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 それにしても。とアリシアは思う。
 あれから広い場所に移動し、今魔方陣を地面に描いているところだ。
 円の中央にはあの悪魔が立っている。
 月光の中に佇む姿は無機質で、とても静かだ。
 長身にまとわりつくように長い黒髪は真直ぐで、癖がないためか硬質な印象を与える。時折吹く風にもなびく様子はなく、まるでその場だけ時間が止まっているようだ。
 微動だにせず、まっすぐ前を向いたままの悪魔を、アリシアは横目にしながら魔法陣を書き続ける。
(皇位の悪魔を封印する人って、どんな人かしら?)
 いまだかつて皇位の悪魔を封じた人間、法師や神官がいるとは聞いたことが無い。アリシアが知らないというよりは、おそらく世間から隠された話だろうと、情けなくなるほどわかっていた。
 過ぎた力は人以外のものにも、人間にも脅威とされるものだ。
 そしてそういった力を持つ人間は多かれ少なかれ権力に疎まれ、排除の対象となる。
 この悪魔を封じた人間もおそらく例に洩れないだろう。
(そうよねぇ。公爵を封じた私ですらそうなんだもの、こんな化け物ならなおさらよね)
 アリシアの中にいた公爵位の悪魔はアリシアの意識に勝てず、表に出てくることはなかったが、この皇位悪魔は意識の無い体に封じられているため表に出てきている状態だ。
 意識の無い体…空童(くうどう)。魂の入る前の赤子のことを言う。魂の入る前であるため悪魔や天使など、体を持たないものを封じるには最高の器であるが、倫理的、宗教的に禁忌とさている。
 アリシアは重いため息を吐き出し、気分を変えるために背筋を伸ばした。
 夜空は雲がすっかり無くなり、まん丸の月がくっきりと浮かんでいる。
 視線を悪魔のほうへ向けるとその後ろは真っ黒だ。あの界壁がまだそこに留まっていて何も見えない。
 アリシアがこれから行おうとしているのはただの悪魔祓いだ。
 殺すという注文と違うのだが、悪魔も大人しく従っている。
 描き終えた魔方陣の定位置につくと、まじまじと悪魔を見つめた。
「本当にいいの?」
「ああ」
 悪魔は躊躇うことなく答える。
 その短い答えにアリシアも「そう」と呟くと、目を閉じ深く呼吸を繰り返す。
 霊核を壊すことは人間にはできない。だが、それでも壊す方法を人間は長い年月の中で見つけていた。
 それが"空童"である。
 意識の無い幼い体に彼らを封じ、その体ごともう一度封じる。時が経ち彼らの力が衰えてきた頃に外側の封印が解ける。
 外に出た幼い体は成長する。その人間の成長に彼らの持つ力が消費され、霊核は弱る。
 しかし、弱るだけで壊れはしない。
 霊核を持つものが恐れるのはその後だ。
 弱った霊核には自我がなく、茫洋とただ闇の中を漂い、そして闇に喰われる。
 ひどく緩慢に訪れる死。いや、存在したことさえ残さない完全なる消滅だ。
 その死から逃れられる唯一の方法。
 それが悪魔祓いだ。
 霊核が弱る前に周りの力を削がれれば、空童から抜けることができるかもしれない。しかしそれは自殺行為そのものである。
 言ってみれば空童から抜けるには一度死を迎える必要があるといえる。
 悪魔の言った「殺せ」はおそらくそのことだろう。
 霊核に自我があれば、闇に喰われることはない。
 アリシアはちらりとあの闇の壁を見た。
 やはりゆるゆるとその手を広げている。
(この悪魔の力ももう終わりに近いのね)
 それにしても、こんな状態でよくこんな僻地まで自分を探しに来たものだと、その生への執着心に驚きを通り越して呆れてしまう。
(人のことは言えない…か)
 少し自嘲がもれた。それを悪魔はちゃんと見ていたようだ。
「どうした?」
 この暗さの中なのに、さすがと言うべきか。
 アリシア口の端を上げたまま、視線をゆっくりと下へ落とし言葉を紡ぐ。
「我、汝に請うは、魔を祓いし光りなり」
 言葉と同時に地面に描かれた魔法陣の線が淡い光りを放つ。
「我、汝の光を借る愚者なり」
 首に提げてある円形のペンダントを二本の指に挟む。
「されば我は願う、我が言霊に剣を与えよ」
 ペンダントからも光が洩れ出し、徐々に離れていく。
「我が言霊よ、闇を退け!」
 ペンダントの光は無数の針のように細くなり、魔法陣の悪魔へと飛んだ。
 一直線に悪魔に向かった光の針は悪魔の体に確実に突き刺さった。しかし、悪魔がわずかに顔を歪めただけで変化はない。
(やっぱりこれくらいじゃダメね)
 さすがに皇位だけあるのでわざわざ聖域の魔法陣まで張ったのに、あまり効果はないようだ。
(やっぱり私はこっちのほうが得意なのね)
 一度試したときはそれほど効果は無かったが、あの時と今では状況は違う。
 胸に手を当て、全神経をそこに集中する。
 目を閉じ、深くゆっくりと息を吐き出した。
 それに呼応するように魔法陣の光が増すと、あの黒い壁が急速に引き下がった。
 息を継ぎ、真直ぐ悪魔を見据え、ただ命令する。
「"去れ"」
 その瞬間、魔法陣から閃光が立ち上がり、そして消えた。
 
 
 残されたのはアリシアと、焦げつくように残った魔法陣とその中央にいる人。
 あの黒い壁はどこにも見当たらない。
 まるでこの一帯が浄化されたかのように、月明かりがやけに眩しかった。
「はあぁ〜。もう、やらない」
 アリシアは心底疲れたため息とともにその場にへたりこんだ。
 いくら弱っているとはいえ皇位は皇位なんだと教えられた気がした。
 さて、結果はどうなったのだろう?
 アリシアは魔法陣中央に倒れている人に目をやった。
 ぴくりとも動かない。
 助かる見込みがあるとはいえ、力を祓われるのだ。助かる確率は限りなく低い。
 アリシアは重い足を引きずり、倒れている人に近づいた。
「………え?」
 倒れているのは裸の人間。
 いや、元々悪魔や天使の衣服は彼らの一部で本物ではない。よって、人になれば当然真っ裸になる。
 そのくらいは当然アリシアも知っている。
「嘘」
 呆然と呟いたのはそのせいではない。
 会った悪魔はアリシアが見上げるほど背が高かった。当然それと同じものが倒れていると、根拠も無く思っていたのだが。
「子供?」
 うつ伏せで倒れているのは大きさからどう見ても子供だった。
 触れてみると冷たく、息もしていない。
 "空童"はただの空ろな器なので当然と言えば当然であるが、やはりなんともいえない罪悪感がある。
「…ちゃんと抜けたのかしら?」
 呟き、抱き起こす。
 これでとりあえず悪魔の「殺す」を実行できたわけだが、悪魔が生きているかどうかはわからない。
 あの界壁がなくなったのは悪魔の霊核を喰ったからだろうか。
 とにもかくにも、この子供の体をこのままここに放っておくわけにもいかない。とりあえず借りた空き家に運ぶかと、抱き上げようと視線を落とす。
「ん?」
 落とした視界の先に月明かりを受け鈍く光るものが落ちていた。
 拾い上げてみるとどうやら水晶の玉のようだ。
 こんなものがなぜここに?
 アリシアが疑問に思い首をかしげた瞬間、その水晶がほんのり光り、子供の体の中へとはいった。
 それと同時に子供がむせ返るように息をした。
「え! 大丈夫?」
 慌てながらもアリシアは背をさすり、今のはなんだと眉を寄せた。
「タラクは策士だな」
 突然可愛らしい声が聞こえ、アリシアは「はい?」とどこから聞こえたのかもわからずに聞き返した。
 くすり。と腕の中の子供が笑う。
 アリシアはそれを信じられない気分でみやると、子供とばっちり目が合った。
「うそ」
 本日三度目の言葉をこぼし、はっと気がつく。
(まさか…あれって…霊核!?)
 再び悪魔が空童に宿ったのかと思ったが、それでは息をしている理由に当てはまらないことに気がつく。
 空童に封じられた場合、悪魔はそれでも悪魔として存在するため、質量があるとはいえ、体重は人間のものではありえないくらい軽いし、息もしなくても平気だ。
 しかし、今抱いている子供は見合うだけの体重があり、ちゃんと息をしている。
 アリシアが心の中に吹き荒れる混乱の嵐と戦っていると、ふと腕の中が重くなった。
 子供が気を失ったのだ。
「大変! ああ、ええっと、どうしよう」
 裸なのでとりあえず自分のマントを脱ぎ、子供に着せる。
 次にやることを考えるが、頭の中では「嘘だ嘘だ」と叫び声がこだます。
「だって! だって!」
 誰にともなく言い訳を考えるアリシアは泣いてしまいたかった。
「こんなことってあっていいの!?」
 子供の発した言葉から察するに――察したくないが――間違いなく、あの悪魔の霊核が入っている。いや、たった今入った。
 人間の魂の転生はあるが、悪魔の転生など聞いたことがない。
 いや、これを転生と呼ぶのであれば、だ。
「だってこんなの、人体の乗っ取りだわ!」
 それが一番ぴんとくる呼びかただ。
 しかし、先ほどのこの子供の様子では完全に人間と同化してしまっている。
 本当に人間に転生してしまったかのようだ。
 抱いた子供を凝視し、その体温が異常に低いことに気がつく。
(今はとにかく暖めなきゃ)
 疲れきっていたが、子供は生きているのだ。
 法師の使命として子供の介抱に今は意識を集中することにした。
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