「本当に大丈夫? 誰か呼んでこようか?」
泣き出したスノーリルに何が起きたのか、少年は何もわからず、とりあえず大人を呼びに行こうかと立ち上がった。
「どうして髪に触りたいの?」
「え?」
何の脈絡もなく突然聞かれ、少年は目をぱちくりさせてスノーリルを見下ろした。
「触りたいから…えっと、そうじゃなくて」
もう一度座りなおし、スノーリルと視線を合わせる。
「ごめん。理由なんかないや。すごくキレイだから触ってみたいなって思っただけで…」
口にして後悔したのか、途中で言葉を切って笑ってごまかした。
「嫌ならいいんだ。ただ、本当にキレイなのにもったいないって思ってさ」
少年の言葉にスノーリルはきょとんとした。
「もったいない…?」
じーっと見つめてくるスノーリルに少年は困ったように笑いかける。
「髪は髪よ。白くっても同じよ?」
「わかってるよ。でも、キレイなものには触ってみたくならない?」
逆に聞かれ、その感覚はよくわかる。父よりも母の髪に触りたいのは、母の髪のほうがキレイに見えるからだ。カタリナはさらに上を行く。
だからといって自分の髪が触ってみたいほどキレイだとは思ったことはなく、少年の意図がよくわからない。ゆえにその緑の瞳を凝視してしまう。
「だから、リルが嫌ならいいんだ。我慢するよ」
「我慢?」
「うん」
甘いものを目の前によく女官長に言われる言葉だ。「もう少しだけ我慢なさいませ」。食べたくて食べたくて仕方が無いのに、待たされるあの状況。
真剣に答える少年もそれと同じ状況なのかと思うとなぜか可笑しかった。一度吹きだしたら止まらず、そのまま声を立てて笑った。
「リル? そんなにおかしい?」
先ほどまであれほど泣いていたのに、今度は涙を浮かべて笑うスノーリルに、少しだけ呆れ、少しだけ不貞腐れた。
「ごめん、なさいっ……いいよ。触っても」
息も絶え絶えに涙を拭ってそう言うと、少年は目を丸くしてから嬉しそうに笑った。
「本当?」
「うん。でも、髪は髪よ」
「わかってるよ。ちょっとだけでいいんだ」
本当に嬉しそうに片手を伸ばしてそっと触れた。
慎重にゆっくり、表面をするすると撫でる。
「ねえ、リル。やっぱりもったいないよ」
二度目はちょっとだけ指を差し入れて梳くように撫でる。
少年と同じくらいの長さしかないためすぐに終わってしまう。その不満からかそんな事を言われるが、スノーリルにはあまり興味はないようだ。
「また伸びるもの」
「そうだけど」
宣言通りちょっと触るだけですぐに離した。
「女の子はこんなに短く髪を切ったらダメなんだよ?」
「そうなの?」
一度目に切ったときに、女官長が卒倒しそうなほど青くなっていたのは覚えているが、だからなぜ切ってはいけないとは言われなかった。そして今回二度目。姉にまでものすごい剣幕で怒られた。
「髪が長いのが淑女の条件なんだって。短い人は結婚できなくなっちゃうんだよ」
その説明で血の気が引いた。真っ先に浮かんだ顔はカタリナ。
「どうしよう」
自分のせいでカタリナの髪は今肩までしかない。カタリナが今の話を知らないはずがない。なるほど、姉も母も女官長も、侍女ですら怒るはずだ。
腰まであった髪を元に戻すにはどのくらいの時間が掛かるのだろう。
取り返しの付かないことをしてしまった。そういえば、まだ謝ってもいない気がする。
青くなって沈黙したスノーリルに、少年はおろおろしてかける言葉を捜していたが、いい案が思いついたのか声を上げた。
「そうだ! リルは僕がもらってあげるよ」
なんの話かわからず目を瞬く。もらう、とはつまりお嫁さんに?
「私はお嫁さんにならないわ」
「どうして?」
本当に不思議そうに聞いてくる少年を見ていると妙に言い出しにくかった。
「だって、私は"白異"だもの」
白異は忌み子。本来は一生を神に捧げる暮らしをしなければならないのだと、大臣の一人に言われたことがあった。それはつまり人と関わりを持ってはいけないということだ。いくら髪が長くても、結婚はできない。いや、してはいけないのだ。
それが普通なのだといわれ、スノーリルはそれを素直に受け入れた。
至極当然のように発言するスノーリルに、少年は深く考え込んでしまった。
しばらく沈黙が礼拝堂を満たすと、扉の向こうで何か話し声が聞こえてきた。
その声を何となく聞いていたが、ふと、今この状況に至るまでの経過を思い出し、慌てて少年に声をかけた。
「ねえ、そろそろ戻ったほうがいいよ。みんな探してるから」
ここはトラホスの城、つまりスノーリルの家だ。スノーリルがいなくなってもそれほど大騒ぎにはならないが、少年は違う。
考え込んだまま動かない少年に焦れて、スノーリルは立ち上がって扉をそっと開けて外を確認する。
大人たちの声は、どうやらシャイマたちを探しているようだ。もしかしたらクレアたちが何か言ってくれたのかもしれない。
「ねえ、リル」
「なに?」
呼びかけと同時にふわりと髪に触れられる。振り返ろうとしたが両肩に少年の手が置かれ動けない。
「リルの髪が長くなって、立派な淑女になったら、僕、会いに来るから」
「うん」
頭の後ろからする声に、返事をすると手が離れた。
振り返ると少し高いところに緑の瞳が笑っていた。
「絶対に会いに来るから。そしたら僕を見つけて」
「…見つけるの?」
話がさっぱり見えない上に、なにやら少年は楽しそう。
「そう。リルの髪が伸びたら会いに来るけど、その時にリルが他の人を好きになっていたら、僕はリルをもらえないでしょ?」
「そうなの?」
人を好きになるということがいまいちよくわからない。父上や母上が好きなのとは違うの? そんな疑問符が見えたのか、少年は頷いて少し顔を近づける。
「リルが僕を見つけてくれたら、僕はリルをもらいにくるよ」
どうしてそういう話になったのかはまったくわからない。
「…見つけられなかったら?」
「大丈夫。リルなら必ず見つけられる」
覗き込んでくる緑の瞳を見つめ返す。
「でも…」
見つけたらからといって、スノーリルが白異だということは変わらない。それに…。
「その時に好きな人がいたら?」
それはスノーリルになのか、少年になのか。
「それでも会いにくるから」
もらってくれなくてもまた会えるならいいかと、軽い気持ちで頷いた。
「わかった」
こくりと頷いたスノーリルに、少年は一呼吸置いてもう一度言う。
「約束する。だからリルも絶対に見つけて。約束だよ」
面白そうに話していたのに、いつの間にか真剣な表情で聞く少年に、スノーリルは気圧されたように頷いた。
「うん。約束する……約束?…ああ!!」
そういえば昨日クレアと会う約束をしている。
礼拝堂の扉を思い切り開いて駆け出そうとして、少年を振り返る。
「そうだ! なま…え…?」
探すはいいが、肝心な名前を聞いていなかったことに気がついて尋ねたら、右目にキスが降ってきた。
「おまじない。見つけてね、リル」
驚いてぽかんと見上げると、少年はにっこり笑って言った。
スノーリルが開けた礼拝堂の扉を通り抜け、走っていく後姿をぼんやりと見送って、しばらくその場を動けなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
ようやく会場に行くとクレアたちが一斉にやってきた。
「姫様。よかった。今日はこないのかと思いました」
クレアがほっと息をついたのは、おそらくアネットの様子が関係しているのだろうと、さすがに気がついた。
ひっしと抱きついて離れない。
「えっと、あの…アネット、少し離して。苦しい」
「またあの男の子のせいで姫様が来ないんだと思ってたんです! 私は今日でお別れなんです! だから良かったです〜」
半分泣いているアネットを、クレアと何とかなだめて落ち着かせて話を聞いた。
どうやらいくら待ってもこないスノーリルに痺れを切らし、アネットがあの大音量の声でシャイマに詰め寄ったらしい。そして、その話を大臣の一人が聞いてシャイマたちを探し出し、ただいまお仕置き中だとかでいない。
「姫様をいじめる人は私が許さないのです!」
鼻息も荒く宣言するアネットに、クレアと一緒にくすくすと笑いをこぼす。
「アネット。ありがとう」
スノーリルがお礼を言うと、満面の笑みを浮かべる。
「クレアもありがとう」
「姫様」
「スノーでいいよ。クレアもアネットも愛称でしょう?」
そう言うと二人は一度顔を見合わせたが、対応の早いアネットはすぐにスノーと呼んでくれた。
楽しい会話で盛り上がっている中、ふとあの少年もこの場にいるのだろうかと探してみたが、それらしい少年を見つけられなかった。もしかしたらシャイマの仲間と思われてお仕置きを受けているのかもしれないと思い、侍従に尋ねたがそんな少年はいないと言われた。
その後、カタリナに話をしてみたが、やはりシャイマのお仕置きの中にはいなかったようだ。
「名前はなんと言うのですか?」
「聞かなかったの」
「そうですか。でも、お仕置きされていないとなれば無事にお帰りになったのではないですか?」
「うん」
今日で大陸からの来客の半分が帰る。
アネットもその中の一人で、クレアと一緒にだいぶ話し込んだ。
来年も必ずくると約束し、泣きながら帰ったアネットには来年また会えるだろう。
クレアは大臣の娘ということもあり、よい友人になりそうだ。
そんな報告を一気に話して、少し疲れたスノーリルは布張りの長いすに横になって、いつの間にか寝てしまったようだ。
ふと目が覚め、カタリナがひざ掛けを手にしているのをぼんやりと見つめた。
「カタリナ。ごめんね…髪…」
にっこりと微笑んでひざ掛けをかけてから髪を撫でてくれる。
何も言ってはくれないが、カタリナはこの髪を好きでいてくれているのかもしれないと思った。
「切ってごめんなさい」
カタリナの髪も切ってしまった。
「いいんです。でも、もうダメですよ」
「うん。カタリナ…大好き」
「私もスノーリル様が好きですよ」
返事をもらい、安心してそのまま眠りに落ちた。
神様からの贈り物である白をようやく好きになれた気がした。