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 外観からも察せられたように、この『神の家』はかなりの規模があるようだ。
 コツコツと階段を上りつつ周りの様子を見たが、どうやらそれほど手は加えていないようだった。
「驚かれたでしょう?」
 案内をしてくれている青年ジョルジュが少し振り向き告げた。閉鎖的な町ではあるが、どうやら他の『神の家』の様子を知っているようだ。
「ええ。ですが、他の用途に使われているところは何度か見た事がありますから」
 『神の家』があるところだからといって絶対に安全ではない。
 侵食はいつ起きてもおかしくなく、侵食から解放されてもそこにまた『神の家』から神官が派遣されるとは限らない。多くの廃墟からの復活した町での『神の家』は、図書館やここと同じように別の人間が住んでいることがある。
「法師様は旅をなさっているのですか」
「はい」
「どのくらい?」
「さあ、もう何年にもなります」
「あ、ここです」
 上がりきった階段から廊下を三歩ほどあるいたところの扉を前に振り返る。
「でも聖都で法師になられたのでしょう?」
「ええ、もちろんです」
 扉を開けるとわりと広い部屋だ。
「ジョルジュさんは聖都に行かれた事があるのですか?」
「え? いいえ…すみません、質問ばかりで」
「気になさらないで下さい」
 ジョルジュは少し慌てたように少し頭を下げた。
「おばあさまが行ったことがあるようで、よく話を聞くんです。残念ながら僕はないですけど、一度行ってみたくて」
「そうですか。大きな町ですよ」
「そうですよね。世界の中心ですから」
 そんな会話を終え、次は買い物へ行くジョルジュが「ゆっくりしてください」と声をかけて出て行った。
 おそらく今頃はあの元気な老婆が一人で買い物へ出てしまったに違いない。孫である彼もそれを察しているのだろう。階段を勢いよく下りていく音がする。
「元気でなによりね」
 もう一度改めて部屋の中を見渡して、窓の下にある机の上に視線を移した。そこには旅に出てからはあまり目にすることのなくなったものが置かれていた。
「久しぶりに見るわ」
 荷物を置き、そっと指先で触れるそれは少し厚めで、表は革表紙。黒に見えるが濃紺色。題字は金。中身を確認するまでもなく、全てを暗記できているそれ。
「人の作り上げた虚像だ」
 ベッドの上に陣取ったバロックの言葉に苦笑が洩れる。
「少なくとも、これで救われている人もいることは事実です。バロック、とりあえずマントは脱ぎましょうね」
 マントも脱がずにベッドの上に座るバロックを立たせ、被る仕様のマントを脱がせる。大人しくされるがままになっているバロックではあるが、おそらくこのくらいは一人でできるはずだ。というか、学習した結果がアリシアに脱がせるだとしたらまずいな。
 そんな事を考えつつ、脱がせたマントからさらりと零れ落ちる黒髪に目を留める。
 いつ見ても実に綺麗だ。
 昼間はいつもマントの中にしまうので、じっくり堪能することができない。
「少し、伸びましたかね」
 一房摘まんでみると膝丈くらいだった髪が少し長くなった気がする。
「少し切りますか? もったいないですが」
 綺麗な黒髪はアリシアのお気に入りだ。
 しかし、アリシアがそう思っているということは、他人が見ても綺麗なのだ。見るからにさらさらとした手触りのよさそうな…言い換えるならとてもよい毛並み。
「切ってもいいのか?」
 飽くことなく弄べる自信があるなどと考えていると、とうの持ち主がそんな事を聞いてきた。
「はい。切らないと地面についてしまいますよ?」
 そのくらい考えなくても……と思い、ああと思い直す。
 そうなのだ。この美少女に見える美少年。元は悪魔で人間に起きる「成長」を知らない。
「そういえば、バロック。封印が切れたのはいつのことですか。できれば人間の年数で答えていただきたいのですが…わかりますか?」
 封印の元になる"空童"の多くは生まれる前の胎児である。どの時期の胎児かと聞かれるとなんともいえないが、生まれた赤子よりも倫理に反しないのだろう。
 封印が切れるとその胎児が育つのだが、その成長には悪魔ないし天使の力が使われる。どんなものかもわからない、実に曖昧な"力"であるが、詳しいことを知っている人間がすでに存在しないのでどうにも曖昧なまま行われているのだが、おそらく彼らを形作っている元素が消費されているはずだ。
 バロックはアリシアの質問にしばらくじっと床板を見つめていた。
「詳しくはわからない。ただ、「聖都」という言葉を聞き始める前だ」
 それはつまり、聖都ができる前ということか。
 アリシアはそれを聞いて顎に手をやった。
「聖都が成る前くらいなら、少なくとも五年は経っているね」
 バロックの見た目は十歳前後。
「それを聞いたのは封印が切れて、おそらく十年だ」
「は?」
 いやに正確に答えが帰ってきて、アリシアは目を瞬いた。止まった手に気がついたバロックが振り返り、その黒い瞳とぶつかる。
「封印が切れて、十年経って「聖都」と聞いたの?」
「ああ。それが五年前だ」
 またしても明確な答えがやってきた。
 つまり、なにか?
「バロック君は、十五歳なのね」
 いや、人間生まれて零歳から始まることを考えると、十四歳か?いやいや、封印が切れた直後は胎児なのだから十三歳なはずだ。と、とにかくどうでもいいことを考えて、ようやく根本的な問題に戻る。
「その間、食べ物は?」
 その問いには首を横に振って答える。
「えっと、睡眠は?」
 これにも首を横に振る。
 その様子をじっと見つめたあと、盛大なため息が落ちた。
「どうした?」
「いいえ。なんでもありません」
 よく生きていたなと思うと同時に、今までに聞いていた"空童"を使った悪魔の消滅までの時間を大幅に更新している。
「いや。皇位だから」
 自分で納得するために言葉にしてみたが、それでも頭の片隅で「ありえない」が回ってる。
 通常は封印が切れて三年、つまり人として本格的な活動ができる前に消滅するとされている。バロックが目の前に現れた時の姿は成人男性だったが、それは悪魔である要素が強かったからだろうと推測できた。実際にそうしたものを見た事があるし、不思議でもなかったのだが…。
 まさか、そんなに時間がたっていたとは思わなかった。五年ならありえるが、十五年は長すぎるだろう。公爵でも五年あれば消滅する。皇位というものがいかに格が違うかをまざまざと思い知らされた気分だ。
「アリシアは切っているのか」
 突然の話題変換に一瞬だけ何のことかと思ったが、直前の会話を思い出して頷いた。
「ええ、切ってますよ。私の髪も本当はもっと長かったんですけどね」
 バロックに会うちょっと前に切られたのだ。
 先っちょをちょっと摘まんでみる。薄い茶色の髪はどこにでもある色で珍しくもなんともない。少しぱさついているのは長旅と、栄養状況によるものだ。
「五年の蓄積には逆らえませんね」
 なんとなく憂えてしまうのは女性である性質であるのだろうか。いや、対照が目の前の極上の黒髪なのだから劣って見えて当然だ。
 まあなんにせよ、ここで少し休養しておくに越した事はない。
「気になることもありますが、『神の家』の心配はしなくていいわけですし、ゆっくりしましょうか」
 もう一度、バロックの髪を撫でてマントを椅子の背にかけた。
 
 
 しばらくは部屋で寛いでいたのだが、なにやら下で騒がしい気配がして階下へ降りてみた。
 するとそこにはこの町の町長とその孫の微笑ましい言い争いが始まっていた。
「お帰りなさい。何か手伝いましょうか?」
「あら、ただいま帰りました」
「ああ。法師様、ありがとうございます。早速ですがお手伝いしてもらえますか」
「ジョルジュ。お客様に手伝わせるなんて」
「いいえ、何もしないのも心苦しいですから。手伝わせてください。バロック、メレシーナさんに遊んでもらってね」
 言い争いといっても立派なケンカに成立させるには、孫のジョルジュがもう少し強くならねばならないだろう。
 今もアリシアが割って入らなければ押し通され、老婆が食事の用意に台所へ立っていたに違いないのだ。
 少し文句を言ったが諦めたらしくバロックに向き直る。
 じっと見上げてくる黒い瞳に老婆はにっこりと微笑みかけた。
「しかたないわね、私と遊んでくれるかしら?」
 老婆が手を差し出すとそれをじっと見つめていたバロックだったが、アリシアに視線をやると頷かれ、その手を取って老婆に引かれていった。
 
「バロック君は何が好きかしら?」
 食堂と反対側にある扉への中に入ると、そこは子供部屋であるようだった。絵本にぬいぐるみ、積み木に木馬。壁には何かの大文字が貼り付けてあり、天井からいくつもの星がぶら下がっている。
「ジョルジュが昔使っていたものばかりなのよ」
 床に腰を下ろしながらそういうと、手近にあった積み木を一つ持ち上げて積み上げて見せる。
「バロック君はいくつ?」
「知らない」
 即答に老婆は少し首をかしげて質問を変えた。
「法師様とはずっと一緒?」
「今は」
「そう」
「貴女は?」
「私? 私も今はずっとここよ」
 バロックの質問に老婆は驚いた様子だったがふわりと微笑んだ。
「ジョルジュは?」
「ジョルジュは生まれてからずっとここにいるわ。でも、あの子もそろそろここを出たいのかしらね」
 最後の呟きはバロックにではないのだろう。どこか寂しそうに積み木をもう一つ積み上げた。
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