「マリーベルさんに何か心配事があるんですか?」
アリシアの質問はハッシュにはよくわからなかったようだ。
「そりゃ、最近治安が悪いからな。ちび達にはあまり外に出ないように言っているが…」
そんな答えが返ってきた。
「クラクベルタ当主に対してです。もしかしたらお知り合いですか」
もう一度聞くとハッシュは「ああ」と頭を掻いた。
「クラクベルタのセムとは幼馴染だ。年も近いし、弟みたいな存在だったんだが…あいつが当主になってからは、昔と態度が違って戸惑っているんだろう。実際昔と違うんだ。マリーに対しても冷たくなったというか…」
見えてきた尖塔を見据え、眉を寄せる。
「もし、それが悪魔のせいなら、祓うことで元に戻るならって、そう思っているんだろう」
苦い顔をしたハッシュの横がを見上げ、アリシアも尖塔を見る。
「私にはマリーベルさんの不安はそれだけではない気がします」
「どういうことだ?」
ハッシュは足を止めてアリシアを見る。
それにあわせてアリシアも足を止め、ハッシュを振り返った。
「この世の中で一番難しい問題は、案外身近にあるものだということです」
アリシアの言い回しにハッシュが眉を寄せ、抗議しようするとちょうどサージュ神父が顔を出した。
「これはお二方。おはようございます」
寝不足気味の顔で出てきた神父は、一度アリシアの上で視線を止めたがすぐに家の中へと案内した。
「お話があるのでしょう。どうぞ、こちらです」
今日はバロックには留守を頼んだ。どうもこの神父に嫌な予感が禁じえないアリシアは彼を連れてくることに抵抗があった。
幸いこの治安だ。ハッシュもそれについて何も言わなかった。
神父の借りている部屋は商家の一室で、そこから『神の家』が良く見えた。『神の家』は鉄柵の中にあるだけで壁と違い丸見えだ。
アリシアがそこから『神の家』を観察すると、サージュ神父が今までの経緯を話してくれた。
「私が来たのは半年前。その時からこの『神の家』に悪魔がいるのだと直感しました。姿はまだ確認していませんので、クラスはわからないですが、それでも間違いなく強い悪魔が憑いています」
「神父様は見ずとも強さがわかるんですか?」
そういう能力を備えた人間もいることを知っているアリシアは、この神父もそうなのかと思ったのだが、神父は首を横に振る。
「いいえ。私はそのような力はありません。ただ、三ヶ月前飛び込んで行った神父は伯爵クラスを祓える神父でした」
ハッシュによると、その神父は音沙汰がないといっていた。
「その神父の死は確認したのですか?」
「いいえ。殺されたか、捕らわれたままなのかはわかりません」
「つまり何もわからないんですね」
アリシアの言葉に神父は嫌そうに眉を寄せ、ハッシュを見る。
「法師にはわかるのか?」
ハッシュはその視線に苦笑しそうになるのを堪え、アリシアに尋ねる。
「何もせずにわかるのなら苦労はしません」
「あなたは私が何もしていないと言いたいのですか?」
堪りかねたのか、神父は冷静ながらもいらだった口調でアリシアに聞いた。
そんな神父にアリシアはにっこりと笑顔を見せる。
「いいえ。寝ずに見張り、悪魔の姿を確認しようとなさっていたのでしょう? それを何もしていないとは言いません」
ハッシュにはそのままの言葉に聞こえたが、神父には違うように聞こえたようだ。さらに嫌な顔をして視線を逸らした。
ハッシュの聞いたサージュ神父の話によると"流下"の法師、アリシア・ダシュクは、聖都から追われているのだということだ。そして、彼らの間では"悪魔憑き"として有名なのだと。
そんな曰く付きの法師に事実上、助力を求めているのである。鼻持ちならないと思うのも道理といえた。
しかし、目の前で繰り広げられる静かな対決は、どうみてもアリシアに軍配が上がっているように思える。
「それで? どうするんだ?」
ハッシュは神父にではなく、アリシアに尋ねた。
アリシアは長身のハッシュを見上げ、一度『神の家』に視線を投げてから神父を見た。
「どうしましょうか?」
その問いかけはどこか虐めのように見え、ハッシュは今度は我慢ならずに小さく吹き出した。
法師は神父の下の地位だ。それも、サージュ神父は聖都の『神の家』にいる神父で各地を点々と回る法師との位の差は歴然としている。
それなのに今目の前にいる法師は、明らかに聖都の神父を見下しているのだ。
「何かよい案があれば言ってください」
サージュ神父は苦虫を噛み潰したような顔で、アリシアに助言を求めた。
「では力を貸していただけますか? 『神の家』に行って、聖都から神父が来たといえば、あの建物の中を隅々まで調べられるでしょうから」
それはつまり『神の家』に乗り込むと言っているのだ。
「いいでしょう。しかし明るいほうがいいかと思います」
「ええ。今すぐ行きましょう」
「これから? 何の準備もなく行くなど自殺行為です」
難色を示す神父にアリシアはこれまたにっこり微笑んだ。
「神父様の言うとおり、伯爵クラスがいるのでしたらなおさら早くせねば。『神の家』に悪魔が住み着いているなど以ての外です」
「いや、しかし…」
「それに、もしいなくなった人たちが生きているのであれば、時間が経てば経つほど我らに不利です。すでに半年の時間が経過しています」
もはやサージュ神父はぐうの音も出ない。結局、法師の意見に従った。
ハッシュの家では留守を言い渡されたバロックが、子供たちに例のごとく質問攻めにあっていた。
「バロックは法師様とどこであったの? 拾われたの?」
「どこから来たの? いついなくなっちゃうの?」
「その髪、どうしてそんなに長いの? バロックって女の子?」
「クッキー好き? プリンのほうがいい?」
「本読める? この本知ってる?」
など、ばらばらの質問を一気に受けたが、無表情に彼らの言葉を聞いていた。聞いてはいたが、答える気は全くない。
それゆえの沈黙だったが、苦笑しつつマリーベルが子供たちを止めてくれた。
「ほらほら。そんなに聞いたらバロック君が困っちゃうわ。一つずつね」
ソファーに座っていたバロックの隣に腰掛けると、興味津々で質問する子供たちに微笑む。
「バロック君は自分のことをよく知らないんだって。だからあまり沢山を聞いてはダメよ。バロックは法師様がつけてくれたんですって」
バロックが自分を語るよりマリーベルがそう子供たちに答えてしまう。それで子供たちは納得し、それぞれが皆自分たちの好きなことに目を向ける。
好奇心旺盛な子供たちのあっさりとしたその行動は不思議であった。
バロックがマリーベルを見上げると彼女はこっそり囁く。
「ここにいるのは皆あなたと同じ。名前を持たなかった子もいるし、気がついたらここにいた子もいるの。だからそれは当たり前で、とてもよくわかっているのね」
興味がなくなったのではなく、ただ、当たり前過ぎてわかってしまうのだ。その意味が。
バロックはそれでも幸せそうな子供たちに目を向けると、隣からふわりと抱きしめられた。
「バロック君は今幸せ?」
近くから顔を覗き込まれ、微笑まれてもその意味がわからない。
そんなバロックの心を読み取り、マリーベルは少しだけ考えると、わかるように聞いた。
「法師様といると笑顔になれる?」
そういうと暖かい眼差しでバロックを見る。バロックは聖母の様に微笑むマリーベルをじっと見つめた。
「なれないと不幸せなのか?」
「そうではないけれど…」
マリーベルは困ったように笑うと、そっと優しく黒髪を撫で、子供たちを見る。
「人の笑顔は見ているだけで幸せになるでしょう? バロック君にもそうなって欲しいな。そう思える人と、会えるといいなって思うの」
目の前では全開の笑顔で笑う子供たちがいる。その笑顔を見ているマリーベルはとても幸せそうだった。
その笑顔が今はいない人を思い出させる。
「彼女は幸せだったのか」
ぽつりと漏らされた言葉にマリーベルは答える。
「バロック君が見て、幸せそうだと感じたなら、その人はきっと幸せよ。例えどんな状況でも」
断言するマリーベルをバロックはもう一度見上げた。
「では、幸せだったのだろうな」
誰のことを言っているのかはわからないが、微かに哀しそうに揺れる瞳に、マリーベルは頷き、ぎゅっと抱きしめた。
「あの子も…今幸せかしら」
バロックの瞳が伝染したように、マリーベルの声は泣くのではないかと思えるほど弱弱しいものだった。
「お母さん。バロックがプリン食べたいって」
「まあ、本当? ケリーが食べたいんでしょう?」
子供の声に答える声には哀しさなどなく、いつものマリーベルに戻っていた。子供と一緒に台所へ向かう後ろ姿を見送り、窓の外を見た。
「貴女はいつも笑顔だな」
ここ最近一緒にいる法師は出会ったときこそ違ったが、今は笑みを絶やしたことがなかった。