一夜明け。目が覚めてみると妙に気分が落ち込んでいた。
「どうしたのですか?」
カタリナが支度を手伝いながら尋ねてくる。
しかし、その気分の変化がなんなのか、自分で把握できていないため説明もできない。
なんでもないと首を横に振るが、何かもやもやとしたものが胸にある。
「大丈夫ですよ。嫌いな人に会う約束はしないものです」
そんな脈絡の無いカタリナの言葉で、気分が一気に浮上する。
昨日の出来事がもしかしたら嘘じゃないかと、どこか疑っていたのかもしれない。今日会ったら知らんぷりされたらどうしようと不安だったのかもしれない。
「カタリナ、魔法使いみたい」
自分の知らない心を読んでしまったのではと思うくらい、ぴたりと言い当てたカタリナをちょっとだけ尊敬の眼差しで見る。
支度も終え、自室を出て、またクレアたちに会うために会場へ向かう廊下。
ひそひそと何か声が聞こえ、そっと廊下の角を覗いてみると、複数の少年たちが何か話している。いつもの顔と、知らない顔。
そのまましゃがみこんでどうするかを考える。この分だとおそらく全ての廊下に誰かが待っているに違いない。シャイマの姿がないことを考えると別にいじめに来たわけではないのかもしれない。
昨日会ったクレアとアネットがそう思わせてくれる。
警戒しながらも、少しだけ期待をして廊下を歩いて行った。
「あ! 来た!」
すると少年の一人がどこかへ走っていった。
残った二人で通せんぼし、スノーリルの行く手を阻んだ。
「スノー。昨日シャイマに謝ってないだろう。謝れよ」
「先に暴力をしたのはスノーなんだから、謝れ」
年齢はそれほど離れてはいない少年たちは、やはりというか、スノーリルの淡い期待を見事に打ち砕いてくれた。
「シャイマが悪いのよ」
むっとして言い返すと少年の一人が一歩向かってくる。
「スノーが悪いんだろう。シャイマはただ髪に触ろうとしただけじゃないか」
「そうだ、そうだ」
「なんだよ。髪に触るくらい。自分が特別だからって」
そう言うと少年がスノーリルの髪に触ろうと手を伸ばしてくる。スノーリルはその手を反射的に払った。
その行為が少年たちの癇に障ったようだ。顔を真っ赤にしてスノーリルに迫る。
昨日のシャイマと全く一緒だ。もう何を言っても無駄だろうと判断し、スノーリルは弱そうなほうの少年を押しのけて廊下を走った。
昨日気がついたがどうやらスノーリルは足が速いらしい。同じくらいの年の子はついてこれない。
会場へ入ればおそらくクレアたちがいる。
そう思い、会場を目指して走っていると逆側からシャイマと少年が数人やってくる。距離的にどうしてもシャイマたちのほうが早く会場へつく。
スノーリルはとっさに進路を変更し、会場から遠ざかる廊下へと逃げた。
「スノー! どこへ逃げたって同じだぞ!」
シャイマが後ろから叫んでくるが構ってなどいられない。年長のシャイマの足にスノーリルが敵うわけがないからだ。とにかく必死で走った。
しかし、やはりシャイマは速かった。
次の廊下を曲がる頃にはつかまる。そう思いながら曲がり角に出ると突然腕を引かれた。バタンと扉が閉まる音とほぼ同時に声が聞こえる。
「スノーは?」
「誰? スノーって」
「白い髪の女の子だよ! きただろう!!」
「ああ、そこの部屋に入ったよ」
「行くぞ!」
その声がすると扉が開く。なにが起きたのはわからずその会話をぼーっと聞いていたが、とっさに部屋の奥に逃げ込むと、運よく開閉できる窓があった。大人では通るのは難しいだろうが、スノーリルくらいなら難なく通れる。
「あれ? あ。待って」
「あっち行って!」
捕まると思い叫ぶと窓から飛び出した。幸いここは一階。地面もすぐ近くにある。窓から出たことは無いが、赤い花の咲く生垣がある。これのある位置ならばおそらく城の庭園に面しているはずだ。
生垣に添って走ると庭園の入り口が見える。
ここまではさすがに追っては来ないだろうし、シャイマはあの窓を通れるか通れないかのギリギリだろう。速度を緩めて、動悸の激しい心臓を休ませようと東屋を目指した。その途中でも何度か道を逸れてみた。誰もいないところでシャイマに見つかれば何をされるかわからない。
「あった」
東屋が見えてきて、ようやくほっと一安心すると肩に手を置かれた。
「きゃあ!!」
「だから、待ってって!」
「こないで! あっち行って!」
「リル、待って」
「うるさい!」
ばたばたと走って東屋を通り抜け、礼拝堂のあるところまで走りぬいたが、そこが限界点だった。
礼拝堂に入るとそこで膝が折れた。
「……もう…だめ……走れない…」
息を継ぐのも大変なくらい酸欠だ。気を抜くと目の前が真っ白になる。
「…リル。足速いよ…」
礼拝堂の扉が閉まると、少年の声が聞こえた。
もうダメだ。捕まったと絶望したが、ふと少年の声がシャイマと違うことに気がつく。いや、そういえばずっと違う声だったかもしれない。
ゆっくり、扉のほうへ視線を移すと、黒い髪の少年が扉を背に、膝に手をついて息を整えている。
シャイマも黒髪だ。でも、シャイマより少し小さいかもしれない。よく見れば彼の着ていた服とだいぶ違う。シャイマは鮮やかな青い色を着ていた。しかし、この少年は深い緑色の服を着ている。
「誰?」
まだ息の整わないスノーリルはそれだけを聞いた。
すると、少年が顔を上げて微笑んだ。
「シャイマじゃないし、あいつの仲間でもないよ」
その顔に見覚えがあった。確か昨日もシャイマに追いかけられていた時に見た少年だ。シャイマの仲間だと思って逃げていたが、違うという。
「違うなら…あっち行って」
「違わなかったらそっち行ってもいい?」
そういうわけではない。警戒して睨むと少年は困ったように笑った。
「ごめん。でも追いかけた理由は、あいつらと同じ」
扉の前に腰を下ろして少し小さな声で聞いてきた。
「髪、触っちゃダメ?」
聞くよりも早く、直接触ろうとする少年たちとは確かに違うようだとスノーリルもわかったが、したいことは結局同じ。
スノーリルが無言で立ち上がると少年も立ち上がって、扉の前をどいた。
行ってもいいということだろうか? もしかしたら扉の前で掴まえる気かもしれない。疑心暗鬼になり、どうにもその場から動けなくなってしまった。
動かないスノーリルに何を感じたのか、少年が一つ提案を持ちかける。
「リルが一歩動いたら、僕が二歩下がるから」
本当だろうか。とりあえず一歩動いてみると、少年は言ったとおり二歩後退した。スノーリルが扉に近づくと、少年はどんどん遠ざかる。
扉の取っ手に手がかかると、スノーリルは少年をまじまじと見た。
「後ろ向こうか?」
扉に手をかけたのに、開けようとしないスノーリルに少年は首をかしげた。
「どうして"リル"って呼ぶの?」
なぜか会ってからずっと、愛称でもないのにそう呼ばれている。
「スノーって呼ばれるの嫌いなんでしょ?」
逆に不思議そうに尋ねられた。スノーは愛称だ。両親や親戚なんかは皆そう呼ぶ。嫌いではないし、呼ばれ慣れてもいる。しかし、すぐに否定はできなかった。そんな自分にとても驚いた。
「どうして?」
声が震える。なぜ、この少年はそんなことを聞くのか。いや、答えはすでに見えていた。
「シャイマたちに呼ばれるの嫌そうだったから」
耳を塞ぎたかった。思わず唇を噛む。
そうなのだ。いつからか、姉兄や両親がスノーと呼ぶたび責められているようだった。スノーは白。この名前は母が付けたという。優しく呼ばれれば安心するのに、なぜか緊張してしまうのだ。
最近ではスノーと呼ばれると笑えない。
「スノーリルでもいいんだけど、それもスノーがあるし…ノールじゃ可愛くないし」
ぶつぶつと言い訳をする少年の言葉ではっとした。
最近、スノーと呼んでいた女官長や侍女が「スノーリル様」と呼ぶ意味。クレアやアネットがなぜ「姫様」と堅苦しく呼んでいたのか。
目から鱗が落ちた。そうなのだ、みんなスノーリルを傷つけないように配慮していたのだ。子供のいる式典に出さないのも、シャイマたちのような子に会わせないためなのだ。
「リル!? どうしたの? 大丈夫?」
心配して声をかけてくるが近づいてはこない少年がぼやけて見える。
「…ごめんなさい…」
顔を覆って突然謝るスノーリルに、少年はどうすべきかを迷ったようだが、ゆっくりと近づいた。
「リル? 大丈夫? どこか痛い?」
心配そうな声に首を横に振って答える。
泣いているとカタリナもよくそう聞いてくれる。
「痛くない、違うの。違うの…大丈夫」
大丈夫だけど涙が止まらない。
知った真実はあまりにも優しくて。
それに気がつかなかった自分に腹が立って。
スノーリルはしばらく泣き続けた。