庭園に程近い一室に通されると、すぐにメディアーグ夫人の侍女がやってきて水に濡れたドレスを拭いてくれた。
「せっかくですからここで昼食を食べていかれますか?」
メディアーグ夫人の申し入れに少し考えたが、頷いた。
「はい。せっかくですからそうさせていただきます」
これから戻ってしまっては部屋にいるマーサとリズに食事の用意をさせてしまう。そんなことを苦にする二人ではないが、させなくて済むならそれに越したことは無いだろう。
スノーリルの返事に夫人も頷くとすぐに庭園へと戻って行った。主催の夫人がいなくなってはその場にいる貴族たちが混乱するだろう。
一息入れると扉を叩く音がした。
カタリナが出ると誰かとなにやら話していたが、やがてスノーリルのところに戻ってくると苦笑して告げた。
「少し席を外しますね。どうやらあのお二人を慕う方たちが抗議にきたようですから。扉の前にいますので」
「ごめんなさい」
後先考えなかった行動の尻拭いは執事のカタリナがやってくれる事実に、少しだけ反省した。
「スノーリル様は何も悪い事はなさっていません。水をかけられたくらいで人が死ぬ事はありませんし、あの不毛な戦いを止められなかった人たちの戯言など何でもありません」
剣士のカタリナがいう言葉はいつも誠実で強い。
「うん。ありがとう」
スノーリルの言葉に優しく微笑む執事が部屋を出ると不意に静けさがやってきた。
女性であるスノーリルが一人でいる部屋に、護衛とはいえ男性であるトーマスやアドルが入ることはできない。今は特別緊急でもないのでそれが普通だ。
久々に一人になる気がして大きく息を吐き出した。
通された部屋はスノーリルの居る部屋よりは狭く、明り取り用に作られている中庭に面しているようだ。庭園と比べひどく簡素な庭は誰もいないこともあり、小さな鳥たちのたまり場になっているようだ。
誰かが餌付けでもしているのか、果物の欠片やパンくずなどが乗った小さな台座が庭の片隅に置かれている。そこに黄色い小鳥が一羽止まっている。
よく見ようと窓に近づくとこちらの気配に気がついたのか、小鳥がさっと飛び去ってしまった。
「あ〜。残念」
小鳥を見送って見上げた空は淡く青い。
窓を少し開いて外の空気を入れると、庭園とは違い土の匂いのほうが強かった。それでも清清しい空気を吸い込んで、吐き出した。
「こんなに平和なのにね」
開けた窓に寄りかかるようにして目を閉じ、先ほどの喧騒を思い出して、もう一度ため息を吐く。
あのまま止めなくても本当はよかったのかもしれない。剣を日常的に腰に提げている貴族同士だ。扱いには慣れているだろう。でも、それでも、エストラーダの言うような間違いは偶発的に起こるものだ。
起こってから後悔しても遅い。起きると思ったら事前に対処しなさい。
母が常日頃いっている言葉だ。
相手を傷つけないということは、自分を守る手段にもなる。
しかし、その当たり前の自己防衛がこの国には無い。
「血を見て怖いと思わないのかな」
流された血が相手のものだとしても、それはいつか自分が流すものでもある。
広い大地。広い庭園。広い王城。
どれをとってもトラホスとは比べ物にならないほど広く大きい。それなのに…。
「息苦しい」
息が詰まる。華やかな中から切り取られたようにある、この狭く簡素な中庭が実はこのディーディランそのものなのかもしれない。
誰もいない、寂しい場所。
庭園で聞いたメディアーグ夫人の言葉をまざまざと思い出し、目を開けた。
「?」
視界に先ほどは無かったはずの影があり、視線を窓の外に向け、そこで思わず叫びそうになった口を塞がれる。
「できれば静かにして欲しいんだけど」
「どうしているのっ」
スノーリルの台詞に緑の瞳が笑う。
「リルがいるから」
「そうじゃなくて!」
扉の向こうにいるカタリナに聞こえないように声を潜めて怒鳴ってみるが、そんなものが効果を上げるとは思えない。
唐突に目の前に現れたのは見つけようと決心した男性。
漆黒の髪に、鮮やかな緑の瞳。トーマスのような立派な体格ではないが、それでも男性の持つ太さがあり、美青年というよりは精悍というほうが当てはまる。スノーリルの心拍数が上がっていくのは、彼に特別な感情があるだけのせいではなく、一般女性なら誰でもそうなるだろう。そのくらい容姿の整った人だ。
一度目よりは冷静にその顔を見つめていたが、ふと並んで歩いた時に比べ、やけに顔が近いことに気がつく。
スノーリルが建物の中にいる分、あるはずの身長差がなくなっているのだ。
その距離にいたたまれず後ろに下がると、男性が突然壁に隠れてしまった。姿が見えなくなり思わず窓の外に顔を出した。
「ぅわっ」
「捕まえた」
窓枠にかけた手をあっさりと捕らえられ、少し強く窓の外に引かれる。
「リル、少しは警戒心を持ったほうがいい」
どこか嬉しそうに注意する男性に、スノーリルは何も言えず顔を真っ赤にして睨みつけた。
「大丈夫か? 顔が赤い」
くすくす笑いながらからかってくる相手に、スノーリルは一度目を閉じ深呼吸をして落ち着けと自分に言い聞かせる。
「大丈夫よ。なんでもないから、手を離してください」
まっすぐ目を見て告げると、ふわりと微笑まれた。
「逃げない?」
妙に甘い声にぐっと返答につまる。
「…何も、しないんでしたら」
スノーリルの答えに「それは無理」と答え、意地悪く笑う。
しばらくそのまま牽制するように見つめ合っていたが、男性が何かしてくる気配は無い。まあ、窓越しだし何かするにも見つかるとまずいのは彼の立場であって、スノーリルには関係ない。
いざとなれば大声を出せばいいのだと思い、ゆっくり息を吐き出した。
「あの。それで、どうしてこんなところにいるんですか?」
最初の質問に戻る。
彼のいる場所は王城の中庭である。それも人が立ち入ることのあまりなさそうな場所で、貴族が知っている場所だとも思えない。
「リルが見えたから。あそこから入ってきた」
少しだけ視線を動かし、渡り廊下を示した。トラホスにもある壁が切り取られただけの窓が連なり、その廊下の真ん中あたりに出入りの場所がある。
「リルは何をしてるの?」
「ちょっと一騒動起こして…」
「ああ。メディアーグ夫人の昼食会があったっけ。何したの?」
彼はどうやらスノーリルがやらかした騒動を知らないようだ。
同じ高さにある緑色の瞳をじっと見つめ、質問を無視し、逆に尋ねる。
「貴方は、国王側の人?」
王妃側の人物ではないはずだし、反乱分子だとも思えない。
カタリナとの会話からでたその疑問点に、可能性を消していく方向で尋ねたのだが、唐突な質問に男性は意外にも静かにスノーリルを見つめてきた。
「どうしてそう思った?」
微笑してはいるが、真面目な瞳にどきりとする。
スノーリル自身わからない戸惑いに、心臓が鼓動を早める。
「王妃には気をつけろって言ってたから」
本当はトラホスの人間かと思っていたが、どうやらディーディランの人のようだと、なぜか漠然と、そう確信した。
瞬きもせず緑の瞳がスノーリルの心を無表情に窺っている。
嬉しく恥ずかしい緊張が、冷たく固い緊張に摩り替わる。
知らず詰めていた息が苦しくなった時、ふいに男性が視線を落として、捕らえたスノーリルの手をぎゅっと握った。前にもあったどこか幼いその仕草に、一瞬にして心境が変わる。
「どうしたの? 何かあった?」
少し伏せられた表情が寂しそうに見えそっと聞くと、視線を上げた。
「髪に触っていい?」
許可を求める声に目を瞬く。
「そんなこと聞かなくても普通に触ってたじゃない」
あの夜の庭園では何の迷いもなく触れていた。言外に聞かなくてもいいと含ませると、それに気づいたのか安心したように微笑してゆっくり片手を伸ばしてくる。
耳を覆うように髪を掴み、そのまま下に滑らせるように移動する。触れていることを、スノーリルの存在を、確認するような丁寧さで。毛先を少しすくって離し、もう一度耳の辺りに手を添えた。
慎重といえるほどゆっくりした動きに、トラホスの礼拝堂での仕草が重なり、思わずその手に自分の手を重ねていた。
「ちゃんと、探してるから」
自分でも意図しなかった台詞に、緑の瞳が少しだけ見開かれる。
「リル…」
「絶対に見つけるから、だから…っ!」
言葉を続けようとして扉が叩かれた。
反射的に扉を振り返ると、ぐいと窓枠まで身体を引き寄せられた。
「待ってる」
「ぅぇっ!!」
髪の上から首のつけ根に囁かれ、ぞわりと肌が泡だった。
妙な悲鳴をあげるスノーリルに笑う気配がし、それが遠くなっていくがわかったが、どうしても見送ることができなかった。
「スノーリル様?」
返事をしないスノーリルを不思議に思ったのだろう。カタリナが扉を開けたときにはすでにその人の姿はなかった。
窓を背にして顔を赤くし、それでも難しそうに眉を寄せるスノーリルに、カタリナが首をかしげつつ尋ねた。
「どうかなさいましたか?」
「カタリナ。もしかしたらとっても難しいかも」
「なにがです?」
持ってきた昼食をテーブルに並べるカタリナの問いに、スノーリルは盛大なため息を一つ吐き出してから答えた。
「捕まらない方法」
「?」
スノーリルの独白に、カタリナはただ首をかしげるだけだ。
「少し違うかな。そういえばちゃんと言われたわ…」
――不用意に近づかないほうがいい。
「迂闊に、とは言わなかったのよね」
ぽそりと呟かれた言葉にカタリナも何となく尋ねる。
「何か不測の事態でも?」
「うぅっ。うん……ううん。いいえ、不測じゃなくて、準備ができてないのよ」
いつも唐突に現れる彼に対して、平静でいられない自分にどうやって心の準備をしろというのだろう。
「やっぱり難しいわ」
スノーリルの嘆きにも似た呟きに首をかしげつつも、執事はそっと窓の外に視線を送った。
頬を染めながらテーブルに並べられた昼食を前に、もう一度息を落とす。気持ちを落ちつけるようなその行動に、カタリナは一つの可能性にたどりつく。
「何か聞き出せましたか?」
「………」
恨めしげに見上げてくるスノーリルの瞳に、にっこり微笑んで席につく。
「スノーリル様を見ていればわかります」
自分の分に手をつけながら「それで?」と話を促され、さしものスノーリルも答えないわけにはいかなくなった。
「結局何も答えてはもらってないわ。でも、間違いなくディーディランの人。それと、国の中心に近い人か………トラホスをよく知っている人」
無表情に見つめてきたあの緑の瞳は、スノーリルの質問の意味を探っていた。
あの身体の奥がヒヤリとするような感覚は王妃を前にした時とよく似ている。つまり、そういうやり取りをするような場所に身を置いている人物であるといえる。
「あれだけの容姿なんだから、探すのは意外に簡単かしら?」
用意された昼食を頬張りながら、意地悪く笑う顔を思い出す。あれだけの顔があれば間違いなく女性の間で噂があるに違いない。
スノーリルの呟きにカタリナも一つ頷いた。
「では、そっち側から探ってみましょう。幸いにもこちらには頼もしい侍女たちが揃っていますから」
「そうね。王城の噂の元は洗濯場で語られるってマーサが言ってたもの」
黒髪の侍女が誇らしげに言っていたのを思い出して笑う。