「ここは聖都から遠い。治安はいつも不安定なんだ」
ハッシュはどこから話し始めるかと思案し、当たり障りのないところから話し始めた。
「界壁が現れることはよくあるし、いつ侵食されてもおかしくない。祖父や父、支配家を継いだクラクベルタも『神の家』に絶対の信頼を置いていたし、今も信頼を置いている」
「はい」
まるで何かの前置きのような言葉に、アリシアは心配ないと微笑んだ。
ハッシュはアリシアを真直ぐに見つめ、苦く顔を歪めた。
「最初に気がついたのは半年前だ。『神の家』に孤児の子がいると聞いて様子を見に行ったんだ。息子に兄弟が欲しくて…俺たちにはもう無理でな。もし里親がいないのであれば引き取ろうと思って…」
ハッシュは子供が寝ている時間に『神の家』を訪れた。
鉄門にはいつも見習い法師がいる。彼に頼んで中に入れてもらうと、突然悲鳴が上がった。
「子供の声だった。経験上、あれはただの悲鳴じゃない、恐怖で錯乱した声だ」
「経験?」
人間そうそう錯乱した人の声を聞くものでない。アリシアの疑問にマリーベルが答えた。
「ハッシュは神父様に乞われて神隊に入っていたんです」
神隊。『神の家』に属する兵士だ。
「何かあった。というより、嫌な予感がした」
『神の家』へ足を踏みいれると、泣き叫ぶ少年に若い法師がどうしていいのかわからずうろたえていた。
ハッシュは問答無用で子供に当て身を入れると、法師に神官はどうしたと尋ねた。
その声が聞こえたのか、現れた神官は青い顔をしてハッシュと子供を定まらない視線で見やり、何でもないのだと言った。
「何もないわけがないだろう。何もなくて子供が錯乱するか?」
ハッシュは一瞬にして判断した。それは神隊にいた時の勘といっていい。ただ、ここに置いておくわけにはいかないと思った。
「とにかく一日預かるといって無理やりその子をここに連れてきた」
「でも、その夜にその子の姿が見えなくなったんです」
ベッドに寝かしつけ、マリーベルが付きっきりで看病していたのにも関わらず、まるでその場から消えたように、跡形も無く。
「私は扉の前に椅子を置いてそこに座っていました。もし、その子が逃げたのだとしたら窓以外は考えられません。でも、窓はきちんと雨戸までしてありました」
逃げるのに雨戸まで閉めて逃げるものはいないだろう。ましてやそれが子供ならなおのこと。
「それで俺は直感した。これは悪魔が関わっているんだと。よりにもよって、神官が悪魔と何かしらの契約に及んだのだと」
「その日から小さな子供をもつ親が突然いなくなったり、奴隷商などがこの町に入り込むようになったり…。私たちはできるだけその子供たちをかくまうことにしました」
マリーベルは青い顔をして目を伏せ、ハッシュは拳が白くなるほど握り、怒りを抑えこんでいる。
「なるほど。魔除けのリースはそういうことですか…でもあれはハッシュさんが作ったものではありませんよね」
冷静に受け止めているアリシアに、ハッシュも心を落ちつけ頷いた。
「ああ。サージュ神父に作ってもらったものだ。彼は半年前に聖都の『神の家』に連絡を取って派遣してもらった人だ」
そこで一度アリシアをまじまじと見つめた。その視線にアリシアは苦笑するしかない。
「あなたは"流下"の法師なのだと神父が言っていた。それと、もしこの件に力を貸してくれるならあなたの事は聖都に知らせないと」
ハッシュはその意味をよく理解していないようだった。
神父の言葉にアリシアはくすくすと笑い出した。
「それで脅しているつもりなのかな。まったく、きょう日の神父は自尊心だけは高いんだから。自分の無力を宣言したも同然じゃない」
微笑んでいる姿は先ほどと同じだが、纏う気配がまるで違う。
マリーベルは目を見開き、ハッシュは呆然とした。
「失礼。それで、神父は他には何も? 黒幕がどこにいて、なんなのか把握はできているのかしら?」
苦笑しつつ、侘びてアリシアはハッシュに尋ねた。
「ああ…それが……」
言い難そうにしているハッシュにアリシアは微笑し、大丈夫だと請け負った。
「私は"流下"ですから、『神の家』を信じてはいません。どうぞ、冒涜だといって死刑にしたりはしませんから、言ってください」
あっけらかんとしたアリシアの告白にハッシュは驚いたようだったが、それで気が緩んだのか、少しだけ肩の力を抜いた。
「悪魔は神官にではなく、『神の家』に憑いているのだと言っていた。実は三ヶ月まえにも一人神父がきたんだが、『神の家』に入ってから音沙汰がなくなった」
マリーベルは「嘘」と小さく呟き口を手で覆って、微かに震え出した。
「サージュ神父は他に寝泊りして、そこから『神の家』を監視しているが、姿を確認できないとかで…」
「サージュ神父は半年前にきたの?」
「ああ」
「三ヶ月前に『神の家』に入った神父とは一緒に入らなかったの?」
「あの時は、サージュ神父が止めたんだが、もう一人の神父はそれを無視して単身突入したんだ」
「で、玉砕」
そこまで聞いてアリシアは考えに没頭した。目の前のお茶を見つめて微動だにしない。
「サージュ神父は今どこに?」
「『神の家』近くの家に部屋を借りている。手を貸してくれるのか?」
身を乗り出して聞くハッシュにアリシアは微笑した。
「ええ。神父から助力を求められているのでしたら断る理由はありません」
「よかった」
「ところで、もう一つ。クラクベルタ当主に何かあるんですか?」
最初の質問がそのことだったが、神父がいるなら心配はないだろう。それなのにアリシアに尋ねてきたことが不思議だった。
「一年前…当主になってから様子が変わったんです」
答えたのはマリーベルだった。
「突然当主になって責任が重くて性格が変わったんだってハッシュは言うけれど、前のセムとはあまりに違っていて。もしかしたら悪魔が憑いたんじゃないかと…」
「神父には?」
「見てもらいました。でも大丈夫だと」
視線を落とし、声は小さく言い難そうなマリーベルの様子に、何かあるとおもったが、アリシアはそれ以上聞かないことにした。
「神父が言うなら大丈夫ですよ。突然降りかかった責任に、沢山のことを見なければならなくなって、肝心のものを見落とすことはよくあることです。周りが落ち着けば元に戻るでしょう。そのためには、その悪魔を祓わないと」
アリシアの言葉にようやくマリーベルの顔に笑顔が戻る。
「そう、ですね。お願いします」
「はい。それでは、また明日」
頭を下げる二人に笑いかけると、部屋へと戻った。
アリシアが部屋に戻ると、ベッド脇の小さな机の上のランプに小さく明かりが灯されたままになっていた。
窓際に一つきりのベッドに小さな膨らみができているのを確認すると、アリシアはマントを椅子に預け、ベッドに腰掛けると火を消した。
一つ息を落としてから布団にもぐりこむ。
バロックを起こさないように静かに入り込んだつもりだったが、さすがに元悪魔は普通のお子様と違っていた。
「祓うのか」
まだ幼い可愛らしい声が、明確な確信を持って尋ねてきた。
「子供は寝る時間です。というか、聞いていたのですか?」
目を閉じ、真っ暗な中で聞く偉そうな可愛い声は、やはり違和感があり苦笑が洩れた。
「聞こえただけだ」
その言い方から、別に聞くつもりは無かったと言っているように聞こえた。
まさか立ち聞きしていたわけでもないだろうし、その気配もなかったことからアリシアは首をかしげた。
「ここから聞こえたんですか? それはまたずいぶん良い耳ですね」
「アリシア・ダシュク。名を知っていればそう難しくはない」
移動と無駄な気疲れで、眠気に誘われるまま寝ようと思っていたアリシアはぱちりと目を開けた。
「バロック君? あなたはもう悪魔ではありませんよね?」
この質問に真横でくすりと笑う気配がする。
「貴女の言う通り、支配は難しいようだ」
明確な答えにはなっていないが、アリシアにはそれで十分な説明になった。
「無断で私の精神に入り込むなんて、いい度胸だわ」
急激に気温が低くなった気がするほど、アリシアの声は冷たかった。バロックも何かを感じ取り、少しだけ体をアリシアから離した。
暗闇にすうっと深く呼吸する音が聞こえる。
「アリ…」
「"呼ぶな"」
ざわりと闇が動く気配がする。いや、動いたのではない、祓われたのだ。
それを受け、バロックが小さく息を飲む。
もう一度深く息をして今度は優しく呟いた。
「"眠ねさい"」
「…忘れてた…」
どこか後悔したような、弱く細い声を残して眠りに没した少年にそっと囁く。
「残念だけど、今優位に立っているのは私のほうなのよ、バロック」