会話が再開されたのは二杯目のお茶を半分ほど飲んだあたりだ。
「ところで、スノーリル殿には心に決めた方はおられないのかな?」
これが他の大臣たちが口にしたら、間違いなく国へ帰れという意味だっただろうが、アルジャーノン大臣の言葉は本当に素朴な疑問であると感じた。
「探せる自信があまりないんです」
質問の答えではないような返事であるが、アルジャーノン大臣は「ほう」と眉を上げ、しばらく考え込んだ。
「…実は、クラウド王子には心に決めた方がいるようなのです」
「エストラーダ姫ですか?」
「それが、初恋の相手だとしか聞いておりませんのでな」
「初恋…」
その言葉でスノーリルが何ともいえない顔で黙ったのを受け、侍従が慌てて話しに参入した。
「王子はとても男らしい方なのですが、ただ、ただ! 憧れが強いのだろうということでして…」
しどろもどろに、なぜか言い訳をする侍従に口を挟むべきかを一瞬だけ悩んだ。言外に、白馬の王子様を待つ乙女と同じ思考を持つ男だ。と言っているようなものである。
「サミュエル。墓穴は死んでから掘ったほうが無難だぞ?」
「…はっ。申し訳ありません」
アルジャーノン大臣の言葉に、慌てて引き下がる。
「あの、それが何か?」
「いや、なに。もしお帰りになりたいと思っているのでしたら、誰も止めはせんということです」
どこか引っかかるものを感じさせる視線なのだが、話としては理解した。
つまり、件の王子はこちらには全く興味がないということだ。候補の一人でしかないスノーリルが帰るといってもディーディランは困らないということだろう。
「むしろそれを願っている人が多いようですけど」
トラホスにもいたくらいだ、他国の人間が考えないわけがない。特に、いつ戦争が起きてもおかしくない国では。
「そんなことはありません。我が王と軍部の人間は、貴女にできるだけ長くいて欲しいと思っています」
「?」
国王と軍部の人間。
戦争を待っているというのだろうか?
スノーリルは真意を探るように大臣の瞳をじっと見つめた。
その様子に首をかしげたのは大臣のほうで、スノーリルと後ろに控えるカタリナを交互に見やって、納得したように頷いた。
「なるほど。スノーリル殿はトラホス王からは何も聞いていないのか。だが、執事殿は違うようだな」
アルジャーノン大臣の問いに、スノーリルもカタリナを振り返ってその反応を窺うと、カタリナは小さく頷いた。
その肯定を受け、スノーリルは大臣に視線を移し言葉を待った。
「この話が来たときに、何か変だと思ったことはありませんか?」
「この話自体が変なことです。わざわざ不吉なものを近くに置く人などいません」
スノーリルの答えに大臣は「まあ、そうですね」と相槌を打つに留める。
「私が変だと思ったことはいくつかあります。一つは、父がこの話を簡単に受けたこと。何も考えていないのかもしれないですが、でも、あの父がそう易々と動くとは思えないです。
それと、王子に会えるのが三ヶ月後という習わしです。相手を見定めるための、この国の決まりだと聞いていますが、本当なんでしょうか? 国同士の結婚であればそんな必要はないでしょう。
そして、一番変だと思っていることは、カタリナ」
大臣に向かって話していたのだが、ここで後ろを振り返る。
「何故、付いてきた人たちの半分が港に留まる必要があったの?」
現在スノーリルの側にいるのはカタリナと侍女二人に、護衛が十数名。他国に来たというのにあまりにも少なすぎる。しかし、トラホスを出たときは実はその倍以上の人数がいた。
それが、城には入りきらないという理由から港に留まることになったという。
「これだけ大きな城に入らないなんてどう考えてもおかしいし、カタリナやトーマスがその条件を飲んだ理由が、必ずあるはずよ。そうでしょう?」
尋問に近い質問に、カタリナが苦笑した。
「はい。理由はあります。聞かれれば答えてもよいと言われていました」
「父上はそういうところは意地が悪いのよね」
スノーリルの愚痴に大臣が微笑むと、カタリナを手招いて椅子に座るよう促した。
今度はカタリナもそれに従い、椅子に座る。
「さて、では真相を話しましょう。我が王とトラホス王の間で、ある取引がありました」
「取引?」
その言葉の意味に、スノーリルは眉を寄せる。小さなトラホスに取引になる材料があるとは思えないからだ。
「スノーリル様はトラホスが平和である本当の理由をご存じないのです」
「トラホス王が"太陽王"と呼ばれる所以を知っていますか? あれは外見上の俗称ではありません。遥か昔からある呼び名です。それというのも、トラホス王は大陸全土の情報を集める力を持っているのです」
「情報…」
「全てを見ているという意味で"太陽王"と呼ばれ、その諜報力は脅威とされています。トラホスは代々その聞き及んだ情報を元に、大陸からの侵略を阻止し続けています」
「今回の取引は、現王が在位する間、トラホス国の盾となることを約束に、その力をお借りています。しかし、人員を補強する必要があるとトラホス王からの申し入れがありまして」
「それで、花嫁候補ですか…」
「はい」
シェハナ海を渡るには時間が掛かる。一度に大量の人間が渡っても怪しまれない方法、それが今回の花嫁騒動であるというわけである。
大国からの突然の話と、それを安易と思えるくらい考慮もなく受けた父王の決断。そこはすんなり理解できたスノーリルだが、それ以前の話を受け入れるほうが難しいようだ。
「私はずっと、トラホスは何もない島国だから、大陸の国も侵略してこないのだと思っていたわ。逆に脅威になっているなんて、とても信じられない……カタリナは知っていたのね。トーマスも?」
「トーマスは知らないと思います。彼は純粋にスノーリル様の護衛ですから。諜報活動をしている人間は家業として代々受け継がれているのです」
なんでもないことのように話すカタリナを見て、ゆっくりと事実なのだと理解する。しかし、スノーリルは世界が崩れたような気分である。
「私も、知らなくてもよかったわ」
疲れたように呟くスノーリルに、カタリナが少しだけ心配そうにするが、アルジャーノン大臣は違った。
「知りたくないことを知るということは辛いことですが、だからこそ自分のためになります。貴女はそれを身を持って経験されている」
身を持って。その言葉の意味するところは一つだ。
白い色を持つことがどういうことなのか、知る前と知った後では人に対する気持ちが変わった。そして、辛いのは自分だけではないということも知った。
アルジャーノン大臣がそれを知っているのは歳の功というやつだろうか。
すっかり冷めたお茶を侍従が入れ替えた頃には、だいぶ気持ちも落ち着いていた。
「三ヶ月という期間はもしかしたら父が?」
「はい。そのくらいの期間はどうしても必要だとおっしゃいましたので。できればその期間はディーディランに留まっていただきたいのです」
「わかりました。…でも、その間ずっと花嫁候補を装う必要はあるんですか?」
「この事を知っているのは、王と軍部の五人。それと私とギリガム。彼の腹心とこのサミュエルだけですので、このまま花嫁候補でいていただく必要があります」
国の機密事項ということだ。それはそうだろう。王族であるスノーリルすら知らなかった取引があったのだ、他の人間が知るはずがないし、知っていたら大問題だ。
「ギリガム大臣も知っているんですか」
先日のあれだけの言われように、少しだけ複雑な気分がした。
「敵を欺くにはまず味方からです」
「…味方だと思っていいんですか?」
「ははは。白が怖いのは本当なのです。なにぶん悪いことばかりしている奴なのでね」
優しく微笑むアルジャーノン大臣は潔白そのものの印象を与えるが、この人物はスノーリルの父"太陽王"が「笑い狸」と称する人物なのである。これが全てであるはずがない。
笑顔の下で何を考えているか分からない人。直感的にそう感じたのは、トラホス王家の血筋ゆえなのか…。
「今、ものすごく、父に感謝しました」
スノーリルの言葉にカタリナと侍従サミュエルが同時に笑いを堪えた。
「私は今、貴女を要注意人物に指定しました」
対して大臣は、必死で笑いを堪える他二名を見てから目を伏せ、にやりと口元を歪めた。垣間見たその笑い方をよく知っている気がした。
話も終わったようだとカタリナに視線を送ると、ちょうど城の鐘が鳴り響いた。
「おお、もうこんな時間か。それではスノーリル殿、あと二ヶ月と少しのあいだよろしくお願いする。ご迷惑は承知しているので、何かあれば私を頼ってください」
「はい。何かあれば、頼らせていただきます」
間違いなく、これから先が大変になるとわかっている。しかし、味方がいることが分かっているのと、そうでないのでは心構えも違ってくる。
父の考えがわかり、自分がどうすべきかを迷う必要もなくなった。
少し晴れ晴れとした気分でアルジャーノン大臣に別れを告げる。
「お忙しいでしょうから、私はこれで失礼します」
立ち上がり入ってきたときと同じ礼を取る。
「またお会いしましょう」
「はい」
笑顔で頷き、踵を返すと、アルジャーノン大臣が「ああ」と何かを思い出した声を上げた。
何かと思い、振り返ると腰掛けたままの大臣は茶器を手に悪戯っぽく笑っていた。
「驚かれていたようだが、綺麗だと言ったのは本当ですよ。悪い虫にご注意ください。トラホス王も心配なさっていました」
髪を褒めたときの反応を言っているようだ。驚いたのは本当だが、あまり気に止めていなかったのも事実で、お礼を忘れていたことに今気がついた。
「ありがとうございます。でも、悪い虫なら寄ってきません」
スノーリルの返事に大臣はにやりと口元を歪めて笑った。
「なるほど。では良い虫に気をつけてください」
その表情と言葉に、スノーリルは一瞬ぽかんと瞬きをしたが、思わず吹き出して笑って答えた。
「はい。わかりました」
満面の笑みを浮かべて去ったスノーリルに、侍従のサミュエルがため息をこぼした。
「可愛らしい方ですね」
見送る侍従の言葉に大臣は頷いたが、侍従とは違うため息をついた。
「可愛いがな、残念なことに父親似だ」
「そうなんですか?」
「どこがとは言わんがな」
大臣の声音に苦悩を感じ、件の姫が去った扉を見ると笑いを噛み殺した。