気が付くと真っ暗な世界にいた。
(地下。か)
真っ暗な世界ではあるが、バロックには隅まで見通せた。こういう能力は人間の器を得ても備わっているようだ。
周りの空気には流れがなく、永く外との繋がりがないことを感じさせ、音が全くしないことでどうやら地上ではなく、地面の下であるということがわかる。
見渡してみればどうやら人工的に作られたものらしく、天井は丸く窪んだ形をしている。
さて、どうしてこんなところに移動したのか。
とりあえず手を握りこんでみると感覚はある。ということはどうやら実体ごと移動してきたようだ。こんな事ができるものは限られている。十中八九間違いない、あの声が原因だ。
(今の私には無理か)
戻ることも考えたが、悪魔であったときのように自在に力が使えるわけではない。人間の器がかなり邪魔をする。こういう時は面倒だなと思うが、どうにもならないことに力を使うのも馬鹿らしい。
とりあえず立ち上がり出口を探してみる。
人間が作った場所ならば、当然出入り口があるはずだ。
――出口はない。
一歩、踏み出すとまたあの声が頭に響く。
「お前は誰だ」
この空間にはいない。それは見ればわかる。
――貴方こそ何? 人ではないようだけれど。
初めの声と違い、どこか緊張の色が含まれているような気がする。
「なるほど、"天使の塵"か」
アリシアの説明とは違うが、おそらくそうだろう。
となれば見つけるのは簡単だ。
「ちょうどいい。お前に聞きたい事がある」
意識を闇に移し、殻を捨てる。どさりと後ろで音がして一気に視界が別の物に切り替わる。
「まさか、こんなところで会うなんて」
頭に響いていた声が空気を通して聞こえ、目の前に今まで見えていなかったものが見えるようになる。やはり人間の器が邪魔していたか。
現れたのは床一面に金髪を広げた生き物だ。よくもまあ、ここまで伸びたものだと思うほどの長さがある。
周りに集まる光の粒と金の波は神々しいと表現してもいいだろう。人間には天使と呼ばれている部類の生き物だ。
人の器を捨てたことでこちらを認識したらしく、かなり警戒しているようだ。
「安心しろ。お前と戦う力などない」
事実、今のバロックは体の成長に、わずかにある力がほぼ全てつぎ込まれている状態でアリシアのように戦うことなどできはしない。そのこともどうやらアリシアは知っている様子だが、それを指摘してこないのは関わりたくないからか。
「それは私も同じです」
目を伏せた天使の腰から下は地面に埋まっている。埋まっているといっても穴を掘って埋めたのではない。見る限り封印というよりは呪縛のようだ。霊核を縛られているわけではないようだが、この程度を切れないということはあまり階級の高くない天使のようだと認識する。
バロックの冷めた視線に気が付いたのか、天使はきっと視線を上げて睨んでくる。しかし、そこはかとなく怯えたように見えるのは錯覚ではないだろう。
「そうか。お前は私を知っているわけだな」
「………」
沈黙という肯定にバロックはその天使を観察した。
長い金髪に白い肌。青い瞳。人間が想像する天使そのままの姿だ。年齢、性別は不詳であるが、アリシアと似た雰囲気がある。
しかし、バロックにその天使に覚えはない。
「六使徒とはなんだ?」
この天使のことなどうでもよく、バロックは知りたい質問をぶつけた。その唐突な質問に天使はバロックを凝視するが答えは返ってこない。言いたくないのか、知らないのか。
「使徒と呼ばれているのであれば、お前たちの仲間だということか?」
「まさか」
馬鹿にしたように吐き出された声には侮蔑の色がある。どうやら知っているらしい。
「あれらは人間。私たちと一緒にするなど、汚らわしい!」
「ほう」
どうやらかなり嫌われているようだ。
天使にも悪魔にも嫌われている存在がどうやら「六使徒」であるらしい。
一度アリシアが対峙したあの悪魔も酷く激怒していた。
あの悪魔は「裏切り者」と言っていたか。まあ、それはおそらくアリシアが禍因であることが原因だろう。
それとは別に「六使徒」とは彼らの禁忌に触れる何かがある。
「貴方はどうしてそのようなモノに」
天使の声に思考を戻すと、天使の視線は後ろに転がっているだろう人間の器にいっていた。親の敵を見つけたように睨む姿に、どうやらこの天使は人間が嫌いらしいとわかる。
天使を呪縛しているこの力は間違いなく人間が施したものだろう。それに掛かり、なおかつ断ち切ることも出来ないでいる。捕らえた人間への負の感情か、あるいは自分の力の無さへの自尊心か。なんにせよその負の要素がこの天使をここに深く繋ぎとめている原因でもあるのだが、どうやらそれには気が付いていないようだ。
「無様だな」
つまりは抜け出せるだけの力がない自身が悪いのだろうに。
「人間の器に入ってまで生きながらえている貴方に言われる筋合いはない!」
どうやらこちらの物言いが勘にさわったようで、怒声を張り上げる。その瞬間に物音が聞こえた。おそらく人間の悲鳴だろう。どうやら今のでどこかに影響があったようだ。
「私は自分で選んだ。一緒にするな」
どうやらこの天使からは有益な情報は聞けないようだ。無駄な力を使ったと意識を人間の器に移そうとしたとき、後ろで天使がなにやら叫んだ。
「貴方は、あの方が封じられたのを知っているのか!!」
あの方。天使がそう呼ぶ対象は一つ。
思わず口元が緩む。横目で笑ってやると天使は口を半開きにしたまま固まっていた。
「この私が知らないと思っているのか?」
本当にどこまでも馬鹿な天使だ。
「お前は私を知っているようだな。ならばあえて教えてやるまでもないと思うが、そんなに知りたいのか?」
ゆっくりと振り返り、一歩踏み出す。
それ以上後ろへなど行けはしないが、天使は後ろへ体を傾ける。
呆然とした表情は恐怖よりも、目の前で放たれる壮絶なまでの魅力に魅入られている。思考はもはやどこにもないように、だらしなく口をぽかんと開け、ただただ、迫りくる美貌を見つめていることしか出来ない。その姿にくつりと笑い、少しだけ気配を殺す。
「その前に一つだけ教えてやろう」
「な、に」
触れるほど近くにきた悪魔に、天使はようやっと声を出す。
「他の天使がお前を助けに来ないのはな、お前は使えないと判断されたからだ。せいぜい、人間のために力を使うんだな」
嘲笑と侮蔑、哀れみ。その全てに天使は反発を示す。
「嘘だ!! みんなは私を見つけられないだけだ! ここにいるとわかれば迎えに来てくれる!!」
「ここは意外に固い守りだ。お前を封じたのはかなりの実力者だ」
森の手前であったあの人間から同じ力を感じた。つまりはあれがこの封印を作った人間の末裔だろう。
こちらの言葉に天使はざっと色を失くす。どうやらあたりだ。
「さて、どうしたものかな。この封印を切るくらいならできるが。お前は私の質問に答えたくないようだが?」
固まった天使の耳元で囁く悪魔の声はどこか楽しそうである。
「お願い! 私をここから出して!!」
すがりつく天使に満足した様子で微笑を浮かべると、天使のふっくらとした白い頬を撫で、顎を上げさせると青い瞳を真正面から覗きこむ。
「では、答えろ。六使徒とはなんだ」
ゆっくりと促す声に、それでも天使は一度目を閉じてどうするかを迷ったようだった。
「答えろ」
甘く甘く、耳朶を噛むほどに近くで囁かれた声に、天使はぴくりと睫毛を揺らし、声を絞り出し答えた。
「………六使徒は、特定の人間を指した名称だ」
「それは?」
「…っ。それは、聖帝の、後ろ盾になった人間たちで」
「"バロック"」
「!」
響くように名を呼ばれ、はっと気が付けば目の前にアリシアの顔がある。
「…アリシア?」
「よかった。戻ってきましたね」
数度瞬くことでどうやら人間の器に戻ったことがわかる。
「どうしてこんなところにいるんです」
起き上がってみればそこはあの闇の中で見た場所だ。ランプによる火で明るくなっている。みれば近くに数人の男が倒れていた。
「何があった?」
「バロックを中心に闇が集まったのです。おそらく、それにあてられて倒れたのでしょう。聖都の神父が聞いて呆れますが」
違う空間でのことだったが、どうやらこちら側にも影響が出たようだ。
「法師」
「あ。すみません。もう大丈夫です」
いつの間にか出来ている出入り口からひょっこり覗き込んだ顔に見覚えがある。
「彼らを運び出してもらえますか? 多分、上へ運べば回復しますから」
「わかった」
アリシアの声に頷くとすぐにいなくなった。その姿を見送りながら、立ち上がるとアリシアも立ち上がりながら首をかしげた。
「それで? バロックはなぜここに?」
「呼ばれた」
「誰に?」
「同じものに」
端的な説明にきょとんとしたが、みるみるその顔が険しくなっていく。どうやら何があったのか理解したようだ。もしかしたら、"天使の塵"が何かもわかったのかもしれない。
「バロックは大丈夫ですか?」
「ああ」
――ここから出して!!
まだ封印が切れたままならしく声が聞こえる。
こちらよりもあちらのほうが大変だろうが。それは言う必要はない。
結局何も聞いてないのと同じだ。
しかし、収穫らしきものはあったように思える。
聖都の設立。聖帝とは何か。
手を引かれて歩くとすぐに神殿の外だ。そこで地下に顔を出した男がアリシアに視線をやり、それにアリシアは頷きを返しそのまま歩き出す。
「封じないのか?」
「私の仕事はこれで終わりです」
なるほど。会話を思い返せば不測の事態で呼ばれたのだろう。
「アリシア」
「はい?」
「天使と悪魔の違いはなんだ?」
「どうしました?」
人間はどう区別しているのかふと気になったのだ。
見上げる先にある優しげな顔はやはり天使に似ていると思う。
じっと答えを待つと、アリシアは少し考えるように歩調をゆっくりなものにした。
「一般の定義でいえば、天使は善なるもので、悪魔は悪しきものです」
それは知っているし、あながち間違いではない。
アリシアも結局は『神の家』の考えと同じであるということか。
隣の歩調に合わせ歩いていたのだが、つんと腕を引かれた。いつの間にか止まっていたアリシアがそれにはっと視線を上げた。
「ああ、すみません」
微笑んでまた歩き出す。どうやら何か別のことを考えていたようだ。
「バロックは善人と悪人の違いがわかりますか?」
同じような質問を返されたことに減滅する。
「どちらにより比重があるかだ」
人間は完全な善でも悪でもない。どちらになるかは、その要素がどちらにより多くを占めるかによる。
「天使と悪魔も同じです。バロックは闇を集めると言いましたね。だから悪魔とされていますが、実際は少し違います」
話し出した言葉には答えず先を促す。
「天使も悪魔も同じものでできています。善人も悪人も同じものでできています。でも、善悪の線引きは必ずされるものなのです。それはきっと自分を知るためにも必要なのでしょうが」
「人は無知か」
「ええ。そうです」
アリシアはこちらの答えに満足そうに微笑んだ。
知ったからといってそれが全てではない。昨日善人だった人間が、明日人を殺さないとは限らない。
「善人と悪人を分けるのは、所詮人間です」
繋いでいた手が離れると頭をそっと撫でられる。
「ねえ、バロック。天使と悪魔を分けているのも所詮は人間ですよ」
にっこりと笑顔で言われたが、それは仮面のようにも見える。
「アリシア」
「はい?」
「アリシアはいい人間だ」
「そう、ですか?」
驚いたのか、呆然としたまま聞いてくるのに、一つ頷く。
そのまま歩いていると、ふとアリシアがまた一つ頭を撫でてきた。それに見上げるとにっこり微笑まれる。
「バロックもいい子ですよ」
「いい子、か」
「はい。もちろん」
今度は満面の笑みが浮かんだ。それは仮面のようなものではなく、心からの笑みだ。
「いいことにする」
落とした息に乗せて言葉にするとアリシアは小さく首をかしげて「ん?」と呟いた。