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言葉と意味と
04
 席を立つのは失礼ではあるが生理的現象には勝てない。なので、中座するのは一応許されていることで、侍女に連れられ用を足した。
 唯一一人になれる狭い個室でスノーリルは軽くため息をついた。
「はぁ、苦しい」
 ドレスの下につけているコルセットがきつい。
 夜はつけていなくても明かりが少ないので体型を隠すのは簡単だ。しかし、昼はそうもいかないため、通常貴族の女の嗜みとして着用するものだが、スノーリルは公の場にあまり出ないこともあり、馴染みが薄く結構つらい。
 それでもディーディランにきてからはほぼ毎日着けていることもあり、なんとか慣れてきつつはあったが。
 少しだけ体を動かして、深呼吸をして個室から出た。
 扉の前には王妃の侍女が待っている。
 当然ついてくるはずだったカタリナはこの侍女が庭園に残るように言ったのだ。カタリナはそんなものは無視してついてくる様子だったが、間違いなく何かあることを察してスノーリル自身が止めた。
 王妃付きの侍女は一度小さく礼をしてから歩き出す。
 (…やっぱりね)
 その後ろに付いて歩いていたのだが、来た道と違う廊下を通っている。前を歩く侍女に気づかれないようにそっと隠してあるナイフを確認する。まさか王妃主催の茶会がある場所近くでスノーリルを殺す馬鹿はいないだろうが。それでも何が起きるかはわからない国だ。
 黙々と歩く侍女が一つの扉を前にふと立ち止まった。
「お入りください」
 一瞬後ろへ走り出そうかとも思ったが、ここに来るまでに要した時間を考えるとカタリナも動いている。
「私の侍女に遅くなると伝えた?」
「はい」
「そう」
 躊躇いもなく告げる侍女にスノーリルは頷いて、取っ手に手をかけた。何があるにせよ、拒むこともできないだろう。
「ここはディーディラン…か」
 
 
 部屋はかなり広かった。
 間違いなく会議に使う大広間だ。部屋のど真ん中には大きな長方形のテーブルが置いてある。食事をするような幅の狭いものではなく、わざと距離をとるように作られた感じのテーブルだ。
 その奥、一番大きな椅子に足を組み、肘掛にもたれるようにして座ってこちらを見る人がいた。
「よく、いらしたわね。こちらへきて座って」
「いいえ。ここで結構です」
 スノーリルが断るとその人は艶やかに笑った。
「警戒させたかしら。二人きりで話がしたかったのよ。どうしても…」
 濡れたような黒髪を持つ、妖艶な美女がゆったりと席を立ちこちらへ来る。
 その姿は先ほど庭園にいたその人。ディーディラン国王妃である。
「ねえ、スノーリル殿。貴女はこのディーディランが好きかしら?」
 うっとりと視線を窓の外に移して尋ねられ、スノーリルも視線を外へ向ける。そこから見える景色は城の建物だけだが、その奥に一際高い城壁が見えた。
「私は反吐が出るほど嫌い。でも、今は少しだけ好きになってきたわ」
 椅子の背を一つ一つ触りながらやってくる王妃に視線を移し、言葉を聞く。
「どうしてか、わかるかしら?」
 何も答えずただじっと見つめるスノーリルに、王妃はくすりと笑った。
「王妃になったからよ」
 そこでふと歩みを止めた。
「貴女、クラウドの花嫁になるつもり?」
 探る視線とその言葉に少なからずほっとしたが、表情を崩してはいけない。
「私の意志ではどうにもなりません。それは、王妃様。貴女が一番お分かりではないのですか?」
 ゆっくりと紡がれるスノーリルの言葉に王妃は表情をなくした。
 王家の結婚は国同士の結びつきだ。ゆえに政略であることが前提である。そこに当人たちの意思など考慮される事はないし、ましてや女の側の意見など誰も求めていない。
 正妃になるにも、側室になるにも、条件は一つ。
 親同士、納得したかどうかだけだ。
「私はこちらの要請で花嫁候補としてディーディランにきました。送り出されたという事はトラホスにその意思があるということです。エストラーダ様もそうだとお聞きしました」
 事実だけを告げる。
 スノーリル個人に決定権などない。それは後宮にいた王妃自身がよく知っているはずだ。
 表情をなくしてただ立っている王妃に意識を向けながら、一応逃げ道を探す。後ろの扉のほかに、もう一つ扉が王妃の座っていた椅子の向こうに見える。だが、後ろに進むにも前に進むにも、扉に鍵が掛かっていれば無理だ。
「貴女。好きな人はいる?」
 一瞬何を聞かれたのかわからず、スノーリルは目を瞬く。
「エストラーダ殿には、まだいないようだわ」
 ゆっくりと赤い唇が弧を描く。
 ああ、笑っているのだと、そう認識するのがやっとなくらい、鮮やかな青い瞳の底に恐ろしいほどの狂気が見えた。
「邪魔は許さないわ」
 背筋を冷たいもので撫でられたような悪寒が走り、両手を硬く握り締めた。
「邪魔などしません。白異の私に何ができると?」
 真直ぐその狂気の瞳を見据えて告げると、王妃は弾かれたように笑い出した。喉を仰け反らせた高笑いであるのに、どこか無邪気にさえ見えるほど、楽しそうに。
「あははは。私とした事が、くっくくはは。そうね、そうだったわ。貴女はあの"白姫"だもの。私のクラウドが気に入るわけもないわ」
 涙を浮かべながら笑うのは自分への嘲笑か。
 じっと見つめるスノーリルの表情に何を思ったか、ぴたりと笑いを収めた。初めに見せた艶やかさを取り戻し、目を細めて笑う。
「トラホスは厄介払いをしたのかしらねぇ?」
 どこかで聞いた台詞だ。
 スノーリルはため息を隠すために俯いた。その姿はおそらくうな垂れているように見えるだろうことを計算して。
「お話は終わりですか?」
 俯いた視界に見える王妃の靴がどんどん近づいてくる。
「ええ。お話は終わりよ。白姫…」
 側を通り扉へ向かう。その途中、思いついたように髪に触れようと手を伸ばしてきたのを、二歩下がることで避けた。
 そのスノーリルの行動に笑うと、扉を開け出て行った。
 
 
 扉が閉まってしばらくは息を殺してその場に留まった。足音が遠のくと、一気に詰めていた息を吐き出し、テーブルに手をついて体を支えた。
「っは。怖かった…」
 張詰めていた緊張が取れるとあの時の悪寒がまたやってきて、無意識に腕を擦った。庭園で背に刃を当てられた時ですら、あれほどの恐怖を与えられることはなかった。
 王妃の瞳の底にあるもの。
 それは怒気でもなく、殺意でもなく。狂気という闇だ。
「何が」
 あったというのだろう。始めて会った時は見せなかった心の闇。
 色を失くして震える手を見つめていると、後ろの扉が開いたのがわかった。
 反射的に体をそちらに向けると、取っ手を掴んだまま少し緊張した表情の男性が立っていた。スノーリルを見て、部屋の中を見渡し、扉を閉めてそこに背を預ける。
「よかった」
 安堵のため息を吐き出して顔を伏せたのは黒い髪の男性だ。
「王妃には気をつけたほうがいい」
「…っ」
 顔を上げ、優しく笑う男性を見た覚えは無いが、その声に覚えがあった。
 王妃の時とは別の緊張が一気にやってくる。
 見つめたまま動けなくなったスノーリルに、男性はとどめを刺した。
「大丈夫か? リル」
 あの夜の庭園で間近に聞いた、あの声だ。
 先ほどまで王妃を前に緊張して指先が冷え切っていたのに、その一言で一気に体温が上昇するのを感じた。
「あ、あなた。どうして?」
 喉がからからで掠れた声しか出ない。
 ようやく、日の光の中で見た男性は昔の面影がどこか残ってはいた。が、あのときよりはもちろん、断然、大人になっているのは当たり前で、その姿を見た瞬間なぜか後悔した。
 身につけているものはかなり上等なものだ。昔会ったときもそうだろうとは思ったが、やはり彼は貴族であるようだ。しかも、城の中でも中枢に近いだろう会議室に近づけるということは、かなり身分の高い人である可能性が高い。
 おまけにその容姿ときたら、彼は間違いなく、女性に人気があると断言できる。
 そんな人物が昔の約束をいまだ覚えていてくれているのだ。本来なら飛びあがらんばかりに喜んでもおかしくない。しかし、軽々しくそうできないわけがスノーリルにはある。
 どくどくと早鐘を打つ正直な心臓と、どこまでも冷静な頭の狭間で、心だけがどちらへ向かえばいいのかわからず、ただただ、男性を見つめた。
 沈黙したまま動かなくなったスノーリルに、いまだ名乗ることすらしない男性が扉に預けた体を起こしてスノーリルに近づく。
「リルの侍女が心配してる」
 その台詞ではっと我に返る。
「帰り道わからないだろう」
 差し伸べられた手を取るべきか否か、迷ったのがわかったのか、男性は先手を打つ。
「大丈夫、ここじゃ襲ったりしない。まあ、あまり信用されても困るけど」
 くすくすと楽しそうに笑い、出てきた台詞にスノーリルは眉を寄せた。
「はい?」
「とりあえずここは出たほうがいい。それとも抱えようか?」
「いいえ。大丈夫。歩けます」
 でも本当は座り込んでしまいそうなほど膝が笑っている。どうやら彼にはそれがわかっているようだ。
 一度諦めのため息を落として、差し出された手を取った。
「うん。人間素直が一番」
 一歩踏み出して崩れそうになるのを、腕を掴んで支えてくれた。
 彼に触れられてドキドキ騒がしい心臓と、頬が熱いことで間違いなく顔が赤いだろうと認識しながら、スノーリルは足元を見つめて慎重に歩き出す。
「ディーディラン王妃の邪気はトラホスの姫君にはきついだろう」
 どこか嘲笑を含んだ声がすぐそこからする。スノーリルはその言葉を妙に冷静な頭で受け止めていた。
「憎しみも悲しみも、人から与えられるものだわ。怖かったのはそんなことじゃないの」
 それを自分にも与えられ、飲まれてしまうことだ。
 部屋を出ると案内してくれた侍女はいなかった。おそらく王妃についていったのだろう。
 (あれ? そういえば……)
 ふと疑問が生じた。そういえば、どうしてこの男性はここにいるのだろう? それも王妃と会っていることを知っていた様子だ。
 支えられて歩きながら考える。
 この男性はスノーリルがディーディランにきた理由を当然知っているだろう。皆の言う「王妃には気をつけろ」という意味が、シルフィナの言う"前例"に関係しているとしたら、この男性の言う「気をつけろ」も同じだろうか?
 もしかしたらそれを察知して王妃の動向を見ていたのだろうか?
 疑問はどんどん大きくなるが、それを解消する情報があまりにも少ない。
 (でも、そうか。だからこそ、なのかもしれない)
 スノーリルに近づいた理由が、スノーリルの監視であるなら、あの夜、庭園で助けてくれたことも、ここに現れたのもおかしくはない。むしろ当然だ。
 妙に腑に落ちて、知らずため息を吐き出す。
 手を引かれ歩き続けて長い廊下に出ると、男性が右を指差した。
「ここを真直ぐ行けば王族の庭園に行ける。リルの侍女も多分その辺にいるはずだ」
「ありがとう」
 捕まれたままの腕を引き抜き、お礼を言ってそのまま歩き出そうとしたスノーリルを、男性が手を緩く掴んで引きとめた。その手を何ともなしに見つめる。
「リル。僕からは素性を明かすことはできない。リルと会っていることもばれるとまずいんだ」
 監視の身元がばれるのは確かにまずいだろう。監視が監視されてしまっては話にならない。
「うん…」
 それにこくりと頷き、もう一度「ありがとう」と言いかけると今度は強く手を引かれて、驚いて思わず見上げた。
 (あ。緑色…)
 その先でようやく認識した瞳の色を呆然と覗き込んだ。
「リル」
「…っ」
 名を呼ばれ我に返り、その近さに思わず息を飲む。後ろにさがろうとしたが掴まれた手と、捕らえられた視線に、思うように退くことができない。
「約束は?」
「覚えてる、けど…」
「けど?」
「あの…だって」
「だって、なに?」
 すぐそこにある瞬きすら許さない視線に頭が真っ白になる。
 間髪いれずに聞かれる甘い声に心臓が騒ぐ。
 もう、真剣に聞かれているのか、からかわれているのかもわからない。
 軽い混乱状態のスノーリルに、男性はゆっくりと離れてくれた。それと同時に大きく息を継ぐ。一度は収まっていたはずの心臓が耳の奥でドキドキ煩い。
「リルに見つけて欲しいんだ。僕を」
 ぎゅっと手を握って呟くような声はどこか寂しそうだった。
「あの…だか、ら…」
 ふわりと髪を撫でられ、視界を遮るものに反射的に目を閉じ、またしてもそこでスノーリルの思考は途絶えた。
「だから、見つけて」
 右の瞼に囁き、真っ赤な顔で沈黙するスノーリルを置いて、男性は今来た道を戻って行った。
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