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白姫への挑戦状
07
 目が慣れていないため地面がよく見えず、勘だけで着地した。しかし、失敗して少し前に倒れて手をつく。
 飛び降りた先は、意外に柔らかいことから花壇の上にでも落ちたのかもしれない。手をついたところから少し甘い匂いがする。
 しかし、そんな事を考えている暇などない。
 今はとにかく逃げることを考える。
 とりあえず今飛び降りたテラスから離れねばならない。追っ手は間違いなくスノーリルを狙っている。
 相手はおそらく目が慣れていない。僅かであるが、スノーリルのほうが暗さに慣れている。その分くらいは時間差があるはずだ。
 ランプのある明るい場所へ向かうのは逆に危険だ。
 先ほどテラスからぼんやりと見えていた庭園には、少し左寄りに道があるのが見えた。
「落ち着いて。まだ大丈夫」
 そこまでを一瞬で考え、スノーリルは言葉とともに緊張した息を吐き出してから、微かに見えるそちらへ走る。道を見つけたとき背後で何かが落ちる音がした。
 その音に焦る気持ちを抑えてしっかりと前を見て走っていたが、その先が広く明るい。なんだろうと思ったがそこへ出るには危険だ。しかし引き返すわけにも行かない。逡巡するうちに足音が近づく。
「!」
 突然横から腕を引かれて生垣の間に引き込まれた。
 一瞬カタリナかと思ったが、口を塞ぐ手があり、間違いなくそれは男性のものだ。
 とっさにその手を引き剥がそうとしてもがくと、体ごと抱きとめられた。
「見つかる」
 耳元で低く囁かれ、はっと今の状況を思い出す。
 パタパタと男のものとは思えないほど軽い足音が目の前を通り抜けて行った。少し行ったところで立ち止まったが、また走り出す。
 生垣の間からその姿が見えたが、あのテラスに現れた男だろう。二人いたはずだが目の前を通ったのは一人だけ。
 僅かな時間でしかないが、目にした身なりは貴族のようだった。しかし、どこか違和感のある男たちだった。
 スノーリルがそんな事を考えていると、いつの間にか口から手が外れていた。
「もう一人くるな」
 その呟きに生垣の向こうに集中すると、確かに足音が近づいてくる。走り抜けたのはおそらく金髪の男性だ。ばたばたと足音を響かせ駆けていく。
「あの人…」
 走り抜ける姿だけしか見てないが、何故か離宮の庭で見かけた金髪と重なった。
「知ってるのか?」
「いいえ。ただ何となく………」
 おそらく金髪というだけだ、なんの確証もない。しかし、離宮で見た金髪と庭園で脅してきた金髪は同じ人物だと思う。それは明るい中で見たから間違いないと思うのだ。エストラーダのような印象に残る金髪ではないが、少し濃い感じの色は覚えている。
「でも、前の二人は何かしら?」
 追いかけてきた男。その前にも襲われている。
 でも、今追ってきた者と、その前の男たちは別だと思う。その違いはカタリナの反応の違いでもあるのだが。
 そこまで考え、思考が中断した。
 ふわりと髪に触れられる感触がし、後ろにこれまた男性がいるのだと思い出したためだが、しかしそれ以上に。
「髪伸びたな――リル」
 他でもないその言葉で。
 思考も、息も、時間すら止まった。
「………もしかして覚えてない?」
 無反応のスノーリルに後ろにいる男性は髪を撫でていた手を止めた。
「リル?」
 その言葉に間違いないほどの確信がある。が、違うのだ。
 ゆっくりと、いや恐る恐るといったほうがいいか、緊張したまま振り返る。しかし、残念なことに顔をはっきりと認識できない。明かりが乏しすぎるのだ。せめてあの明るい場所まで出ればわかるだろうが、今はまだ危険だ。
「あの…」
 聞きたい事が沢山ありすぎて何から聞けばいいのかわからない。少し混乱した頭で、聞きたいことより、今は確認するほうが先のような気がした。
「私が寝てるときにきた妖精さんよね?」
 おかしな質問だ。言ってしまってから恥ずかしくなった。今が暗くてよかったと思いながらそれでもどうしても確認しておきたかった。あの出会いが夢ではないのだと。
 目の前のわずかに認識できる表情が微笑んだ。
「よかった、覚えてるんだ」
 ふっと唇に触れられる。
 その行為に思い出さなくていいことまで思い出し、一瞬にして頬が熱くなる。
「と、トラホスで会った男の子よね? 十二年前」
 触れられている指から少しだけ離れ、つまりながらも早口でもう一度確認を取る。
「あの時の約束。覚えてる?」
「ええ」
 それはもちろん覚えている。あれほど強い印象を落としていった少年を忘れることなどできなかった。
「僕はちゃんと会いにきたよ。約束通り」
「…うん」
 最初から少年がスノーリルを探すのは簡単だ。この年で白髪など普通ありえないのだから。いや、あの時から彼はスノーリルの素性を知っていたはずだ。
「…そうね」
 どこか呆然と、どこか疑心もあって、これ以上は何を話せばいいのかわからない。なぜか無性に泣きたくなった。嬉しさからではなく。
 初恋は実らない。
 目の前のこの人が、アトラス王子であれ誰であれ、それは結局のところ変わらない気がして。あれだけ騒いだ感情は遥か昔の感情だったように、急速にスノーリルの中で冷めていった。
「あのね。………私、好きな人がいるの」
 およそ目のある位置はわかるが、あえてそこを見ないようにそう告げた。
 これで終わった。
 十二年、抱えた感情が本当に恋だったのかも実はよくわかっていない。ただ忘れられない人がいて、その人に会いたかっただけなのかもしれない。あの時、アトラス王子がそうであると思ったとき、本当に、見つけたからどうしたいとは思わなかった。会えたそのことに満足できた。
 胸は確かに痛みはしたが。
 でも、カタリナに言った言葉は本当だ。
「でも、会えてよかった。あの時のは夢かと思っていたし…」
 あのまま夢のほうがよかったのかもしれないなんて、ふと思った。
「…あの約束、全部覚えてる?」
「? ええ、覚えてるわ。十二年も前だけど……」
 不可思議な確認に、不意にカタリナの言葉が脳裏をかすめた。
 ――本人だったのですか?――
 スノーリルはあの少年のことを話した事はほとんどない。しかし、少年がスノーリルのことを話していない保障はどこにもない。スノーリルの立場を考えれば、よからぬことを考えて近づく人間がいないとは限らない。いや、逆を言えばその可能性のほうが高い。
 一歩後ろへ下がるスノーリルに、目の前の男性はため息を落とした。
 スノーリルの中で一気に警戒心が首をもたげた。この男性は本当に「本人」か? 彼を装った他人ではないのか? はっきりと姿の見えない今、確認できる要素が少ない。
「貴方は、もちろん。全部、覚えているのよね?」
「ああ。もちろん覚えてる。僕が言いたいのは、リルの約束は果たされてないってことだ」
 緊張した声での質問に、少しだけ不機嫌そうな音で返ってきた言葉にきょとんとした。
「私の、約束?」
 スノーリルがした約束と言えば、少年を見つけること。
「今、会ってる」
 約束は違えていないはずだが。
 しかし、目の前の男性はやはりため息を吐き出す。
「じゃあ聞くけど、僕は誰?」
「え?」
 まっさきに頭に浮かんだのは「妖精」という笑える単語。そして、もう一つ。
「アトラス王子…」
 しかし、この答えは一瞬にして消し去られた。
「じゃ、ないのよね…」
 だって、違うのだ。
 彼に始めて声をかけられたとき。髪の色と瞳の色を見たとき。もしかしたらと期待した。アルジャーノン大臣に十二年前の彼の行動を聞いて確信があった。
 でも、違うのだ。
 いくら姿がまともに見えていなくても、間違うはずがない。
 声が、昼の庭園で、先ほど会場で聞いたものと全く違う。
 それでは、彼は誰だ?
「アトラス王子ね……まあ、外見はおおよそ当たってるか。リルはアトラス王子が僕だと思ったんだ?」
 どこか非難されているような空気があるが、非難されるような覚えはない。
「だって、仕方ないじゃない。貴方が会いに来たのはあれ一度だけなのよ?」
 しかも半分寝ていたスノーリルに全部覚えていろというほうが無理だ。
 むっとして突っかかるスノーリルの耳に遠く呼ぶ声が聞こえた。
「カタリナ」
 そうだ、本当はこんな話をしている場合ではないのだ。
「あの、私行かないと」
「ああ。出られるか?」
 カタリナは無事だろうが、スノーリルが消えたままでは心配しているだろう。
 引き込まれた生垣は少し位置が高くなっている。越えるのを手伝ってもらい、道まで出ると、ドレスの汚れを払ってくれた。
「ありがとう」
「一人で戻れるな?」
「うん。貴方は?」
 生垣の間よりは少しだけ明るい道の上、ようやくまともに視線があったが瞳の色までは確認できない。
「リル。僕は会いにきたんだから、約束通りちゃんと僕を見つけて」
「でも」
「リルの言い分については、それから考える」
「は?」
「とにかく、僕を見つけるのが先だ」
「もし、見つけられなかったら?」
 話が勝手に先に進むのを止めようと発した言葉だったのだが、もしじゃなく、その可能性のほうが高いことに気がついた。
「せめて、名前くらい」
「大丈夫。リルなら見つけられるよ」
「スノーリル様! どこですか!?」
 カタリナの声がこちらに近づいてきている。
「じゃあ、僕は行くから」
「あの! ありがとう、助けてくれて」
 駆け出してしまいそうな男性の服を捕まえてお礼を言う。あの男たちから助けてくれたのは間違いないのだから。
「あまり不用意に近づかないほうがいい」
「え?」
 意味不明な言葉にスノーリルが聞き返すと、影が近づいて右目に柔らかな感触が当たり、離れる際に小さく「おまじない」と声がする。
「ちゃんと見つけて」
 それだけを言うと道の先、広く明るい場所を走りぬけていった。
 

◇ ◇ ◇ ◇

 
「スノーリル様!」
 暗い庭園の中をランプ片手に探し回ることしばし。
 庭園の中にある道を、歩いてこちらにやってきたスノーリルを見て、カタリナは安堵の息を吐いた。
「ご無事ですか?………あの??」
 スノーリルはしっかりとした足取りでまっすぐカタリナに向かって歩いてきた。
 しかし、ぽてりと抱きついたまま全く動かなくなってしまった。
「スノーリル様? どこか怪我でも…」
 様子のおかしいスノーリルにとりあえず尋ねると、震えた小さな声が返る。
「どうしよう。カタリナ」
「はい?」
「アトラス王子じゃなかった」
「は?」
「ううん。ダメ。今、頭がぐるぐるしてるの」
 ぷるぷると頭を振ると白い髪もふわふわ揺れる。何か言動が幼くなっている。
「何があったのかは後で聞きます。とにかく今は広間にお戻りください」
「うん」
 どこかぐったりした様子のスノーリルに何かあった事はわかったが、とりあえず後回しだ。夜会はこの騒動ですでにお開きになっているが、とりあえず会場へ戻る道へと促す。
 隣を俯いて歩くスノーリルはドレスが少し汚れてはいるが、それ以外は無事な様子だ。あの襲撃者たちから逃げきったようだが、それにしては先ほどの台詞はなんだろうと考え、しばらく無言で歩く。
 
「今度こそ、お名前は聞いたのですか?」
「ぃや!…カタリナ嫌いっ」
 白いその合間から見える耳が真っ赤になっていることで、大体のことを察したカタリナは凄腕執事と言えた。
白姫への挑戦状 終わり
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