そんな日の帰り道
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 連絡先である電話番号とメールアドレスを教えてもらったあの日から、気分はものすごく上がっていた。
 それは周りから見ても丸わかりなほどらしく、会う人のほとんどから「いい事あったの?」と声がかかる。
 もちろん返事はYES。
 携帯を見るたびに頬が緩むのがわかるんだから、周りから見たら相当笑み崩れているんだろうなと思っている。



「日下(くさか)〜。今日はもう止め〜」
 ドアを隔てているためちょっと曇った、間延びした声が奥から聞こえる。
「店長。またですか?」
 甘い匂いの立ち込める調理場から、声の主に言葉を返す。するとすぐに白い色のドアが開き、紳士が一人現れた。
「またとか言わな〜い。とりあえず完売したんだからいいじゃな〜い」
「完売したんですか? それでしたら、いいですけど」
 今、追加で入った注文を作っている最中なのだ。こちらの言いたいことをさっしたのだろう、紳士は僕の手元を見やる。
「それ、広岡様でしょう?」
「はい。お客さんの誕生日に出すとかで…」
 五号ホールのデコレーションケーキだ。注文は定番の白い台にイチゴを沢山乗せて欲しいというものだ。
 注文してきた広岡さんはこの店の近くの喫茶店のマスターである。
「うん。それ終わったら帰っていいよ〜」
 話し言葉だけを聞いていると随分若い話し方ではあるが、この店長、五十にはなるはずだ。僕の親と同じくらいとか言ってたし。
「あ。届けるのは私がするからね〜」
「え? あ、はい。わかりました」
 にこにこと微笑み、手をひらひらさせて出て行く。
 もしかしたら共通の知り合いの誕生日だろうか? そんな事を思い、イチゴを乗せていく。
「川上さんの誕生日はいつかな」
 聞き出してみようと思って、手が止まる。
「それまでに何とかしないとね」
 そうなのだ。川上さんの誕生日が今月中にあるとは限らない。いや、今月ではないほうが確率は高いのだ。
「一ヶ月か」
 自分で言っておきながらその時間はあまりにも短い。
 一週間もあっという間にこようとしてる。
 川上さんも社会人であることもあり、遊ぶ時間もなさそうだ。それに…。
「メールも返事ないし」
 ぶすりとイチゴを白いクリームへと沈ませる。
 返事がないのは返信不要と送っているからだ。ある意味で自業自得。でも、何度も送ってうるさいやつだと思われたくないし、いきなり電話をして嫌われたくもない。
 ぐるぐる考えているうちにケーキは出来てしまった。あとはハッピーバースデーの書かれたチョコレートのプレートを乗せてできあがり。
 箱へ入れ、小さなロウソクを添えて、店のロゴの入ったリボンを箱にかけてラッピング完了。
 でも、まだ持っていくには時間があるはずだ。
 掃除の済んでいるショーケースの中に箱ごと入れて、持ち帰りようの袋を用意しておく。
 帰っていいとの言葉通り、店の扉の前には閉店を知らせる看板が置かれている。
「本当にこれでいいのかな」
 経営事態はそれほど苦しくはないみたいだけど。
 今不在のパティシエがこの店の人気を支えていて、一応それなりに有名店なはずなのに、完売したらそれで切り上げって、いいのだろうか。
 僕にまだ腕が足りてない自覚はあるけど、作ろうと思えば作れるのだ。
 そんな事をぼんやり考えていると後ろのドアが開く。入ってきたのは店長の奥さん。
「あら、アユちゃん。今日は終わりなんだって?」
「はい」
 苦笑して答えると、彼女はレジを開けた。どうやら今日の売上を取りにきたらしい。
「ご注文のケーキ。ここに置きましたから」
 ショーケースを指差して教えると彼女はにっこりと微笑んで頷いた。
「ありがとう。ああ、そういえば、フィル君から連絡があってね。四日後に帰ってくるそうよ」
「え。本当ですか?」
「うん。これでアユちゃんも少し楽になるわね」
「はい。よかったです」
 他の店からしたら、多分すごく楽な店だと思うけど。それでも店のケーキを一人で全部作るのはかなり大変だ。
「ちゃんと寝るのよ? 睡眠不足はいい仕事の敵だわ」
「はい。そうします」
 その気遣いに頷くと彼女も微笑んでくれる。
「ケーキありがとう。ご苦労様」
「お疲れ様です」
 労いの言葉をもらって、スタッフルームへ向かう。
 とりあえず今日の業務はこれで終了。
 着替え用とロッカーを開けるとそこに光の点滅がある。
 色からしてメールを受信したようだ。
 もしかして。
 そんな期待で急いで携帯を取る手が滑って落としそうになる。携帯を開いて、メールを開く。
 そこに並ぶ文字にドキドキと心拍数が上がる。
「川上さんだぁ」
 期待が外れなかったことに少しだけ信じられない思いで本文を読む。
 そこには一言だけ。
 僕から送ったメールの内容は、確か駅近くにできたコーヒーショップのことだったと思うからその返事だろうけど。
「コーヒーも、好き…」
 好き。
 それはただ、好みの問題のことだ。
 わかってはいるけど頭が沸騰しそうなくらいクラクラしてくる。
「好き」
 今までもよく見たはずの文字が、本当にどうしようもないくらい嬉しい。
 
 
 いつまでも携帯を見ているわけにもいかず、着替えを済ませて荷物を持って、店長にあいさつをしてから店を出る。
 外はまだお昼の気配。
 寝るにしてもまだ早い。とはいえ、これからすることも特にない。買い物よりはどこかでゆっくりしたい気分だし。
 ふと、春子さんのところに行こうかと思い立ち、駅を目指して歩く。
 そういえば、あの日からまだ一度も行っていない。春子さんに川上さんはどう映ったのだろう。あの時確かに「大丈夫」だと言ってくれた。
 でも。
 ふと歩みが止まる。
 春子さんが大丈夫だという川上さんを、僕はちゃんと捕まえられるのだろうか。
 
 
「アユム?」
 
 
 声をかけられ反射的に振り返る。
「あ」
 そこに立っていたのはつい最近別れたばかりのあの人。
「三倉さん」
 スーツ姿にビジネスバッグを持っているので、おそらく仕事の途中だろう。
 まさにばったり。そういう表現がぴったりだった。
 しばらく二人で呆然としていたけど、三倉さんのほうが先に動いた。ゆっくりと近付いてくる姿に以前あったはずのドキドキ感がまるでないことに気が付く。
「今日は休みなのか?」
 尋ねてくる声に首を横に振る。
「今、仕事帰りです」
「そうか」
 そう言うと僕を上から下までざっと視線を流した。
 その仕草に、あ、と思う。
 今の僕は彼には滅多に見せなかった。というか、一度しかないはずだ。
「そうしてると男だよな」
 苦笑して言うのに、胃の辺りがぐっと圧力を与えられたような錯覚が起きる。
「僕は、最初から男ですよ」
「………そうだな」
 こちらの言葉にすっと表情を無くした。
 なんだろう。ざわざわと嫌な予感がする。
 それはきっと、今までにした沢山の経験からくる予測だ。
 これ以上、この人の前にいたらダメだと頭の中のもう一人が叫ぶ。
「最初にこのお前に会ってたら、付き合ったりしなかっただろうな」
 それは、ただの感想なのだろうか。
「次のヤツは騙すなよ」
 そう皮肉気に笑うと肩をぽんと叩いて去って行った。
 ぎゅっと手を握る。
 決して、騙したわけじゃない。
 だって、ホテルに行ったし、それなりの行為をした。
 あの時、一瞬だけ驚いて「やっぱりな」って笑って言ったのは向こうだ。
 
 
 その後、どうやって行動したのか覚えていない。
 気が付いたら駅まで来ていた。
 帰っていく人。帰ってくる人。学生。社会人。恋人たち。
 随分ぼんやりしていたようだ。吹き抜けた風が冷たいことに気がつき、空を見上げたらもう夕方だった。
 三倉さんのあの言葉は、付き合った人の大体に言われる台詞だ。
「僕は、僕なのに」
 女の子の格好をしているのは防御線だ。
 女の子の相手はできないから、言い寄られるのも面倒だし。それに、そういう格好をしていたほうが「僕」を受け入れてもらえる確率が高いことも知ったから。
「川上」
 そう聞こえて、思わずそっちに目をやった。
 大学生だろう男性が手を上げている。そこにやってきたのは同じような男性だ。どうやらこれから飲みに行くらしい。
「川上さん」
 今までの中で、唯一例外の存在だ。
 女性であるというだけでなく、あっちの僕も受け入れてくれた。
 いや。そう思っているのは僕だけかもしれない。川上さんだって普通の男の子のほうがいいに決まってる。
 無意識に携帯を取り出して、お昼に届いたメールを開く。
「………好き」
 まだ、何も聞いていない。
 あの時の川上さんはちゃんと冷静に話を聞いて、考えてくれたはずだ。
「僕から動かなきゃ」
 川上さんからは動いてはくれない。だって、僕から持ちかけたことだから。
「………」
 ふと、メールの返信をしようとして指を止めた。
「あれ?」
 どうして返事をくれたのだろう。
 いつもと同じように返信不要をつけたはずだ。
 どくん、と心臓が音をたてた。
「川上さん、ずるいよ」
 さっきまで沈み込んでいた気持ちが一気に浮上した。
 
 そういえば、今日は金曜日。
 時間を確認して、一歩踏み出してみようと思う。
 ちょうど駅前。メールの内容を読み返して一人笑った。
 
 
 
 
 初デートの誘いはそんな日常の帰り道。



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