突然終わった兄妹喧嘩に、スノーリルは不思議そうに首をかしげたが、ふと見やればいつの間にやら二人の向こう側に黒い髪の男性が立っていた。
「お二人とも、グレイブスとしての自覚はございますか?」
薄っすらと笑みを刻んだ口元から発せられる声は低く柔らかいが、間違いなく怒っているとわかるほどひんやりとした音だ。
二人がギクシャクと男性のほうへ視線を向ける。
「ああ、えっと…」
「クリス。あの、これには深いわけがあるのよっ」
「ほう。さようですか?」
物腰こそ柔らかい男性の問いに、しどろもどろになる二人を可哀想だと思う一方で、笑いがこみ上げる。
黒髪に、クリスと呼ばれているということは、これがマーサの言っていた侍従であるようだが、スノーリルの探している人物ではなかった。
隣に立つカタリナを見上げて首を横に振ると、カタリナも微かに頷いた。
「あの、私はこれで」
スノーリルがそう声をかけると、ダイアナが勢いよく振り返った。
「話はまだ終わっていませんわ!」
「ダイアナ様…」
「クリスも黙っていて!」
侍従が止めに入ったことで熱も冷めたかと思ったのだが、そこは恋する乙女。例え兄妹喧嘩をその存在だけで止める侍従がいても止まらないようだ。
「スノーリル姫。受けていただけますよね?」
「何の準備もない方にあまりにも唐突では…」
さすがの侍従もあまりにもむちゃくちゃな決闘に苦言を呈するが、そんなことで止まらないのを知っているのだろう。ため息をつき、アーノルドと視線を合わせ強硬手段にでも出そうな雰囲気の中、スノーリルが返事をした。
「いいですよ」
「は?」
「え」
「本気ですか!?」
スノーリルの突然の了承に、侍従とダイアナがぽかんと瞬き、アーノルドだけが馬鹿なことをと非難の声を上げた。
「本気です。それに、準備してもしなくても同じです。ここは鍛錬場ですし、文句は出ないと思いますけど」
ダイアナにそう告げると、はっと我に返ったように頷いた。
「ええ、ここでなら誰も文句は言いませんわ。そうと決まれば急ぎましょう」
「ダイアナ! 貴女も姫を止めてください」
アーノルドがカタリナに声をかけるが、カタリナはただにっこりと微笑んだだけで歩き出すスノーリルたちの後を追った。
「クリスもなんとか言ってくれ!」
「あの様子のダイアナ様に何を言っても同じです。それにトラホスの姫君が了承したのですから止めようもございません」
そういうと侍従も三人の後を追いかける。
冷静な二人…いや、スノーリルも含めた三人に、アーノルドは苛立ちそのままの足取りで鍛錬場に向かった。
鍛錬場にはたくさんの人がいたのだが、クリスが一人の男になにやら言いに行くとすぐに人がいなくなった。
「見世物ではありませんので」
黒髪の侍従はそういうとスノーリルに木製の剣を手渡した。
「ありがとうございます」
「格好はそのままで?」
「ええ、大丈夫です。あ、でも一つだけ。私は決闘の作法など知りませんし、何を基準に勝ち負けが成立するのかも知りませんが」
本当の決闘…命のやり取りをしたことがないのはおそらくダイアナも同じだろうが、試合という形式ではダイアナは経験がある。しかし、スノーリルはその経験も全くない。
「簡単よ。どちらかが参ったと言えばそれで終わりです」
ダイアナが木製の剣を持ち説明をするがあまりに大雑把過ぎる。
「そうなの…ですか」
「審判は私がやりましょう」
黒髪の侍従がそういうと、アーノルドが出てきてダイアナとスノーリルにもう一度やめるように言うが、すでに誰も聞く耳を持っていない。結局、苦笑したカタリナにそっと肩をつかまれ、少し離れた場所まで移動させられてしまった。
「では、両者いいですね?」
「ええ、もちろん」
「はい」
侍従の確認にダイアナは微笑んで答え、スノーリルも頷き、アーノルドの心配をよそに、とうとう二人の決闘は始まってしまった。
「始め!」
クリスのその開始の声にいち早く反応したのはダイアナだ。
一気に間をつめ、スノーリルの喉元をめがけて木剣を突き出した。
あっという間の出来事だ。スノーリルは剣を持った手を上げることすらできない。気がついたときには喉元に剣先が突きつけられていた。
「…私の勝ちですね」
そのままの体勢でにっこり微笑んでダイアナが告げると、スノーリルはきょとんとした様子でダイアナを見つめた。
「そうなのですか?」
「は?」
スノーリルの発言にダイアナが眉を寄せる。
「どちらかが参ったと言うまでとおっしゃったでしょう?」
「…貴女、何を言ってるの?」
スノーリルの言い訳にダイアナは呆れたように呟いた。喉元に突きつけられた木剣を見ればスノーリルが負けた事は一目瞭然だ。しかし、スノーリルはその剣先を指でちょこんと触り、ぴんと弾く。
「こんな風に止まってしまっては意味が無いのでは?」
小さな力であっさりと別な方向へそれた剣先にダイアナが気をとられた隙をつき、スノーリルがダイアナの喉に剣先をあてた。そのまま少し押してみると、ぎょっとしたようにダイアナが後ろに飛び退いた。
「あ、貴女!!」
喉元を押さえ、そう叫ぶダイアナは屈辱に頬を染め、審判をしているクリスを睨みつけた。
「クリス! 何を見ているの!」
「スノーリル姫のおっしゃる通りです。なぜ止めたのですか? ぬるいですよ」
どこか突き放した厳しい声に、ダイアナが言葉をつまらせる。苛立った様子で頬を紅潮させ、もう一度構え直して向き合うと短く声を発してスノーリルに挑みかかる。
横薙ぎの一線は確実に首を捉えている。
しかし、その動きにもやはりスノーリルは反応できない。
「…!!」
避けきれないと悟ったのか、逆にダイアナが力を削ぎ、またしてもスノーリルの首ぎりぎりのところで剣先を止める。しかし、その次の瞬間に、スノーリルが腕をあげ、それに気づいたダイアナは弾かれたように後退した。
「貴女! やる気はあるの!?」
「ダイアナ様こそ。やる気はあるのですか?」
「クリス! 勝負はついているわ! どう見ても私のほうが強いじゃないっ!」
なぜダイアナの勝ちだと審判を下さないのか。ダイアナの苛立ちは戦況を見守るクリスにも向かったが、当の黒髪の侍従はけろりとしたもので、ダイアナに一瞥をくれただけで弁解もしない。
何も答えないクリスにダイアナも唇を噛んでそれ以上の言葉を飲み込んだ。言えば言うだけ自分が惨めな気がしたのだ。
「今度は止めないわよ」
ダイアナはそう宣言してスノーリルに打ち込んだ。先ほどとは逆側から横なぎに、首ではなく腕に向かって木剣を振る――。
「あっ!!」
打ち据えられる鈍い音と共に悲鳴が上がり、床に木剣が落ちる音が鍛錬場に響き渡った。その音を聞きながら、ダイアナは信じられないといった表情で見つめた。その先にいるのは痛みに顔を歪めて、それでもダイアナを見据える白い髪の女。
一気に血の気が引いたように顔を青くして、手に残る打ち据えた感触に両手を握り締めたダイアナは、今にも泣き出しそうな表情だ。
「どうしました? 私はまだ参ったとは言っていません。剣を拾ってください」
「…い、いやよ…」
「それでは決闘になりません。それとも私に打ちのめされたいのですか?」
にっこりと微笑んで告げるスノーリルに、ダイアナは無意識に首を横に振って否定した。
「スノーリル姫。これ以上ダイアナ様をいじめないでいただきたい」
溜息混じりに告げたのは審判をしているクリスだった。
「ダイアナ様。スノーリル姫の勝ちでよろしいですね?」
戦意喪失状態のダイアナに、クリスは困ったように確認した。しかし、それで倒れるダイアナではない。
「そ、そんなのおかしいわ!! だって、これがもし真剣だったら、スノーリル姫は大怪我をしているのよ! それなのに私が負けただなんて…」
「黙りなさい」
冷たく低く命令を下すような口調に、ダイアナがびくりと肩を震わせた。
「貴女はスノーリル姫に血を見るほどの怪我を負わせたいのですか」
その言葉に、ダイアナは目を見開いた。
「始めの一撃を止めた時点で貴女の負けは決まりました。なぜそれを理解しないのです」
緩い力ではあったが、スノーリルの剣先はダイアナの喉を捕らえた。
もしあれが真剣であったのならば。剣先を止めたダイアナは確実に死んでいた。その事実にもう一度喉に手を当て、スノーリルを見る。
「それに貴女は剣を手放している。それが全てです」
クリスの指摘にようやく自分が木剣を手にしていないことに気がついたらしい。
対してスノーリルの手にはまだ木剣がしっかりと握られている。
「………私の負けなのね」
震える声で告げるとぽろぽろと涙が溢れ出した。
その様子にアーノルドが駆け寄り、人生初の敗北に打ちひしがれる妹の背をゆっくりと撫でて慰める。
「申し訳ありませんでした」
審判をしたクリスがスノーリルの前で深々と頭を下げて謝罪する。
スノーリルはそれに答えることなく、ただ苦笑した。近くにやってきたカタリナがスノーリルの手から木剣を取り上げると、心配そうに覗きこんできた。
「大丈夫よ。痛い事は確かだけど、骨は折れたりしてないから」
「まったく、無茶をなさいますね」
呆れたようにそれでも微笑んで、カタリナが木剣をクリスに預けた。
「治療室は近くでしょうか?」
「ええ、ご案内します。アーノルド様」
「ああ。ここはいいから」
床に座り込んで泣いているダイアナを撫でながら、苦笑しつつアーノルドが答えた。
その様子を見て頷いたクリスが案内し、スノーリルの訪問に驚く医師のいる治療室で手当てを受けた。
治療室から出てきたスノーリルに、グレイブス家侍従はもう一度頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした。私の判断も甘かったです」
もっと早くに止めるべきだったと謝罪する侍従に、スノーリルは首を横に振った。
「いいえ。それではダイアナ様は納得しないでしょう。真剣ではなかったのですから平気です。それに、こうなるように仕向けたのは私のほうですから」
あっさりとした返答に、クリスは頭をあげスノーリルをまじまじと見つめた。
「ダイアナ様は私と同じ、守られる側の人間です。話を聞く限りでは人並みよりお強いということでしたから、きっと本気で人を打ち据えた事はないのだろうなと…。相手が女性であれば特に」
防具も何もない、生身の人間を打ち据えた事はおそらく経験した事はないだろう。あの反応を見ればそれは一目瞭然だ。
「ですが、あまりにも無謀です」
ダイアナとの決闘を見る限りスノーリルは剣をやっていない。ダイアナの反応についてきていないし、すべて後手に回っていたのは事実だ。
「あれがもし真剣でしたら…」
「真剣だったらカタリナが黙っていません」
その言葉でクリスがカタリナを見る。
いつも側に控える侍女として認識されているカタリナであるが、見る人間が見ればわかる剣士としての顔を持っている。
にこやかに微笑むカタリナを凝視したクリスがわずかに眉を寄せたが、すぐにスノーリルに視線を移し頷いた。
「なるほど。良い護衛をお持ちですね」
話はこれで終わり、ダイアナの様子を見てくると告げ足早に去って行った。
スノーリルの目的も達成しているし、クリスにはもう用は無いため自室に戻ろうとして、ふと首をかしげた。
「そういえば、アドルさんは?」
「アトラス王子と何か話しをしていたようですが、それきり姿が見えません」
少し硬い表情で報告するカタリナにスノーリルも少し考えたが、これと言って悪い事はない気がした。
「アルジャーノン大臣へ報告してたりして」
目に見えて報告はさすがにしないだろうが、そんなスノーリルの呟きにカタリナも便乗してくすりと笑う。
「そうですね。笑い狸殿の情報源である事は間違いないでしょうから」
「くしゃみしてるわよ、きっと」
主従仲良くくすくす笑い、ディーディラン王城の廊下を歩く。
その日、ダイアナ嬢がトラホスの姫に負けたという噂が、静かに素早く広がったが誰もが本気にはしなかった。