昼食を済ませ、まだ騒がしい庭園を後にし、部屋へと戻るその廊下に男性が一人壁に背を預けて佇んでいた。構わず歩いていくとこちらに気がついたのか、壁から背を離し、こちらに向いて声をかけてきた。
「スノーリル姫」
見覚えのあるその人物に、一瞬だけ躊躇した。
「アトラス王子…」
王城であるため居てもおかしくはないが、どうやら待っていた雰囲気のアトラスにスノーリルは首をかしげた。
「なにかありましたか?」
「それはこちらの台詞です。お怪我はないのですか?」
どうやらあの騒ぎを聞きつけてやってきたようだ。
怪我も何も、スノーリルがやるだけやって逃げてきたようなものだ。あの後、間違いなく庭園は大騒ぎだっただろう。そのことを少しだけ考え、苦笑が洩れた。
「私に怪我はありません。あのお二方のほうが大変だったと思います」
抗議にきた女性陣はカタリナと、扉の前にいたトーマス、アドルがなんとかしてくれたのでどのような抗議だったかは知らないが、それでも人気のある人物であれば間違いなく醜聞である。
「まったく、無茶をなさる。敵をどのくらい増やしたかわかりませんよ?」
そのくらい人気のある二人だということだ。
「アトラス王子が私を構うともっと増えるのですが」
初めてあった庭園での女性たちの視線の痛さに比べれば、今回はまだいいような気がした。あれだけのことをされたあの二人がスノーリルに好意を持つことはないだろうから。
しかし、スノーリルの牽制にアトラスは動じなかった。
「俺は本気だと言いましたよ」
真直ぐに見つめてくる緑色の瞳を向けられどきりとする。しかし、それは甘い感情ではなく、どちらかというと緊張のほうが強い。思い返せば、初めて会ったときも似た感覚だったような気がした。
しばらく見つめ合ったまま廊下に佇んでいたが、後ろから遠慮がちな咳払いが聞こえ、はっと我に返る。
「…ところで、スノーリル姫は兄上にはお会いしたのですか?」
「え? いいえ」
ディーディランに来た時点で、三ヶ月の間皇太子との面会はできない決まりだと言われている。それが必要のない事のだと知っても、表面上はそれを守るにこしたことはないと思い、会おうとも思わなかったというのが本音だ。
「会えるのは二ヶ月後だと思っていますが」
当たり障りのない返事をすると、アトラスは満足そうに頷いた。
「そうですか。では、その間に振り向かせなければダメですね」
にっこりと微笑まれ、言葉の意味にしばらく呆然とした。
「………あの」
「はい」
「本気なのですか?」
つい今しがた本気だとは言われているが、どうしても聞き返してしまった。そのくらい、恋愛というものはスノーリルにとって重く、相手の気持ちを疑う材料なのである。
「どうしたら信じていただけますか?」
アトラスは少し困った表情で尋ねる。しかし、スノーリルにそんなことがわかるわけもなく、ただ視線を落とした。
「そうですね、まずは王子を辞めていただくところからでしょうか」
返事に窮したスノーリルを助けたのはカタリナだ。優しげな笑みを湛え、しかし毅然とアトラスを見据えている。そのカタリナの言葉の意味を考えるように、眉を寄せたアトラスはちらりとスノーリルの後ろへと視線を投げた。
おそらくアドルへと向けられた視線だと思う。その視線をそのままスノーリルへと移動させてきたのだが、その瞳が少しだけ優しくなっているように感じた。
冷静によく見てみると、確かにアトラスはかなりの美男子だ。あの男性よりは線が甘く、柔和であることを考えると女性受けはアトラスのほうが勝るだろう。ただ、いつもどこか固い印象があるのは口調だけのせいではない気がする。
「スノーリル姫は"王子"には興味ありませんか?」
興味以前の問題だが、アトラスの質問は何か含みがある気がする。カタリナが少しだけスノーリルの前に立ちはだかった。無言の警告にアトラスが苦笑する。
「失礼しました。ですが、俺は本当に、本気ですよ」
強く見つめられ、その視線が真剣で彼の本気が見える。
「俺は、スノーリル姫。貴女が欲しい」
その告白にカタリナとトーマスが息を飲んだのを聞いたような気がした。しかし、当のスノーリルはただただ呆然と、アトラスを見つめるばかりだった。
その主の様子に気がついたのか、カタリナが「失礼します」と言い残し、スノーリルの手を引いて廊下を歩き出した。アトラスはその後姿を目で追うだけでついてくる気配はない。
ひたすら廊下をスノーリルの手を引いて突き進んでいたカタリナだが、ふいに手を引かれ後ろを振り返った。
「平気」
無表情でそれだけ言うと手を離し、自分で歩き出す。
その後姿を三人で追う形でスノーリルの部屋にまで来た。護衛である二人は次の間まででとりあえず立ち止まる。
スノーリルが自室へ入り扉がぱたりと閉まると、トーマスがカタリナの肩に手をかけた。しかしそのまま何も言うことない。カタリナはそれでもわかったように頷いた。
「まだ大丈夫です。でも、警戒はしてください。ここはトラホスではないのですから」
「わかった」
それだけを言い残しカタリナも部屋へと入っていった。
その後ろ姿が消えると、トーマスは思いっきり渋面で護衛室へ入った。
「おかえりな、さい?」
三人いる護衛の一人が語尾を警戒に染めトーマスを見やると、伝染したかのように他の二人もトーマスに視線を送る。
「姫様が告白された」
「え!!」
「誰にですか?」
「アトラス王子だ。それはどうでもいい。皆、心してくれ」
トーマスの最後の一言に皆一様に気を引き締め、固い表情で頷く。
その様子を一人外部の人間であるアドルだけが不思議そうに見ていた。
「いったい何事です?」
問うとトーマスはくるりとアドルを振り返り、真剣な瞳で向き合った。
「今は貴方に一番協力を願いたい。姫様の動向に注意してくれ」
「何かしでかすのですか」
アドルの言葉に、トーマスの後ろの三人が一様に視線を彷徨わせ黙りこんだ。それが間違いようのない肯定である。
「告白され浮かれているなら何の問題もない。貴方も見ただろう、今回は逆だ。あの状態の姫様はまずい。とにかく、まずい」
そこまで言うと制服のボタンを外して首を寛げ、息を吐く。
「私たちの姫様は人がうらやむような特技ないが、人を見る目だけは確かなんだ。私が貴方をここに留めることを了承しているのは他でもない、姫様がそれを許したからだ」
その話を聞いて、そういえば初め会ったときにそんな行動をとっていたなと思い出すアドルに、トーマスは「今はそれはいい」とどこか疲れたように床を見る。
「姫様はあの通りの方だ。恋愛に関しては限りなく慎重で、トラホスでも何度か求婚があったが、今回と同じような反応の時は大体同じ行動をとる」
「何か奇妙な行動でも?」
誰にも知られてはならないほどの奇行でもやるのだろうかと、少しからかいもあったのだが、視線を上げたトーマスは真剣だった。
「ある意味、そうとも言える」
その言葉にアドルはわずかに眉を寄せた。
「姫様はその方の事を知るために侍女に扮することがあるんだ」
「それが?」
言葉だけ聞けばそれほど奇行とも言えない。
「トラホスで一週間の潜伏を果たした」
「は?」
言われた意味がよくわからない。トーマスの黒い瞳を凝視したまま、その言葉の意味を考えるアドルに、他三人も沈黙を通した。
「…つまり、あの姫は求婚した男の身辺調査を自らがするということか?」
それも長期にわたって。
しかし、それでも彼らがここまで警戒する様子がわからない。いいや、トーマスの言葉が真実正しいのだとしたら、一つ妙な単語があった。
「ここはディーディランだ。例えどんなに巧妙に隠れたとしてもすぐに見つかる」
そもそもトラホスは平和な国だ。危機意識の違いからディーディランに潜伏するにはかなりの技術や度胸それに経験がものをいう。それが一国の姫がやるなど、見つけてくれと言っているようなものではないか。
アドルの言外の声にトーマスは首を横に振った。
「あの小さなトラホスで、誰よりも姫様を知っているカタリナが探し出すのに、一週間かかったんだ。……貴方は姫様の顔や、立ち姿を正確に思い出せるか?」
そう言われここ最近は毎日目にするお姫様を思い出してみるが、そこでようやくことの重大さに気がついた。
思い出すのはあの真っ白な髪ばかりで、顔立ちを正確には思い出せない。
身長は確かカタリナより少し小さいくらいでそれほど高くはない。逆に言えばそれほど小さくもなく、ごく一般的な身長だ。体型も細くもなく、太くもなく。変わった癖があるかなど付き合いの短さでわかるものではない。声も話し方も、これといって特徴があるわけでもない。
初めてあった時、王族としては少し砕けた口調だとは思ったが、もしそれが侍女としてなら違和感はまったくないはずだ。
小さなトラホスで一週間。
広大なこのディーディランでならどのくらいの潜伏を果たすのか、想像するだに恐ろしい。トーマスの心理はまさにそこだろう。
「それは、確かにまずいな」
ことの重大さをようやく理解したアドルが洩らした声は、その場にいた全員も思ったに違いなく、もしかしたらカタリナを筆頭に侍女たちも思っていることだろう。
「でも、まだ大丈夫なのだろう。もしいなくなったときはこちらも総動員で探し出せるよう計らう。それは約束する」
ディーディラン側からの護衛は頼もしくそう請負はしたが、トーマス以下三人は気を緩めることなく頷いた。
その様子にアドルも珍しく頭痛を覚えたように額に手をやった。
「ったく。これ以上俺の頭痛の種を増やさないでくれ」
低く小さく洩れたのは本音だったかもしれない。
部屋に入るとスノーリルは真直ぐ窓際へと向かった。
腕を組んで外の景色を見ているよう見えるが、実際のところ何も見てはいない様子で、なにやら考えているようだった。
その背中を見つめてカタリナが呼びかけた。
「スノーリル様」
「ねえ、カタリナ。アトラス王子ってどんな人なのかな?」
「そうですね。噂で聞く分にはとても良い方のようです」
カタリナの返答にようやく顔をこちらに向ける。その表情はやはり無表情だ。
じっと見つめてくる視線はカタリナを見てはいない。
「スノーリル様。とにかくお座りください」
そういって椅子を少し引くと、大人しくそこへ腰を下ろす。
「何か気になるのですか?」
カタリナの声に首をかしげる。
気になる。それは初めて会ったときから思っていた感情だ。確かに気にはなっている。初恋の相手が別だとわかった今でもアトラスはなぜかとても気になる。あの緑の瞳に見つめられるとどうしても見つめ返してしまう…。
「スノーリル様」
名を呼ばれ見上げればカタリナが真剣な表情でこちらを見つめている。
「ここはディーディランです」
口癖のようになってしまっているその言葉に、ようやくスノーリルも表情を取り戻す。ゆっくり息を吐きながら背もたれに寄りかかった。
「そうよね。何をするにも足りないわ」
人も、味方も、情報も。
「何をそんなに気にしているのですか?」
「カタリナは気にならない? アトラス王子がどうして私を欲しいのか」
普通に考えればスノーリルが好きだから。とても簡単で明確な感情が作用した結果である。しかし、スノーリルは"白異"だ。アトラスが白を神聖視しているならそれも頷けるが、あの小さな王女エマリーアが寄せるような熱をまったく感じない。
「アトラス王子はもしかしたら、皇太子に嫌がらせをしたいだけかもしれないわ。ううん。それよりもっと悪いことかもしれない…」
初めて会った時も、先ほども、言葉とは裏腹に何の感情も見えないのである。好きだから欲しいと求められているのではなく、スノーリルを物としてしか見ていない目をしている。
「私の利用価値はトラホスの王女であること。エストラーダ様が皇太子妃になる確率が高い今なら、私を横からさらっていくのは簡単だし。厄介な"白姫"をトラホスから引き取るならそれなりの恩を売れるわ」
「地位はともかく。確かに皇太子が娶るよりは、アトラス王子が娶るほうが波風も立ちにくいかも知れません。それにアトラス王子は皇太子から助力を求められる立場になれますしね」
スノーリルは太陽王への直接の伝となると考えているのであれば。また、その事実を知っているのであれば。
カタリナもスノーリルの考えにしばらく考え込んでいた。
「なるほど。アトラス王子がどんな方か、知る必要はありますね」
「うん」
難しい顔をするスノーリルをしばらく見つめ、カタリナがくすりと笑みをこぼした。
「? なに?」
「いいえ」
「なによ。言いたいことがあるならちゃんと言って」
「スノーリル様はお姫様にしておくはもったいないです」
なにやらどこかで聞いた台詞に、スノーリルは眉を寄せ「どういう意味よ」と呟いた。
「とにかく、アトラス王子は注意しておいて。私は今それどころじゃないの」
「ええ、そうして下さい。そのほうがトーマスの心労も和らぎます」
カタリナの言葉の意味がよくわからず、小首をかしげるスノーリルを放って一端引き下がったカタリナは、そこにそわそわした侍女二人を見つけて笑顔で頷いた。
その無言の表現に侍女二人は安堵の息をつき、マーサが護衛部屋へ報告に行ったのは至極自然なことだった。