クラクベルタの屋敷を出ると、空は闇を纏っていた。
夜が来たわけではない。まだ昼前の時間であるはずだ。
「急いだほうがいいわね」
アリシアは呟き走り出した。
行き先はセルビー家。
「人間は愚かだ」
全速力に同じ速度でついてくるバロックの言葉に、アリシアは答えなかった。
人間は愚かだ。悪魔は必ず人をそう称する。
考えの回らない、浅はかでなんとも幼稚な生き物だ。
教養を身につけていても、地位を持っていても、根本的なことを見ない、知ろうとしない愚かな生き物…。
「愚かなのではなく、無知なのよ」
知らずこぼれた声にアリシアは唇を噛んだ。
ごく小さな声だったが、バロックには聞こえていた。
「どう違う?」
「…さあ、どうでしょうね…」
返った声は面白がるいつもの声と違い、どこか苛立たしさが紛れていた。
真直ぐ前だけを見て走るアリシアの横顔を盗み見るが、苛立った様子はどこにもない。
いつもと変わらないその様子に、もしかしたら、尋ねる声があることを忘れていた呟きで、尋ねた自分への苛立ちだったのかと考える。
(無知か)
人間は、悪魔などと違い、一人で生きていない。
その存在はそもそも二人の人間によって作られたものである。
生まれてくるときですら、母という人間に全てを預けて生まれてくるのに、外に出て外を知ると一人だと勝手に思う。
そして誰も自分には必要ないと勘違いし、他人を排し、そして自分を見失う。
走り抜ける町中は突然訪れた闇に混乱と恐怖をもたらしていた。
「『神の家』へ逃げるんだ!」
「この町は侵食される! 外へ逃げたほうがいい!!」
人々はできるだけ財産を持ち、家族を連れ町の外へと向かっている。その人の波を掻き分けて向かっている先は、すでに界壁が柱のように現れていた。
「契約が実行される」
バロックの声にアリシアは立ち止まった。
それにあわせバロックも立ち止まり、アリシアを振り返る。
「バロック、少し下がって。結界を張る」
息を整え、マントの中からあのペンダントを取り出し界壁を見定める。
「我、汝に請うは、魔を祓いし光りなり」
アリシアの声と同時に回りに光素が集まるのを感じ、バロックはフードを被りアリシアから離れた。
「我、汝の加護を欲する者なり」
言葉と同調し、手の平に乗せたペンダントが輝き出す。
「我ら迷い子に、聖なる輪と、光の導を与えん」
アリシアの最後の言葉と同時に前方、界壁のすぐ近くに光の柱が立ち上がって弾けた。
見上げれば空を覆う闇が去った。
界壁はまだ留まっているが、先ほどより細くなっている。
その空を見上げたバロックがアリシアに告げる。
「入ってくる」
「わかってる。時間が稼げればそれでいい」
再び二人は走り出した。
光の柱が立ち上がった場所はセルビー家である。
その家の前にたどり着いたアリシアは一度空を見上げた。
界壁を中心に徐々に闇が空を覆い始めている。
「中にいる」
「ええ。子供たちもいるみたいね………早くしたほうがいいんだけど」
セルビー家の前に来てもアリシアは何かを迷っているようだった。
しかし、ことは急を要するのもわかりきっている。このままでは悪魔が契約を実行することは明白だ。
「何を待っている?」
バロックの質問にアリシアは唇を噛んだ。
「このまま悪魔を祓うとセムレスの命はない。かといってこのまま契約を実行させるわけにもいかないわ」
質問の答えではないが、バロックには通じたようだ。
「破棄を待っているのか」
「彼の意思で断ち切ることを願わなければどうにもならないわ。私は自分の命を易々削るほど慈善家じゃないのよ」
爵位のある悪魔は契約によりこの世に留まっている。
契約で縛られた悪魔を祓う――つまり彼らの世界へ送り返す――ということは、契約で縛っている契約者も彼らの世界へと送られてしまうのだ。
ゆえに、契約をしているものを「繋ぎ」と聖職者たちは呼んでいる。
繋いでいるものは魂である。
本来、悪魔祓いとは、悪魔にとり憑かれた人の魂を解放する行為である。
しかし、魂を繋いでいる契約状態ではそれもできない。
祓える方法があるとしたら、契約者が悪魔との契約の破棄を望んだときだけ。その場合、魂の繋がりが弱くなり、その分こちら側へ引きとめられる確率が高くなる。当然失敗もあるのだが。
「破棄すると思うのか?」
悲嘆に暮れるだけのセムレスを思い出し、バロックは冷淡に尋ねる。
「こちら側に繋ぐものが…」
アリシアは言葉と途中で止め、バロックの後ろに視線を送る。
何かとバロックも振り返ろうとするのをアリシアが手を引き、自らの後ろへ隠す。
この行動に覚えがあった。
「アリシア・ダシュク法師。まだこの町においでだったか」
現れたのは聖都からきたというサージュ神父だ。
「はい。こちらにも事情がありまして」
「それはその子供のことかな?」
今はあの夜と違いかなり明るい。後ろに隠したバロックを隠し切ることなどできない。それはアリシアもよくわかっていただろう。
「ええ。まあ」
そう言葉を濁し肯定する。
神父がさらになにか続けようと口を開くが、周りを包む闇が拡大したことで意識をセルビー家へと移した。
「何が起きているのだ?」
「悪魔の契約が実行されようとしているのです」
「なに!?」
神父は驚き、一度『神の家』を振り返り、アリシアを見る。
「ここはセルビー殿の家だが、まさか」
「はい。中に一家がいます。子供だけでも助けますか?」
「………」
子供は悪魔の契約内容の対象外だ。
つまり、子供は助けられるがハッシュ夫婦は無理だということだ。そこから導かれる答えに神父も押し黙る。
「子供は無関係ならば、助けたほうがよい。彼らもそれを望んでいるはずだ」
「そうですね」
しかし、アリシアは動かない。
動かないアリシアに神父が眉を寄せる。
「何をしている?」
「何も。助けるのでしたら早くしたほうがいいですよ。界壁の侵食力は増すことはあっても、弱まることはありませんから」
見上げる先には界壁の闇が見える。まっすぐセルビー家の上に落ち、そこから徐々に大きくなっており、背筋に悪寒が走るような精神的な圧力がかかるのを感じる。
サージュ神父は界壁を見上げ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「よ、よし」
気合をいれ、セルビー家の玄関扉を睨みつけ、なにやら唱え出した。
「貴女の結界が邪魔しないか」
「同じ聖言で作った結界です。邪魔はしないでしょうけど」
アリシアのときと違い、光素の集まりが弱い。これでは救い出すのに何時間かかるかわからない。いや、それよりも早く契約が実行されるだろう。
「もし、破棄しなかったらどうする?」
「私たち人間は自分の心ですら全てを知りません。ましてや、他人の心の全てを知りえるわけがありません。でも、その人が知らなかったその心に気づくのは、意外にも他人である事が多いのです。…そういう面白い生き物なんですよ」
最後の言葉はいつものように面白さを含んでいた。
「ほらね」
そう言い、向けた視線の先に、息を切らせて走ってくる男がいた。
「法師殿!!」
間違いない。さっき会ったセムレスだ。
「ハッシュとマリーベルは?」
「中です」
息を整えながら家を見る。その瞳が大きく見開かれた。
「界壁…」
「時間がありません」
「どうすれば!!」
「悪魔の名は?」
その質問に声を詰まらせる。
「……それは……」
「言えるわけがない」
割り込んだ声はこの場にいる誰の声でもなかった。
しかし、目の前のセムレスが一瞬にして顔面蒼白になり、がたがたと震え出したことでその声が誰なのか答えは簡単だった。
「きましたね…契約を破棄する意思はありますか?」
強く、アリシアがセムレスに尋ねる。
「自分の命に代えても二人を守りたいと強く思いますか?」
緊張でアリシアの声など届いていないのではと思えるほど、セムレスは思考を飛ばしている。額には脂汗が滲み、おそらく悪魔に精神的な圧力をかけられているのだろう。視線も定まらず、呼吸が乱れ、唇は戦慄いて今にも倒れてしまいそうだ。
そんなセムレスの様子に、アリシアがゆっくり呼吸をする。
「"セムレス・クラクベルタ"」
その声にびくりと一度体を震わせ、夢から覚めるようにアリシアに視線を向けた。
「選択を。自分の命か。二人の命か」
まっすぐ目を合わせ、アリシアはそれだけを尋ねた。
「お前の望みはなんだ? 我との約束を忘れたか? お前の契約が破棄されたところで我は止めぬ。ならば、お前の望みを叶えろ」
悪魔の甘言がセムレスの心に響く。
「私の、望み…」
「そうだ。手に入れるのだろう? あの女を。消したいのだろう? あの男を。どちらも叶えてやる。我の約束は絶対だ。お前はなにも心配するな。全て我に任せておけ。そうすれば何もかもがうまくいく。そこの法師などより、我はずっと強い」
「私の、望みは…」
どこかぼんやりと目の前のアリシアを見るセムレスの意識は、完全に悪魔に乗っ取られているように見えた。
「セムレス」
しかし、小さく呟かれた幼い声にセムレスはゆっくり視線を下に落とした。
「………契約の、破棄を」
「貴様ぁ!! 破棄など許さん! 認めないぞ! セムレス・クラクベルタぁ!!」
セムレスの答えと同時に界壁が一度鼓動を打つように萎縮し、それとほぼ同時に魂を震わすほどの怒号が響いた。