まだ明けたばかりの柔らかな空が、汚れた窓から見ることができる。
ベッドに横になったまま、もう朝がきたのかと息を吐きだした。その息が白く、気温が低いことを告げる。
ここは借りた空き家で、人気がないこともあってか、室内の温度は外気と同じくらいだろう。暖かい布団の中から、まだ寝ている頭で思う。
もう一度目を閉じ、ゆっくりと瞼を持ち上げ、腕の中にある黒髪に視線を落とした。そっとその黒髪を撫で、そのまま首に手をやり体温を確認する。
夕べ抱き上げた時には冷えきっていた体は、一晩抱いて寝たおかげか通常の体温に戻っていた。
当てた手に伝わる鼓動に安堵の息がもれる。しかしそれは瞬時に諦めに似たため息へと塗り替えられた。
「さて、どうしよう…」
再び窓に目をやり、昨夜の出来事を振り返る。
最厄との出会い
法師アリシア・ダシュク。彼女はここ数年、旅をして暮らしていた。
別に旅が好きなわけではなく、ただ、一つの場所に長居したくなかったからだ。
その日も一つの村に寝る場所を借り、一日の疲れを癒すべく、決して快適とは言い難いベッドに横になった――その時だ。
「法師様! 法師様! お願いです! 起きて下さい!!」
どんどんと薄い木製のドアがたわむほど叩かれ、彼女はあまりのけたたましさにベッドから跳ね起きた。
「何かありましたか?」
急いでドアを開け尋ねると、ランプを持った初老の男性が立っていた。
「孫が大変なんです! どうか助けて下さいませ!」
顔面蒼白で、ランプを持つ手が震えている。
これは何か大事が起きたのだと察し、マントを手に取ると男性の案内で夜が訪れた村を走った。
ついた先は小さな家で、家の者以外にも隣の夫婦まで心配でやってきていた。
「こちらです。おい! 呼んできたぞ!」
男性は家に入ると呼びかけた。すると、若い女性が目を真っ赤にして転がるようにして部屋から出てきた。
「ああ。法師様! お願いです。息子を助けてください!」
こちらも顔から血の気が引き、髪は乱れ、足元もおぼつかないほど動転している。
「それで、一体どうしたのですか?」
彼女はようやくそれを尋ねた。大変なことがあったのだろうが、何があったのかを知らなくては、手の施しようもない。
「とにかく見てください!」
男性が彼女の手を引っ張り、一つの部屋へと導いた。
部屋にはベッドが一つあり、十歳くらいの子供が横になっている。
近づいて見てみると、かなり苦しそうに息をして、髪は汗でぐっしょりと濡れていた。
「これは…」
かなりの熱があるのは見ただけでもわかる。
彼女は子供の額に手を当ててみるが、やはり熱がかなりある。
「どうですか? 助かるのでしょうか?」
男性が部屋の入り口で彼女に尋ねる。母親らしい、若い女性はその場にへたりこんでただ泣くばかりだ。
彼女は二人を振り返り尋ねた。
「医者は?」
「いません」
「薬は?」
「ありません。私たちにできることといえば、そのくらいしか…」
子供の枕元に水の入った桶がある。どうやら熱を下げるために使ったようだ。
「そうですか。ここから近くの医者まではどのくらいですか?」
「明日の昼くらいです」
彼らに距離という概念はないようだ。
それにしても明日の昼になるまでの距離とは、この村はかなりの僻地と言っていい。
「そんなに……『神の家』に神官様は?」
どんなに僻地といえど必ず"神の家"は存在する。神官は医師としての知識もあるはずだ。
「一人いますが、かなりお歳を召していまして…その…」
初老の男性が口ごもる。
この村に流れてきた法師をわざわざ尋ねた理由もそこにあるようだ。
彼女は一つ頷くとマントを脱ぎ、腕まくりをする。
「では、そこへ行って解熱に使われる"ポーリ"という薬草を分けてもらってください。おそらくそのくらいは置いてあるでしょうから。それと表にいた夫婦に、井戸から水を汲むように言ってください」
彼女はてきぱきと周りに指示を出し、水の桶を部屋の外に置いた。
初老の男性は彼女に言われた通りに、表にいる夫婦に手伝ってくれるよう話し、自らは神の家へと走っていった。
「あの子のお母さんなのね?」
彼女は戸口で呆然と泣く女性に声を掛けた。
するとゆっくり彼女に視線を合わせ、こくりと頷く。
それを受け彼女は微笑むと、女性の髪を撫で涙を拭いた。
「大丈夫よ。あなたの子は助かるわ。もっとしっかり、心を強く持ちなさい。あなたがあの子の母親なのよ。ね? 大丈夫だから」
きっと突然のことで気が動転していたのだろう。彼女の言葉に女性は落ち着きを取り戻し、小さく頷くとしっかりした足取りで我が子の側へと寄り添った。
彼女が今できるだけの処置をしていると、男性が薬草を持って帰ってきた。
薬を処方し、子供に飲ませると熱も下がり、もう大丈夫だという頃には真夜中になっていた。
「ありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいのか…」
初老の男性は涙で声を詰まらせながらお礼を言う。
「お役に立ててよかったです。でも、お孫さんの体力が回復したらちゃんと医者に見せてくださいね。ただの風邪だとは限りませんから」
「ええ。わかりました。このご恩は一生忘れません」
何度も頭を下げお礼をいう男性に彼女は微笑み、少し疲れた足取りで借りた家へと戻る。
疲れたが、あの子も助かったことだし、気分はそんなに悪くはない。
「これで満月が見れたらもっとよかったのに」
周期的に今日は満月。夜中になっていることは間違いないので、普通なら見上げれば見事な銀盤が目に映るはずだ。
しかし、見上げた空は真っ暗だ。
この辺りは雨が多く、いつもどんよりとした雲に覆われている。
彼女がこの村に来たときも、雨が降るでもなく、太陽が覗くでもなく、実に曖昧な空模様だった。
月が見えなければ当然、星も見えない。
真夜中なため村人の気配はなく、家の明かりもない。
借りた部屋は古い空き家で、村の外れにある。そのため、ランプを持って歩いても、どこにあるのかわからなくなりそうだ。
そんな目を凝らすほどの真っ暗闇から突然、声を掛けられた。
「稀代の悪魔祓いだな?」
「ひぁ!」
何もないと信じていた闇の中から声を掛けられ、彼女は悲鳴を上げた。
近づく足音はもちろん、気配も何もしなかった。
いや、そうではない。声の主は、初めからこんな夜の底のような暗闇で、ランプも持たずに立っていたのだ。
驚きのあまり声にならない彼女に、それはもう一度尋ねてきた。
「稀代の悪魔祓いと称される者だな?」
今度は気を落ち着け、ランプを声のするほうへ掲げてみる。
見えたのは白い顔。顔だけがランプに照らされ浮かんでいる。
思わず悲鳴を飲み込み、ランプを取り落とし、その場から数歩後退した。
落とした衝撃でランプの油が地面に撒かれ、それに引火し炎が立ち上る。
明かりが強くなったことで目の前にいる声の主の姿が明らかになった。
黒い髪に、黒い瞳、黒いマントを着た白い顔を持つ人。
周りの闇に溶け込んでいるかのように、体の境界線がはっきりしない。そのため顔だけが浮かんで見えたのだ。
炎に照らされ浮かぶ顔は、息を飲むほどの美しさだった。
その姿を確認した瞬間。彼女の体の中からつんざく様な警鐘が叫ばれる。
――何をしている! 逃げろ! 離れろ! 今すぐだ!!
聞こえるはずのない声が頭を割らんばかりに響き、彼女は顔をしかめた。
しかし、そんな彼女の様子など気に留めることなく、その人は重ねて尋ねてくる。
「セディー・タラクが『愛弟子』と呼ぶ者だな?」
その声は低く、耳に心地よく。全身がざわめくほど甘やかな声だ。
――ダメだ! 逃げろ! にげろ!! ニゲロ――!!!
身の内に響く声は悲鳴を通り越し、断末魔に近かった。
そのことで告げられる事実がある。
「ああ…嘘…まさか…」
対峙したのは夜の真ん中。
距離にしておよそ五歩。
この世に存在する最悪の中の最上級の災厄。
「…悪魔…」
一つ、彼が歩を進める度に、引きつったように彼女が一歩後ろに退く。
地に落としたランプが、ちょうど二人の間に来ると彼はその炎に視線を移した。
炎はまるで慄くように不安定に揺れ、急速に勢いを失くしていく。
その消えかけた炎は彼女の命の結末のようにも見えた。
「貴女がそうなのだろう?」
細く細く、消えかけた火は風に吹かれればそのまま消えそうだ。しかし、彼女もそうだとは限らない。
警鐘の鳴り響いている心を沈め、ゆっくりと息を吸い、腹に力をこめた。そうしないとこの目の前の存在と対峙するなどできなかった。
「ええ。そうよ」
ようやく肯定を口にした。その音が震えていないのはいっそ奇跡だと、どこか冷静な頭で思った。
一方、肯定をもらった悪魔は、はっきりと恐れることなく口にする。
「私を殺して欲しい。今すぐ」
「はあ?」
吐き出した息はそのまま驚愕と、猜疑を音にした。
「私を殺せるのは貴女しかいないと聞いた」
無表情というよりは顔色すらない悪魔の言葉に、思わず「誰が言ったんだ!」と叫びたくなった。が、ふと悪魔の告げてきた名を思い出す。
「タラク神父に会ったのね?」
悪魔は答えず一歩踏み出す。それに同調するかのように、彼女の身の内側から剣が突き刺さるような痛みが生じる。
その痛みに胸の辺りの服を強く握り締め、目を閉じ深く呼吸をした。
その間に悪魔はもう一歩、彼女に近づく。
「"止まれ"」
顔を上げ、悪魔を真正面から見据えると、彼女が紡ぎ出した言葉に悪魔の動きがぴたりと止まる。
それを見て彼女は二歩後退すると、唇を噛んだ。
悪魔は確かに動きを止めたが、それは本当に一瞬だったのだ。これでは逃げることもできない。
「ほう。今の状態でこれだけできれば上等だ」
感心しているのか、わずかなりとも抵抗されたことに気分を害したのか、表情の読めない悪魔の言葉に、視線に、彼女は死を覚悟した。
その場に固まった彼女に、悪魔はゆっくりと近づく。近づく分だけ身の内側の痛みはひどくなる。まるで、体の中を鉤爪で掻きむしられているような激しい痛みに、彼女はついにその場に膝をついた。
息が苦しく、浅く短い呼吸を繰り返す。
「貴女は今、悪魔を祓えない状態だと聞いた」
地を這うランプの炎はすでに消えかけ、青い炎を揺らし、かろうじて明かりを放っていたが、その明かりが完全に彼女の視界から消えた。
いや、ただそう思えたのだ。
悪魔の黒衣が目の前を覆おう。
「だったら、諦めて!」
痛みのせいで彼女は叫ぶと、胸を強く抑え地面に座り込んだ。
もうこれ以上は耐えられない。これ以上悪魔が近づけば間違いなく体の内側から食いちぎられる。
そんな絶望と混乱と焦燥がないまぜの彼女を、悪魔は容赦なく顎に手をかけ上向かせた。
「ソレを滅したら貴女は私を殺せるな?」
視線を合わせるように持ち上げられた視界に、黒い瞳がどうしてかはっきりと確認できた。
「…滅するって……」
もう、言葉の意味を理解する思考はどこかへ飛んでいってしまっている。熱と痛みでもう訳がわからない。
最後に何か言っていたが、それを認識する前に首の後ろ、頚椎の辺りに激痛が走った。
「ああぁぁぁっ!!!!!」
奈落のような夜の闇に、彼女の絶叫が響き渡る。
頚椎から侵入したそれは皮膚を焼くように冷たく、心臓を鷲掴み、そこからどろりとしたヘドロを引き剥がす。
――ヤメロ! ヤメテクレ!! イヤダ! イヤダァァァ――!!
許しを請うように叫ばれる声は、ヘドロと一緒に彼女の中から吐き出された。
耳鳴りが響き、視界も暗く、彼女は闇の腕の中へと落ちた。