ざわざわと風が木々を揺らす音が聞こえていた。
(雨がくるのかしら…)
ぼんやりとそんなことを思い、目を開ける。
が、そこに見えたのは黒一色。
幾度か瞬きをしてそれが何かを考える。
黒いがそれは暗闇ではない。少し視線を動かすと暗い地面がわかる。
そのことで月が出ていると知ったが、この黒い色はなんだろうと、はっきりしない思考を巡らせるためもう一度目を閉じた。
「起きたか?」
頭上から声が聞こえた。
低く、頭の芯が痺れるような甘美な声…。
その声にアリシアの思考は一気に覚醒した。それと同時に全身が緊張と恐怖で硬直する。
「起きたな?」
もう一度頭の上から降る確認の声に、アリシアはせわしなく視線を彷徨わせた。頭の中では「どうしよう」がぐるぐる回る。
(ああ。神様! これは何かの間違いだと言って下さい)
顔の横にある黒い色は悪魔の着ている服だ。そう、アリシアは地面に座り込んだ状態で悪魔に抱きとめられているのだ。
ああ。夢であって欲しい。いや、夢だ。間違いない。次に目を開けたときにはきっといない。そう、いない…いないんだ……。
目を閉じ、呪詛にもなりそうな勢いで全てを否定する。
内心泣いてしまいたい気持ちでいると、ふわりと髪を撫でられた。
「起きているのだろう」
寝たふりを続ける――というより、半分現実逃避した――アリシアに、悪魔は確信を持って告げる。
(確実にばれているわ…)
このまま全てが過ぎ去るのを待つには少々無理がある。そんなことはもちろん気がついているが、それでも目を開けた後が怖かった。
目を閉じたまま頑張っているアリシアの頬にふわりと暖かい手が触れた。
その普段なら当たり前の感触に彼女は目をぱちりと開けた。
「え?」
思わず声を発し、頬に触れている手に自らの手を重ねた。
信じられないものを見るようにゆっくりとその手を持ち上げ、上体を起こした。
触れられる…いや、そんなことよりも。
(なにこの暖かさは! この質量は!!)
悪魔や天使と呼ばれるものは人間と違うもので構成されているが、その質量と性質は空気と同じである。
よって、天使や悪魔に触れることはできないし、触れたとしても空気よりも暖かいわけがない。
考えられることはただ一つ。
アリシアの思考はここで一時停止した。
手を掴んだまま動かなくなった彼女に、悪魔は現実を突きつける。
「そうだ。人間を取り込んでいる」
その言葉と同時にアリシアは弾かれたように立ち上がった。
「ちょっと待ちなさい! 殺せって、私に人を殺めろと言っているの!?」
嫌悪と怒りが怒声となって悪魔に発せられる。
しかし、当の悪魔は無表情にアリシアを見上げる。
「人を殺せとは言っていない」
「そう…だけど」
悪魔の答えに彼女は言葉に詰まった。
(なに? この悪魔)
それが今の彼女の正直な感想だった。
彼らに死はない。
いや、正確に言えばあるのだが、人に訪れる死とは全く違う。
ゆえにこの悪魔の告げた「殺せ」とは、封じるために使われたはずの人間を殺すこと。そう考えるのが普通だ。
しかし、この悪魔の告げる「殺せ」は、どうも感じが違う。
「どちらにしても時間がない」
「時間?」
悪魔はアリシアから視線を外し、真横に視線を移した。
その視線の先にある闇を見てアリシアははっとした。
真っ黒に塗り潰された闇がまるで壁のようにそこにあった。月が雲から顔を出して作った影などでは決してない。
「…界壁」
それは崩れた世界にできた新たな境界だ。
国の境目などという可愛らしいものではない。不特定に現れる世界の境目だ。いや、亀裂といったほうが正しいか。
「早く殺せ。それだけが目的だ」
横柄なその物言いに少なからず眉を寄せたアリシアだが、悪魔が急ぐ理由がわからない。
しかし、それよりも重要なことがあった。
「私にあなたを殺すことはできないわ。できても祓うことくらいだけど、それだって今の私には、でき…な…い…」
最後まで言う前に悪魔と目が合い、ふと自分の体の変化に気づく。
意識を手放す前に聞こえていたあの絶叫が聞こえない。聞こえないどころか体がいやに軽くなっている。先ほどまで悪魔に抱きとめられていたのに、あの内側から掻きむしられるような痛みもない。
あの耐え難い激痛を思い出し、ゆっくりと首の後ろに手を当てる。
「私が滅した」
無言の疑問にあっさりと答える悪魔に、アリシアは戦慄した。
「め、滅したって…」
悪魔を殺すには霊核といわれるものを消し去る必要がある。
しかし、その霊核は人間には認識することはできないもので、法師や神官が行う"悪魔祓い"は彼らの霊核の周りにある力を分散させるだけだ。
だからこそ、「殺す」や「消す」ではなく「祓う」と言う。
だが人間に無理でも悪魔同士ならば霊核を消すことは容易いだろう。それほど驚くべきことではない。
アリシアの戦慄は別のところにあった。
「私の封じていた悪魔は公爵クラスの悪魔よ。そんな簡単に、滅する、なんて…」
いや、とアリシアは言葉に出さずに否定した。
聞こえていた叫びは逃げろと言っていた。それも恐怖で封じているアリシアの体を突き破りかねないほどだった。それほどまでにして逃げなければならないほどの力を持っている悪魔なのだ。今目の前にいるこの悪魔は。
悪魔にはクラスがある。力の強さを表すために人間が勝手に爵位をあてがい、公爵が最高とされている。
しかし――何事にも上には上があるものだ。
「だから貴女を探したのだ」
「皇位を祓うなんて無理よ!! あなた解ってるの? 皇位を祓ったりしたら私がどんな目にあうか…想像するのも嫌よ!!」
皇位。つまり俗称に"王"とついている悪魔である。人前に出ることはほとんどない上に、下級の悪魔から絶対の存在として崇められているものだ。
人間の世界でも同じように、上に立つ力のある人が殺されれば、その下にいる者からの報復が必ずあるものだ。人間からの報復ですら恐ろしいのに、悪魔からの報復などもってのほかだ。
アリシアは全身で拒否を表した。
ある意味当然の結果に、悪魔は一度牽制するように闇を一瞥するとゆっくりと立ち上がった。
「私がいなくなっても貴女に報復するものなどいない。貴女に危険が及ぶとしたら私が殺された後でなく、今この時だ」
(そりゃあそうでしょうとも! 皇位の悪魔を目の前にしている時点で寿命がすでに縮んだわ!)
立ち上がった悪魔を警戒しつつ、アリシアは内心毒づいた。
どうやって逃げるかを思案し始め、果たして逃げることなどできるのかと思う。皇位の悪魔と対峙して無事だった話など聞いたことがない。いや、一人いるか。
「どうしてタラク神父に頼まなかったの?」
彼はアリシアの師である人物だ。弟子の自分よりも確実だと思わなかったのか? 暗に選択を間違えていると責任転嫁してみたが悪魔にはそんなことお構いなしだ。
「そのタラクが貴女でなくては無理だと言っていた」
(お師匠のばかばか! ばか! ばかー!!)
内心絶叫し、手持ちの武器が何も無いことに今さらながら気がつく。
死んだら絶対に真っ先に師匠タラクを呪いに行こうと決め、唇を噛んで悪魔を見つめた。
わずかではあるが、月明かりがあることが唯一の救いだ。
動かない悪魔に向かい、アリシアは深く息を吐き出し、言葉を紡ごうと息を吸いそのまま固まった。
すぐ真横にある真っ黒な壁に異変が生じたためだ。
悪魔もその壁に目をやり、その白い顔に初めて表情を作った。わずかに眉を寄せただけであるが、危機感を十分に伝えるものだった。
「急がないと貴女も向こう側へ行くことになる」
「向こうって…」
壁の向こうへ?
驚いたまま壁を見ると、真っ黒な壁はゆっくりと、目を凝らさなくてはわからないほどの速度で波打ちながら、その範囲を広げている。
それはまるで二人を飲み込む機会を窺っているように見えた。
初めて見るその光景にアリシアはごくりと唾を飲み込んだ。
「恐怖に飲まれるな。喰われるぞ」
アリシアの最大の恐怖の素がそんなことを言う。
この闇に飲み込まれることを懸念しているのか、ただ純粋にアリシアを心配しているのか。感情のない悪魔の発言を理解するのは難しかった。
悪魔の忠告に少しだけ冷静になるとどうしても気になることがあった。
「どうして殺して欲しいの?」
考えてみれば悪魔から殺して欲しいと言われたのは初めての経験だ。
「…生きるためだ」
わずかに間を置き答えた悪魔の声は呟きのようなものだった。
表情は変わっていないため、感情を読むことなどできないが、なぜかとても哀しそうに見えた。
何があったのだろう? そう、思ってしまう自分にアリシアは驚き、ふと選択の余地がないのはこの悪魔のほうではないのかと思った。
生きるためと言った悪魔と、師タラクの言葉でアリシアは「殺せ」の意味と、ある可能性を思いついた。
「もしかしたら、タラク神父に他に何か言われなかった?」
この質問の答えいかんによってアリシアは心を決めようと誓った。
「私の封印になっているのは"空童"だ。と」
その言葉を聞き、思わずため息がもれた。
「そう。やっぱり…。いいわ、あなたを殺してあげる。でも、その後の保障はしないわ。何が起きても私にはなにもできないから」
「それでいい」
ようやく願いを受け入れられた悪魔はやはり無表情のまま頷いた。