王族専用の庭園には天井が存在した。
いや、巨大な東屋と評すればしっくりくるだろうか。しかし、その大きさがすでに東屋とは言えないほどの規模である。しかも天井は光を取り入れられるように、等間隔に真四角の硝子がはめ込まれている。
「贅沢ね」
トラホスではありえないその光景に、スノーリルは驚きを通り越して呆れてしまった。
いつぞやギリガム大臣が言った「生活基準が違う」という台詞がまざまざと蘇る。基準というか、根本的に何かが違う。
「でも、こんなに広いのに窮屈そう」
ディーディランにきてからというもの仕切るもののない空の下、青々と茂る庭園を見ていたせいか、この一角は酷く狭く思えた。
「まさに箱庭でしょう」
横合いからそんな声を聞き、そちらに目をやる。
「御機嫌よう」
そこにいたのは見知らぬ女性だ。
「御機嫌よう」
全体的に黒髪であるが毛先に向かうほど赤茶っぽくなっている、印象的な髪をした女性だ。くっきりとした目が勝気そうで、どこかエストラーダを彷彿とさせた。
「スノーリル姫ね。私はシーラ。初めまして」
細められた緑色の視線が猫のようだと思った。
「初めまして」
「姉上。きちんと挨拶してください」
シーラと名乗る女性の後ろからもう一つ声がした。こちらはくりくりの茶色い髪が印象的な少女である。姉という事は彼女の妹のようだ。
「初めまして、スノーリル姫。ディーディラン国王女のエマリーアです。こちらは姉のシルフィナといいます。お会いできて光栄です」
エマリーアと名乗る少女はスノーリルよりは随分年下であろう。ひらひらした薄紅色のドレスがよく似合っている。
そのエマリーアの自己紹介でようやく二人がこの国の王女であることを知った。
「初めまして」
スノーリルが言葉を返すと、エマリーアは頬を紅潮させにっこり微笑んだ。その笑顔が昔の友人を思い起こさせ、スノーリルも笑う。
「スノーリル姫は他の王族とはお会いになったの?」
横に立つ妹の髪を梳きながら尋ねるシルフィナに、スノーリルは頷いた。
「はい。アトラス王子にはお会いしました。あとは、あの夜会にいらした何人かの親王方だけです」
「アトラス…そう」
スノーリルの答えにシルフィナは少しだけ眉を寄せる。その様子に首をかしげたスノーリルの視界にエストラーダが見えた。さらにその向こうには黒髪の貴婦人が立っている。盆を持った侍女を従えてその女性があいさつをする。
「皆さん。今日はきてくださってありがとう」
このお茶会の主催者、ディーディラン国王妃である。
見事な黒髪を高い位置でくくり、肩の見えるドレスを優雅に着こなしている。噂に違わず匂い立つような美女である。
エストラーダも稀なる美女であるがそれと張れるほどだ。
ただ、エストラーダは太陽の下、燦然と咲き誇る花の様であるのに対し、この王妃は夜の闇に妖しく咲く花のようである。一つ一つの仕草に相手を誘惑するような動きがあって、まるで絡みつく蔦のようだとスノーリルは思った。
盆を持った侍女たちが庭園の中にあるテーブルの上にお茶と菓子を置いていく。テーブルは全部で三つ。それぞれに椅子もちゃんとある。
どこに座っても差し支えはないようで、スノーリルは一番手近にある椅子に座った。すると王妃自らがやってきた。
「よろしいかしら?」
「はい。お招きいただきまして、ありがとうございます」
社交辞令だが立ち上がりとりあえず言っておく。それに王妃はにっこりと微笑んで椅子に腰掛けた。
「私もいいですか?」
尋ねてきたのはこの場にいるなかで最年少であるエマリーアだった。王妃が一度じろりと見やったが、それを意に介すことなくスノーリルを見上げてくる。満面の笑みは期待と好奇心が覗いていた。
「ええ、どうぞ」
笑顔で答えるとくすぐったそうに微笑んで、椅子を少しだけスノーリルのほうによせて席に着いた。
催しものは特になく、この場に集まった皆で談話を楽しむような、和やかなものだった。侍女によりお茶を注がれ、隣に座るエマリーアの質問に答えていると、王妃がポンと手を打った。
「シルフィナさん。一曲お願いできません?」
スノーリルにはわからなかったが、周りにいる貴族がざわりと色めきたった。隣にいるエマリーアも目をキラキラさせて姉を見ている。
呼ばれたシルフィナはエストラーダと同じ席にいた。
周りを見やって一度ため息を落とし、笑顔で庭園の入り口にあたる場所に立った。
「シーラは歌が上手なの」
エマリーアの説明でスノーリルは頷いた。
しんと静まった庭園に透き通った歌声が響き渡る。
歌と言っても歌詞があるわけではなく、ただ純粋にその声だけで奏でる曲だ。
隣でうっとり聞き惚れるエマリーアを見て、周りを見てみる。目を閉じて堪能している人もいれば、スノーリルのように周りに目を向けている者もいる。
「スノーリル姫は」
近くから聞こえた声に自分のいるテーブルに視線を戻すと、王妃が体をこちらに向けてテーブルに肘をつき、細い顎にそっと指をやって微笑んでいた。
「何か得意な事はおありなの?」
内心、やっぱりかと思いつつ、ゆっくり微笑んで答える。
「いいえ。これといってありません」
「でも、何か一つくらいおありでしょう」
「そうですね」
エマリーアがいることで肝心な話ができない。そのエマリーアは今シルフィナの歌に夢中だ。人の使い方をよく知っている頭の良い人だ。
そんな事を思いながら曖昧に言葉を濁して答えていると、不意に王妃は思い出したように話題を変えた。
「そういえば、あのダイアナ嬢と決闘をされるとか?」
知らないほうがおかしいと思えるほど噂になったのだから、王妃が知っていても当然か。スノーリルは返答はせず、ただ困ったように微笑んでお茶を一口含む。その一挙一動に視線が絡みつくのを意識しながら。
「トラホスの女性は剣をしないとお聞きしたわ」
「はい。王妃様はされるのですか?」
「ええ、これでもディーディランの女ですから。スノーリル殿は?」
「トラホスの女ですから」
言われたことと同じことを返すのは話をはぐらかすための方法の一つだ。相手が手のうちを見せていない以上、こちらもそう易々と見せてやるわけにはいかない。
やがて歌がゆっくりと途切れ、あちこちから賛辞の声と拍手が起こる。
隣で手を叩くエマリーアはこちらの話などまったく耳に入っていなかったようだ。スノーリルにくるりと向き直ると感想を求め、それに答えていると歌っていた本人がこちらに歩いてきた。
「姉上。ステキでした」
「ええ、とっても綺麗でした」
素直な感想を告げると、シルフィナは笑顔で礼を返し、王妃に向き直った。
「そろそろ席替えを希望される方が多いようですよ?」
普通のお茶会では勝手に席を移動するものだが、今回は王妃が主催の席であるため、王妃の許可なく移動できないのだろう。
シルフィナの言うとおり、貴族、特に男性は席を移動したくてうずうずしている様子がよくわかる。
王妃は仕方がなさそうに息を吐くと、席替えを促すため立ち上がった。
「エマ。席を替わって。いいかしら?」
「ええ、どうぞ」
「私もいいですか?」
移動してきたのは貴族の一人、目映い金髪に水色の瞳を持つ男性だった。
どこかで見たような気がしたが、名前を聞いて納得した。
「アーノルド・グレイブスです」
「ダイアナ様の?」
「はい。妹がご迷惑をおかけしたようですね。一言謝りたくて」
困ったように笑う男性は決闘を告げたダイアナの兄だった。その会話にシルフィナがスノーリルとアーノルドを交互に見やった。
「そういえば。決闘を申し込まれたのでしたっけ?」
「はい」
これほどまでに広まっている噂であることに思わず笑ってしまう。
「ダイアナも本当に懲りないわね」
「全くです。実はついこの間もエストラーダ様に申し込みまして」
「ええ、聞きました。玉砕したとか」
スノーリルの言葉にシルフィナが思わず吹き出した。兄であるアーノルドも口元を歪めて笑いを堪えている。
「本人は、本当は勝てたと豪語しているんですけどね」
「無理よ」
シルフィナの即答に、スノーリルは少しだけ首をかしげた。
「ダイアナ様は弱いのですか?」
剣を持って戦ったことなどないスノーリルには、別々に見た二人の力量の差というものが全くわからない。いや、カタリナが言うくらいだから、エストラーダは間違いなく強いのだろうが。
「ダイアナは強いわよ。まあ、身分がものを言っている部分もあるけど、でも実力はそこそこあるほうだわ。だからこそ自分がどのくらい強いのかを量れていない感じね」
シルフィナの指摘に兄であるアーノルドも頷く。
「エストラーダ様は誰がどう見てもダイアナより強い。今回のことで鼻っ柱を折られて少しは落ち込むなり自省するなりするかと思ったんだが…」
「なまじ大きな力の差があっただけに、落ち込むこともなかったのね」
「そうなんだ」
渋い顔をしてため息を落とすアーノルドは奔放な妹にそうとう頭の痛い思いをしているようだ。
「仲のいいご兄弟なんですね」
「本当、羨ましいくらいよ」
呆れたようなため息をつくディーディラン国の王女シルフィナには腹違いの兄弟が沢山いる。でも、エマリーアとは仲が良く見えた。
「兄弟と言えば、アトラスとクラウドも仲がいいわよ」
唐突に出てきた名前にスノーリルは目を瞬いた。
「そうなんですか?」
「ええ。でも、だからこそ気をつけて」
声を落として、真剣に言うシルフィナの言葉は以前、エストラーダも言っていたきがした。
「何かあるんですか?」
「前例」
前例がある。以前にもあった? 何が?
眉を少し寄せて口を開きかけたスノーリルに、視線をずっと合わせていたシルフィナがふいと視線を移した。まるでそちらを見ろと言っているような視線の運びに、自然そちらを見るとその先にいたのは王妃である。
エストラーダと笑顔で話し込んでいるが、周りの人間の反応は固まっている。
「あそこはなにか気まずそうね」
その光景にシルフィナは笑ったが、スノーリルはすぐに自分のいるテーブルへ視線を戻した。
レイファがカタリナに忠告にきたとき言っていた。あまり良い噂は聞かないと。
「ここはディーディランだから…」
ないとは言い切れない黒い噂。
十二年前、きっと何かがあったのだ。
それにより立場が入れ替わった二人の異母兄弟。いや、兄弟だけではない。側室でしかなかった二人の女性の立場も入れ替わった。確か皇太子クラウドの母、つまり現王妃は身分が低いと言っていた。
クラウド王子の今の立場を確固たるものにするには、早く強国の姫を花嫁にしたいだろう。
「エストラーダ様も大変ね」
他人事のように呟いてみたが、それはそっくり自分のことも言える。
あと二ヶ月。今の立場を保ったまま無事でいられるのだろうか? 強国の後ろ盾が欲しいのであれば、不吉とされる白を持つスノーリルに居座られるのは避けたいだろう。
そんなことを考え、カタリナの心労がわかった気がした。
「難儀なこと…ね」
今も少し離れたところでそっと控える執事は、自分よりもいろんなことを見ているのだろう。
「ダイアナの決闘を本気で受けるつもりですか?」
意識の外にあったアーノルドがそう尋ねてきて、スノーリルはじっと彼を見つめた。
面倒事は極力さけたほうがカタリナの負担にならないのだが、あの感じは引く気配はないし、もし断ったりしたら何を言われるやらだし、エストラーダにもああ言われてしまっている。
「だいじょうぶですよ。命までは取られませんから」
にっこり微笑んで答えると、アーノルドは驚いたように目を見開いてから視線を逸らした。
「そう、ですね。ですが、貴女に怪我などして欲しくないのです」
「ありがとうございます」
「あら、もう席替えね」
こちらの話を聞いていただろうシルフィナが立ち上がった。
見ると王妃が立ち上がって席を移動している。
「少し席を外させてもらっても大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ、ちょっと待ってね」
シルフィナが気を利かせて近くに来た侍女に話を通してくれた。