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 ハッシュと名乗る男性に案内され町を歩くと、かなりの注目を浴びてしまった。
 アリシアの旅の道連れは買ったマントを身につけ、フードを目深に被っているため、この少年への視線ではないことは確かだ。
「ハッシュさんは有名なんですか?」
 アリシアが尋ねると頭を掻いた。
「まあ、少しはな」
「セルビーだ」
 少年がそうアリシアに告げた。
 その言葉にハッシュがゆっくりと振り返る。その顔には驚きがあった。
「前の支配家だからという注目ではない気がしますよ?」
「ではなんだ?」
「なんでしょう?」
 無表情の少年とにこやかなアリシアを交互に見やり、ハッシュは口をあんぐりと開け、ついで笑った。
「家についたら話してやる」
 そう答えると前を向いてしまった。そのままアリシアに声をかける。
「どうでもいいが、その子にちゃんとした言葉遣い教えたほうがいいぞ」
「努力はしているんですけどね〜」
 アリシアが盛大なため息をもらすと、前を歩くハッシュが声を殺して笑った。
 ハッシュは大変大柄の男性だ。身長もあるがそれよりもなによりも、筋骨隆々という言葉がぴったり当てはまる。広い背中、太い首、剣を持つ人間らしくごつごつした手。
 容姿はその体に裏切られることのない精悍なものだが、笑顔がとてもステキな男性だ。
 青い瞳を持ち、明るい金髪は太陽を反射してキラキラ輝いて見える。
 ある意味、今連れて歩いている少女と思われている少年とは正反対だ。
 
 
 ハッシュの家はさほど大きくはなく、ここクラクベルタの一般住宅と変わらない規模のものだ。
 木製のドアに小さな魔除けのリースがつけられていた。
「今帰った」
 ハッシュがドアを開け、中に声をかけるとすぐに返事が返る。
「おかえりなさい。あら?」
 出てきたのはふわふわの茶色の髪をした女性だ。
「客人だ」
「法師様なんて久しぶりだわ。あ、申し遅れました私この人の妻で、マリーベルといいます」
 礼儀正しく頭を下げて自己紹介をされ、アリシアも同じように名乗る。
「こちらは?」
 マリーベルは少年の視線に合わせて立つと首をかしげて尋ねた。
「ああ…」
 ハッシュが何か言おうと声をかける意外にも少年が答えた。
「名前はない」
 少年の言葉にマリーベルは小さく「まあ」と言うとアリシアを見上げた。
「ちょっと事情がありまして」
 困ったように微笑むとマリーベルは突然少年を抱きしめた。
「大丈夫よ。もう怖くないからね? お腹は空いてない? 今うちの子がお菓子を食べてるの。一緒に食べましょう?」
 どういう風に思考が働いたのかはわからないが、しきりに大丈夫を繰り返し、なだめるように背中を撫で、向こうへ連れて行ってしまった。
「悪いな。あいつは勘違いが十八番なんだ」
「いいえ。助かりました」
 促されるまま少年は、マリーベルと他の子供たちがいる部屋へと連れて行かれた。
 アリシアもその部屋へ顔を出す。
「さあ、皆! お客様よ。仲良くしてね?」
 マリーベルが子供たちに声をかけると一斉に歓声を上げて寄ってくる。その数十二人。それぞれ髪の色はもちろん、顔も全く似ていない。一目で血のつながりではないとわかる。
 そんな子供たちに少年は質問攻めにされつつ、彼らに強制的に連れ去られると並んで座り、お菓子をすすめられていた。
 その様子に微笑むと、アリシアは部屋に案内された。
 案内されるといっても狭い家なので数歩離れた部屋につく。
「沢山いるんですね」
 アリシアの質問の意味にハッシュが少し苦い顔をして頷いた。
「ああ。この町の孤児と半分は奴隷だった子だ。俺の息子も一人いるが、まあ、マリーは全員自分の子供だと思っているだろうな」
 マリーベルが少年の境遇を勘違いした理由の一つがそれだろう。
 アリシアは荷物を置き部屋を見回す。窓から見える景色には、洗濯された沢山の子供服がはためいていた。
「この町にはどのくらい滞在するんだ?」
「まだ決めていませんが、そうですね。少し長めにいようかとは思っています。あの子も少し人に慣れたほうがいいですし」
 その言い方にハッシュが首をかしげる。
「奴隷だったのか?」
「それよりも悪いものです」
 間違ってはいないが、間違った表現であると自覚しつつも口にした。みるみるハッシュの顔が強張る。
 少年は表情が乏しいながらもあの顔だ。そこからハッシュが何を想像したのか、考えるまでもない。
「…あの子いくつだ?」
「さぁ? 十才前後だと思いますが、本人もよくわかっていないようですから。…あら、もういいんですか?」
 話の途中でその本人が、開いたままの入り口から入ってきた。
 どこか疲れた様子の少年は、入り口近くで立ち話をしていたアリシアたちを通り過ぎ、窓側に置いてあるベッドに座った。
 ハッシュは少年に複雑な視線を送り、アリシアに視線を戻した。
「それじゃ、出て行くまでここにいてくれ。多分いい環境だと思う」
「ええ。同じ年頃の子がいるのは安心できます。ありがとうございます」
 とりあえず話を終えるとゆっくりしてくれと言い置いてハッシュが出て行った。
 ドアが閉まるとアリシアはマントを脱いで、荷物の中を調べ始めた。足りていないものを買い足す必要があるからだ。
 そんなアリシアの作業をしばらく見ていた少年が、ベッドを降りアリシアの前に立った。
 別段手伝うというわけでもない少年に、アリシアは作業の手を止めて見上げた。
「なんですか?」
 床に膝をついているアリシアを見下ろして少年が無表情に聞いてきた。
「アリシアというのか?」
「ああ。ええ、そうですよ」
 そういえば少年に名乗っていなかったと今さらながらに思い出した。今まで必要を感じなかったこともある。
 アリシアは少年にちゃんと向き合うと、胸に手をあてて名乗った。
「私の名前はアリシア・ダシュクです。身分の高い人以外ではファーストネームを呼ぶのが普通です」
「そんなに簡単に名乗ってもいいのか?」
 悪魔だった少年の疑問に、自分が名乗らなかった最大の理由がそこにあるのだと気がついた。
「人間同士であればそれが普通です。名乗るのが礼儀でもありますね」
 それを聞いた少年は無表情ながらもわずかに目を見開いた。どうやら驚いたようである。
「…そうなのか」
「はい」
 アリシアの答えに満足したのか、少年はもといたベッドの上に戻ると窓の外に目をやる。
「私にも人間の名前が必要になるのか」
 その言葉にアリシアは「そうですね」と荷物を探りながら答えた。
「貴女が決めてくれ」
「私がですか?」
 驚いて聞き返すと視線を合わせずに頷かれた。
「困りましたね」
 アリシアにとっても人生初めての経験だ。犬や猫に名前をつけたことはあるが、人に名前をつけたことなど無い。アリシアは結婚経験も出産経験も無いので当然だ。
「そうですね〜。思いつく範囲で言えばヴィヴィアンとか、シャルロットとか?」
 ハッシュに紹介するときもそう言ったが、問答無用で切り捨てられた名前だ。
 少年は少しだけ不機嫌そうに窓からアリシアへと視線を投げた。
「私は男だと思うが?」
「ええ。間違いなく男の子の姿ですよ」
 いくら外見が少女に見えても、声がどんなに可愛らしくても、中身が少年であることをアリシアは知っている。
 力強く断言すると少年がきちんとアリシアに向き合った。
「その名前は、私の記憶だと女の名前だったはずだが?」
「ええ。そうですね」
「断る」
 にっこり微笑んで肯定したアリシアに、やはり一刀両断で言い捨てた。
「そうですか? とてもよく似合う名前ですけどね」
 ヴィヴィアンとシャルロットは傾国の美女の名だ。実際、二人はその美しさにより国を滅ぼした人物でもある。
 アリシアの目の前にいる少年は間違いなく、文句なく、無二の美少年だ。それこそ一国でも二国でも滅ぼしてしまいそうなほど。
「ん〜。困りましたね。でもまさかハリーとかロバートとかつけられませんし」
 それではあまりに名前が浮きすぎる。
 アリシアは少年を見つめ、似合いそうな名前を思い浮かべるがどれもぴんとこない。さすがに犬猫のように簡単には決められないものだ。
「悪魔の頃はなんと呼ばれていたんですか? あ、俗称ですよ」
「…淫楽の王」
 参考までに聞こうと思ったのだが、間違いであったと思わず唸った。
「そうですか…」
 さて、困ったと思いながら荷物から取りあえず日常に必要なものを出して、壁際にある机に置くと、少年をまじまじと観察した。
 見れば見るほど奇麗な顔だ。幼いがどこか憂いがあり、その黒い瞳には影がある。間違いなく金持ちの男が好みそうな女性に育つだろう…いや、女性ではないが。
 そこまで考えてふむと顎に手を当てた。
 少年を少女に見せているのはその実、顔ではないのだ。奇麗ではあるが実のところ性別不明でどちらにでも見える。少女として決定付けているのは長すぎる髪にあるのだ。
 硬質な印象を与える黒髪は膝下まである。癖のない真直ぐな髪は実はとても柔らかくアリシアのお気に入りだ。
 艶やかなその黒髪は光を受けると不思議な光を放つ。時に緑に、時に赤く、角度を変えるその度に光は別の色を持つ。
 ぼんやりと何かに似ているな〜と思い、ふとこんな言葉が思い浮かんだ。
「バロック…」
 深く黒く、それでいて不思議な虹彩を持つその宝玉。
「うん。決まりました。あなたの名前は今日からバロックです。いいですか?」
 気に入らなかったどうしようかとも思ったが、その必要はすぐに消えた。
「それでいい」
 無表情で頷いた少年に、アリシアはもう一つ大切なことを思い出した。
「私はアリシアですよ」
 自分を指してそう言うと、少年は首をかしげた。
「いいのか? 支配してしまうかもしれないぞ」
 少年はまだ以前の感覚が抜けないのだろうが、アリシアはにーっこりと微笑んで挑発するように言った。
「できるものならしてみなさい。今のバロックには無理ですよ」
 断言され、少年バロックは言葉を失ったように呆然とした。
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