セルビー家の前で、無心で聖言を唱えていた神父がその怒声にびくりと肩を震わせ、空を見上げた。
そこにある界壁の向こう側に何かがいる。姿は見えないが本能がそれを伝えた。そしてそこにいる存在など一つしかない。
「な、な、ああ、悪…魔…」
喉の奥から搾り出すような声に、アリシアが今気がついたというように「忘れてた」と呟いた。
動けない神父の背を押し、セルビー家の玄関扉まで一気に押しやるとその背に手を置き呟いた。
「この愚かなる僕に、汝の祝福と、静かなる眠りを」
「だ…」
アリシアが言葉を紡ぐと同時に糸が切れたようにその場にずるずると倒れた。
「セムレスさん。この人の側に」
倒れた神父を指差して促すアリシアに、セムレスは青い顔で頷き従った。
「さて、バロック」
アリシアは前に立つ少年を見下ろした。
「一つ、約束をもらえますか?」
「なんだ」
「手を出さないで欲しいのです」
膝を折ってバロックを見下ろすアリシアは、面白そうな声音ではあるがその瞳は真剣だった。
「さっき、セムレスを呼んだでしょう。あれだけでも危険です。あなたは今脆弱くなる人間なんですよ? これ以上の干渉は避けてください」
そこまで言うとすっと姿勢を正した。
「それに、あなたはまだ子供です」
現在のバロックは悪魔としての絶対的な力はないが、アリシアと同じような干渉する力は持っている。しかし、バロックはそれに耐えられるだけの体を持っていない。バロックの持つ気配は悪魔に当然のごとく近い。その状態で悪魔に見つかればどうなるか、バロック自身がよく知っていた。
「わかった」
「ありがとう」
言うと自分のマントを脱いでバロックに着せ、フードもしっかり被せる。アリシアをすっぽり覆うマントだ。バロックが身につけると随分とあまる。
「体があるので大丈夫だとは思いますが、念のためです」
「祓うのか?」
「ええ」
バロックの質問にアリシアはセムレスを見た。
「自分の口からはっきり破棄を告げたのですから、少なくともこちらに残れる可能性はあります。できれば彼の近くにいてあげてください」
あとはセムレス自身の問題だ。
「さて…では始めましょうか」
暗い空を見上げ、そこに伸びる黒く塗り潰した裂け目を見やる。先ほどまでは真っ黒の柱のように見えていたそれも、拡大を続け今では空を切り取ったかのような四角い壁がそびえ立っている。
界を隔てる壁。それは出口のない入り口である。
その向こうは彼ら悪魔が棲む世界。
一点の光もない世界。
その黒い壁を恐れもなく見上げるアリシアに、壁の中から声が降る。
「たかが法師風情が我を祓うというか。面白い、やってみるがよい」
空から聞こえる声は町中に反響し、嘲笑うように木霊した。
アリシアはいつもしているペンダントを外し、目を閉じて深く息をしてからそれを地面に落とし、言葉を紡ぐ。
「我は汝の罪禍の末裔」
するりと手の平から滑り出たそれが、アリシアの言葉に反応し淡く輝く。地面に落ちた瞬間、その光は波紋のように広がった。
緩く、風を運ぶように。
柔らかに、暖かさを伝えるように。
「汝の穢れを背負う者なり」
ゆっくり開かれた瞳は真直ぐ界壁へと向かい、その中にいるモノを見る。
闇の中、見えるはずのない悪魔の実体がその向こうにある。そして見えないそれをアリシアは真直ぐに見抜いた。それを感じ取ったのは他でもない、見抜かれた悪魔自身だ。
対立する『神の家』の中でも、下位である法師に見抜かれたことで悪魔は気分を害したようだ。
「貴様…」
何か言おうとして悪魔がその先の言葉を飲み込んだ。
先ほどから光の素がアリシアの周りに集まり出した。それ自体はおかしなことではない。倒れている神父にもそれは可能だし、それができなければ法師や神父など務まらない。
しかし、聖言もなく、吸い寄せられているように集まる光の粒。
気がつけば悪魔の視界に、界壁からあふれ出す闇が急速に界壁の中へと押しやられるのが見てとれた。それはアリシアの周りに集まった光の素が界壁を逆に浸食し始めた証拠だ。
「こんなことが」
あるはずがない。たかが人間風情が界壁を、悪魔の吐き出す闇を、侵食するなどありえない。こんなことができるのは天使か、それと同等のものだけである。
そこまで考え、悪魔はある一つの可能性に思い至った。
「……まさか…お前は…」
先ほどまであった余裕が徐々になくなっていく。
ありえないその光景に、さしもの悪魔も膨れ上がる光の中心を凝視した。
光はアリシアが呼吸をする度に膨れあがる。その光景は、まるでアリシアが光の素を吐き出しているかのように見え…。
「…禍因…」
悪魔が呆然と呟いた。
瞬間。
耳をつんざく高音が空気を裂き、同時に界壁が大きく割れ、そこからどす黒い緑色をした塊が這い出た。
「貴様っ! 六使徒!! この、裏切り者め!!」
体が痺れるほどの怒号が響き、辺り一面に臭気が立ち込める。生臭く、湿り気があり、吸い込めば肺の中が腐るような感覚に襲われる。しかしそれも一瞬だ。アリシアの集めた光が全てを片端から浄化していく。
徐々に細くなる界壁から這い出た悪魔は、真直ぐアリシアに手を伸ばした。いや、それは口のようだった。
立ったままのアリシアが、大きく開けたその闇に飲まれ、完全に覆われた。
アリシアを飲み込んだ、目の前の巨大な闇の固まりにセムレスが引きつった悲鳴をあげ、バロックがマントをしっかりと掻き寄せたのは同時だ。
「"伏(ふく)せ"」
「!!」
闇の中から命じる声に、地面という地面に闇が広がる。
それはまるで水を撒いたように、アリシアの膝より下に堆積し流れた。流れた闇は浄化されることから逃れるように、ずるずると界壁に戻る。途中迷うようにバロックの足元へ行った闇は待ち受ける光に浄化された。
地面にへばりつく形で、まだ微かに闇を纏った悪魔が、驚愕した様子でアリシアを見上げる。
「安心しなさい。私はあなたを祓うだけ」
にっこりと母親のように微笑んだその表情に、悪魔はセムレスを振り返った。
「契約の破棄の代償は貴様の命だ! 我は必ずお前の前に現れようぞ!」
「…ひっ!」
「"去れ"」
アリシアの声を最後に、悪魔は光に囲まれ消えた。
バロックの目には、残された霊核がわずかに残った界壁の中へ向かうのを捕らえていた。
完全に界壁が消失したのを確認すると、アリシアは安堵の息を吐き出した。
「ふう。終わりましたよ」
アリシアがセムレスに笑顔で告げ、地面に落ちたペンダントを拾い上げていつものように首に下げると光素が徐々に消えていく。その様子を窺いながらバロックがマントのフードを払い、息を一つ吐き出した。
「大丈夫ですか?」
屈んでセムレスとバロックに尋ねると、バロックは少し青い顔をして頷いた。
「法師殿…ハッシュとマリーベルは…?」
真っ青を通り越して真っ白な顔をしたセムレスが、先ほどまで悪魔がいた場所を凝視したままアリシアに聞く。
「ああ言っていたという事は、契約は実行されていないということでしょうね」
とぼけたような口調のアリシアに、セムレスは弾けるように立ち上がり、倒れた神父をどけセルビー家のドアを開け叫んだ。
「ハッシュ!! マリーベル!! どこだ! 無事か!?」
玄関からすぐの談話室に入るとそこに子供たちが固まって倒れていた。その光景に絶望的な表情でセムレスがへたり込むと、その肩に柔らかな手が置かれた。
「法師…ハッシュとマリーは…」
「俺はここだ」
振り返るとそこにハッシュと泣いているマリーベルの姿があった。
「セム…ありがとう。ごめんなさい」
「マリー…。ハッシュ、すまない。……すまないっ…」
二人抱き合ってそのまま泣き始めた姿を、ハッシュは優しい目で見つめていた。
「ご無事のようですね」
後ろからかかった声に振り返ると何もなかったような顔で法師が立っていた。
「ああ。あんたのおかげだ、法師」
ハッシュが家に着いたとき、ちょうど家の真上に界壁が現れ始めた。慌てて中に入ると、しかしそこはまったくいつもと変わらず。駆け込んできたハッシュに逆にマリーベルが驚いたように目を瞬いた。
その後、外で起きている音にハッシュが説明しているあいだに、徐々に家の中に闇が侵入してきた。ハッシュは子供たちを集め、自分ではどうにもならない力に祈りを捧げていると不意に闇が祓われた。
その光景をしばらく呆然と見ていたマリーベルが、アリシアの張った結界のことを思い出したように話し、謎が解けた。
「法師はどこまで知ってた?」
「推測と予知は違います」
クラクベルタ家へ行く前の言葉とあまり変わらないその言葉に、ハッシュはそれ以上聞くのを諦めた。
静かだった町に人の声が戻ってくる頃、空から不自然な闇は消え、太陽の光でオレンジ色に染まる雲が、濃さを増した空を彩っていた。