王城の一番上に位置する執務室は国の執政を任されるものに与えられる。
部屋の主は国王と、次期国王である皇太子なのだが、七割の確率で皇太子しかいない。
一際重厚な作りの分厚い扉を軽く叩くと返事があり、金属製の取っ手を掴んで押し開けると広い空間が現れる。
執務室ではあるが大臣、補佐官など合わせて二十人ほどが入れるように作ってあるためだ。
その広い部屋には大きな机が三つ、壁はほぼ本棚になっており、装飾が施されているものは天井から釣り下がる照明器具くらいなもので、実務的に作られた部屋だ。
窓はどれも大きく光を取り込んでおり、部屋の一番奥はテラスになっている。そこからの眺めは城下を一望でき、真下に目を向ければ王城の裾が見える。司令塔としての役割のある場所だとここにくるたびに実感する。
その部屋の三つある机の左、一番扉に近い場所に目的の人物がいた。
今日も無表情に黙々と、机の上に積まれた書類を片付けている。
もうすぐ昼であるのだがおそらく気がついていないのだろう。少し息を落としてから机の前に進む。
「大臣がいないのはいつものことですが、執事はどうしたのですか。兄上」
「それもいつものことだろう」
質問に視線も上げずに答える。
大臣たちは各々の執務室があるためここで仕事をする必要はないが、執事や補佐はいてもいいはずだ。しかし、有能な彼らはここに仕事がないとわかると別な場所へ行ってしまうという、何とも仕事熱心な人物ばかりが集まっている。
無表情に文面を読み、書類に署名をし、判を押して承認の箱へひらりと入れ、もう一枚書類を手に取りようやく視線を上げた。
「それで?」
「ミストローグの姫とお会いしたとか」
前置きもなく告げられた言葉に何も反応を返すこともなく、「それで?」ともう一度続けた。
「それで、ではありません。結婚してくれと言われたのなら快く返答すべきですが、どうせそんな話ではないのでしょう」
話によると昨日、皇太子である兄の花嫁候補としてきている隣国ミストローグの姫が面会を求め、兄はそれに応じたらしい。話しの内容は大体察している。おおかた早く国に戻せとでも言ってきたのだろう。
「この間の襲撃事件も、我らを狙ったというよりはエストラーダ姫を狙ったものでしょう。アルジャーノン大臣の話しだと黒幕はミストローグ王弟だという話ではないですか。王弟は同盟に反対なのでしょう……」
「だからこそ、早く戻りたいのだろう。結婚などしている場合ではない」
話を途中で折ると、まるでくだらないとでも言いたげに小さく息を落として、また書類に目を戻してしまった。
「兄上」
母親譲りの黒い髪。瞳は父親譲りで緑色。皇太子としての仕事をよくし、国王である父がここにいなくてもいいくらい有能な兄である。しかし、あまり社交的にはできてはおらず、大臣たちにはとっつき難いと思われている。
兄弟間でさえ必要以上のことをあまり話さないし、表情を崩すこともない。
しかし、今回はそう簡単に引くわけにはいかない。
「兄上、少しは話を聞いてください」
「聞いている」
「俺の目を見て、聞いてください」
食い下がると仕方なさそうにため息を一つつき、書類を放って椅子を少しだけ引いて真直ぐ見つめてくる。
「それで?」
一応話を聞く体勢に入ってくれた兄に、姿勢を正して話す。
「同盟を結ぶのに一番てっとり早い方法は姻戚関係になることです。そのくらい兄上もよくわかっているでしょう。エストラーダ姫はよい姫です。何がそんなに不満なのですか」
「私に不満はないが、向こうは嫌がっている」
「そんなものは兄上の甲斐性の問題です。国の代表として話をすればわかってくれる姫であると兄上もご存知でしょう」
「そうだな。エストラーダは頭のいい女だ。それが国のためになるとわかれば自分の気持ちなど放って快諾するだろうな」
「でしたら…」
「それが国のためにならないから断っている。ただ、それだけだ。私もミストローグとより良い同盟関係になるために、エストラーダには早く国王の座に上ってもらいたいと思っている」
畳みかけようとして、逆に畳み掛けられてしまった。
すでに二人の間で話しはついていると暗に言われている。じっと見上げてくる兄の視線は無機質で感情が無い。人形のようだと幾度か思った事があるが、この瞳の奥にはちゃんと感情がある。
「クラウド」
兄が皇太子になってからあまり呼ぶことのなくなった名を呼ぶと、緑の瞳がゆっくりと微笑んで、幾分柔らかい声で話し出した。
「ミストローグは男女に関わらず長子が王位を継ぐのが慣わしだ。それが他国の皇太子と結婚など本来ならありえない。どうしても姻戚関係を築きたいのであれば、一つだけ、解消する方法がある」
指を一本立て悪戯っぽく笑んだ瞳に思わず眉を顰めてしまった。皇太子としての顔のときより好きだが、正直あまり良い経験がない。
「アトラスがミストローグへ嫁ぐか、アリスガードがディーディランへ嫁ぐかのどちらかだ。それで全て丸く収まるだろ」
「どうして俺が嫁ぐんだ。シルフィナとか他にいるだろうが!」
くすくすと意地悪く笑う同じ年の兄に、久方ぶりに怒りが這い上がり思わず声を荒げてしまった。しかし、こちらの怒りなど露とも思っていない様子でまだ笑っている。
「なんだ、エストラーダが好きだから側にいる方法としてそんな事を言っているのかと思ったのに。違うのか?」
「俺は今、白姫を口説くのに手いっぱいだ」
「ふーん。それで? 脈はありそうか?」
面白そうに尋ねてくる兄の表情を見るに、状況を知っているだろう。
「絶対に手に入れる。別にいいんだろう? そう言ったよな」
始めてこの話をした時にすでに言質は取ってある。それを繰り返し尋ねると苦笑された。
「アトラスの恋路を邪魔する気はない。エストラーダだろうがトラホスの姫だろうが、好きにするといい。ただ」
ここで一度言葉を切り、始めの皇太子としての顔を取り戻して告げる。
「こちらが不利益になるようなことにだけはするな」
低く冷たく告げる声に、不必要になれば例え血の繋がった弟でも、いつでも切り捨てるような冷酷な顔をする。
ひやりとしたものが背を撫で、自分の立場を思い出す。
「…わかりました」
本当に同い年なのだろうかとこういう時に思う。頭の出来が違うとか、そういう問題ではなく、持っている魂のようなものが違うのだ。昔から悪戯っぽい笑みを浮かべる人ではあったが、ふとすると完璧で無機質な精巧にできた人形のように表情がなくなる。それは皇太子という立場に立ってから頻繁に、いや、ほぼ常になっている。
「話は終わりか?」
「はい。ああ、もう一つだけ。お昼ですよ」
「もうか?」
再び書類に向かった兄に教えると眉を寄せて書類の山を見る。
「執事を呼んできますね」
「ああ、頼む」
文面を目で追いながら返事をする兄に一礼してから部屋を出た。
きた廊下を進み、すれ違う人たちに軽く頭を下げられ、執事を探す。しかし、すぐに鉢合わせることになった。有能である執事はそろそろ手が足りなくなった頃だろうと予測しているらしかった。
執事と言葉を交わして、自分も昼食を取ろうかと自室に戻る途中で、ミストローグの補佐官が大臣の部屋から出てくるのを見つけた。
ミストローグとの同盟を反対している者はディーディランにもいるが、ミストローグにも当然いるだろう。赤毛の補佐官があちこちに顔を出しているのもよく見かける。
あの話しぶりからすると、どうやら兄とエストラーダ姫の間にはすでに同盟関係ができているようだったなと、話を思い出して眉を寄せた。
同盟はエストラーダと結婚するのが一番てっとり早い。男が嫁ぐというのはありえないので当然女であるエストラーダがディーディランに来ることになる。
兄は「男女問わず長子が」と言っていたが、そんなもの放棄してしまえば次に回る。実際、今のディーディランがそうだ。同盟のための結婚であれば大義名分になるし、エストラーダにはアリスガードという優秀な実弟がいるのだ、継承問題には全く問題はないはずだ。
「もしかして、はぐらかされたのか…」
弟のアリスガードがミストローグ国王になればいい。
それをこちらが言う前に、兄の意思をすでに聞いてしまった。聞いてしまった以上、これ以上何を言っても聴く耳は持たないだろうし、ミストローグ側も動く事はないだろう。
そういえば、その実弟もディーディランに来ている。
「姉弟揃って厄介払いか」
どこの国でも同じような問題が起きているものだなと、他人事のように思い、あの白い姫を思いだした。
"白異"と呼ばれる忌み子の存在は知っている。
神の使いと呼ばれる所以として白い色を身に纏っている。本来は部分的に出るものでそれほど珍しいものではないのだが、「白姫」などという異称がつくだけはあると、目にして始めて思った。
噂ばかりはよく聞くトラホスの「白姫」。小さな島国であるトラホスから一歩も出た事がなく、これからも出ないだろうと言われていた姫。真っ白な髪に清楚な雰囲気を纏い、純粋に真直ぐ人の目を見つめてくる。
世間や人の持つ闇を知らない、本当のお姫様。
そんな人が皇太子妃、あるいは妾にでもなったら、このディーディランでなど生きていけるはずがない。
「でも意外に、なかなか落ちてくれないものだな」
箱入りなのだから恋愛経験などないだろうと思って積極的に働きかけたのが逆に悪かったのか、少し警戒をもたれているようだ。
それでも、手に入れると決めた。
「絶対に近寄らせない」
幸いまだ二人は会っていない。このまま会わずにいてくれることを願うが、それもいつ脅かされるかわからない。兄はおそらく会いたいと言われれば会うだろう。
「その前に……」
なんとしてでもこちらに想いを向けてもらわねばならない。