。どうするのが一番良いのか。私はスノーリル様の幸せを一番に願っています」
「うん」
カタリナの声がゆっくりと心に浸透する。
私の幸せってなんだろう?
◇ ◇ ◇ ◇
まだ周りには数人の貴族たちがいて、こちらの様子を窺っているようだった。中には目を丸くしている貴族もいたがそんな事を気にしている場合ではない。カタリナはスノーリルの手を引いて王城へと戻った。
またぴたりと心を閉ざしてしまった主の様子に、カタリナはどうするのが一番なのかを考えていた。
昨日のあの行動で、スノーリルの探している人物がこのディーディラン国の皇太子だということは明白だ。その後スノーリルはまるで抜け殻のようにぼんやりとし、目は何かを見てはいるが、何も映してはおらず。その様子を見るだけで嫌な予感に襲われる。
それは長く侍女をしているマーサも同じようだった。
「カタリナ」
不安そうに名を呼ばれ、目だけで問われるが現在の状況では何も答えられない。
「とにかく様子をみましょう。何か食べてくれるといいのだけれど」
昨日の夜からまともな物は何も口にしていない。心が弱っている時なだけに心配は募るが、解決方法が全く見当たらない。それはマーサも同じで、「そうね」と呟いたきり何をするでもなく椅子に腰かけた。
そのまま沈黙すると部屋の扉が開いてリズが戻ってきた。
「様子は?」
問いに小さく首を振る。
「しばらく一人で考えたいっておっしゃっていました」
「そう。考えてくれるのはいいことだわ」
「そうね」
マーサの言葉に賛同し、スノーリルのいる部屋へと続く扉を見た。
怖いのは何も考えずぼんやりしている時だ。衝動的に何をするかわからない。
「よりにもよって……」
思わず洩れた呟きは二人も感じた事だったのだろう。
今日マーサが持ってきた情報に、リズはもちろんカタリナも苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた。
「メディアーグ家は一度没落していまして、現在のメディアーグ家は五年前に再興された家なのだそうです。ディーディランでは没した家の再興には嫡男がいることが絶対条件なのだそうですが。ミア様しか血筋の残っていないメディアーグ家の再興は特例になっています。それというのも…」
ここまで聞き、カタリナは全てを理解した。
「五年前に継承権を放棄した当時の皇太子殿下が、ミア様と結婚されたということね」
「はい。ですから、メディアーグ様の弟君というのは…」
もっと早くそれを知りたかった。知っていればもう少しなんとかなったかも知れない。せめて、事前にスノーリルに知らせて、心の準備をさせることはできた。
それが、あの唐突な真実との遭遇だ。
部屋に戻りカタリナが真っ先にした事は、刃物の類を全てしまうということだった。
「とにかく、様子をみましょう。それしか私たちにできることはないわ。私はアルジャーノン大臣に会ってくる」
二人を見て声をかけると、同じように神妙な顔で二人とも頷いた。
カタリナは今一番文句を言いたい相手はあの笑い狸である。どこか剣呑な雰囲気をまとってカタリナは部屋を出て行った。