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 泣いている二人が落ち着くまでハッシュに任せ、外に倒れている神父を町の人たちに頼み運んでもらった。
 その際、アリシアは神父のおかげで界壁を防ぐことができたとだけ伝えた。
 『神の家』にいる神官たちも、聖都からきた神父の偉業に感謝し、精神的に疲れて倒れた神父を引き取ってくれた。
「いいのか?」
 くっついてきていたバロックがアリシアに尋ねたが、あまり興味はなさそうだった。
「手放しの賛辞を否定する人間はほとんどいません」
 にっこりと微笑むアリシアに「そうか」とだけ答えたバロックは賢明だったのかもしれない。
 
 まだ町の中は界壁が現れた恐怖と、それを退けた『神の家』に対しての感謝と興奮で溢れていた。
 法師であるアリシアにも幾人かが感謝の言葉を伝えてくる。
「さて、問題はこれからですね」
 この騒動を引き起こしたのがこの町の支配家当主であると『神の家』が知った場合、セムレスはどうなるかなど火を見るより明らかだ。
 セルビー家に戻ると、泣いていた二人は落ち着きを取り戻し、お茶を飲んでいるところだった。談話室に倒れていた子供たちは子供部屋へハッシュが運んだようだった。
 アリシアの顔を見るとマリーベルがまた泣きそうになりながらも、何度もお礼を言ってきた。
「お礼を言うにはまだ早いです。契約破棄は無償ではありません」
 アリシアがそう言うと、マリーベルは目を見開いた。視線をセムレスに向けると、ハッシュとマリーベルも座って硬直するセムレスを見る。
 セムレスはしばらく視線を机の上に止め考え込んでいたが、やがてアリシアを見て微笑んだ。
「いいんだ。これで。二人が幸せであるのなら、それでいい」
 言葉の意味を正しく理解はしていなくても、長い付き合いの二人には幼馴染が何かを決心したことを感じ取った。それもきっと悪いことだと。
「セムレス、あのな…」
「私たちが幸せでも、あなたが幸せじゃなきゃ意味がないのよ」
 ハッシュの怒りはマリーベルの言葉で表された。
 セムレスはそんな二人を見てやはり微笑む。
「大丈夫だ。私はお前たち二人が幸せならそれで幸せだ。だから、絶対に幸せになってくれ。頼むから、笑っててくれ」
 それだけが望みだから。
 そこには何もかもを飲み込んで、納得した笑顔があった。これ以上は何も言ってもおそらく答えないだろう。
 マリーベルは深く深くため息を吐き出すと「わかった」と呟いた。
「あなたの罪は私たちの罪よ。だから一人で背負うのはやめて。何かあったら私たちが力になるわ」
「私たちって、俺も含まれてるのか」
「当たり前よ! ハッシュ、あなたまさか、自分には非がないなんて考えていないでしょうね?」
「俺に非はないだろう。法師、笑ってないでなんとか言ってくれ」
「法師様は関係ないでしょう!?」
「くっくっくっ」
 二人の不毛な言い合いにたまらずセムレスも笑い出した。
「何よ」
 マリーベルが少女のように頬を膨らませてそっぽを向くと、ハッシュは穏やかに笑ってセムレスを見る。
「俺は世界一幸せな自信がある。マリーを世界一幸せにする自信がある。何が起きてもそれは変わらない。だから何も心配するな」
 言い切るハッシュにセムレスも穏やかな表情で頷いた。
「ハッシュでよかった」
 セムレスの言葉にマリーベルもふわりと微笑んで頷いた。
「ええ。ハッシュでよかったわ」
「? 何がだ?」
 笑顔で言う二人の言葉に、ハッシュは眉を寄せた。その様子に二人はまた笑い出し、夜の帳が降りきった静かな闇に笑い声が穏やかに響いた。
 
 
 その夜、疲れきったセムレスを泊めることになり、他に部屋がないため、アリシアとバロックは部屋を明け渡し二人は談話室で寝ることにした。
 マリーベルは自分たちが談話室で寝るといったが、夫婦の寝室を使うのは気が引けると告げれば仕方なさそうに引き下がった。
 ソファーをベッド代わりにして寝る準備をしていると、談話室のドアが静かに開いた。
「法師様。本当に大丈夫ですか?」
 毛布を一枚持ってマリーベルが入ってきた。それに頷いて見せると毛布を受け取った。
「旅をしていれば野宿もありますから平気ですよ」
 その答えにマリーベルも微笑むが、一転して表情を曇らせる。
「あの、セムのことなんですけど…」
 思いつめた様子のマリーベルが、何を言いにきたのか察するのは簡単だった。
「マリーベルさん。あなたがしっかりしていれば何も問題はありません。もしセムレスさんのことで罪の意識があるのでしたら大きな間違いです。あなたは何もしていない。だから何もする必要はありません」
「ええ。何もしていないかもしれません。でも、セムが悪魔と契約したのは」
「マリーベルさんは意外に自惚れが強いんですね」
「え?」
 全く意外なことを言われ、マリーベルは目を見開いてアリシアを見た。
「セムレスがあなたを思い、悪魔と契約したと、本気で思ってますか? そこにあるのは純粋な愛だと?」
 微笑んではいるが冷たいアリシアの表情に、マリーベルは息を飲んだ。
「人間は欲深い生き物です。でもだからこそ、ただ愛を得るために悪魔と手を結ぶほど愚かでもありません。そこには必ず利害が存在し、取引があります。
 セムレスがした契約の全てがなんだったのかは分かりません。ただ、その代償に己の一番失いたくないものを差し出した罪悪感が勝った。だから契約を破棄した。ただ、それだけです」
 冷たく容赦のないアリシアの言葉にマリーベルは悲しそうな瞳を向ける。無言で非難してくる視線に、アリシアは今度は柔らかに微笑んだ。
「セムレスさんの思いが純然たる愛なのであれば、あなたの幸せが何かを考え、思いとどまったはずです」
 その言葉にはっと息を飲む。
「そして、セムレスさんはそれに気がついた。だからあなたが心配する必要は何もないのですよ。マリーベル・セルビー」
 アリシアが小さな子にするようにそっと頭を撫でると、マリーベルは目に涙をためて小さく頷いた。
「さあ、ハッシュさんが心配しますよ。おやすみなさい」
「おやすみなさい。…法師様。ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げて談話室を出て行った。その後姿を見送って、彼女が部屋に入ると一つ別のドアが開いた。セムレスが寝ている部屋のドアだ。そこから現れたのはハッシュである。
「法師」
 アリシアに気がつき、ハッシュは一度マリーベルが入った部屋を見て、足音をさせることなくアリシアのところまできた。
「聞きたい事がある」
「答えられることにしてくださいね」
 間髪いれずに言うアリシアに、ハッシュは一度目を閉じた。
「セムレスはどうなる?」
 真剣に告げられた言葉には何かを覚悟したような響きがあった。
「私は法師で、預言者ではありません」
 アリシアの答えに沈黙すると、ふと思い出したようにもう一度マリーベルのいる部屋を見た。
「マリーの抱えていた不安は消えたと思うか?」
 ずっと何かを抱えていることには気がついていたのだろう。いや、もしかしたらその不安が何かもハッシュは知っている。ただ…。
 アリシアはわざと大きなため息を吐いた。
「ハッシュさん。知らないふりをするのはけっこう大変ですよね」
 その言葉にぱっと顔をアリシアに向けた。
「全ての答えは、あなたが持ってます」
 呆然としているハッシュににっこり笑い、おやすみなさいと言って談話室のドアを閉めた。
 翌朝。町は何事もなかったように起きだした。
 昨日の出来事を振り返る事はあれども仕事はしなくてはならないし、時間は待ってはくれないのだ。
 セルビー家で一夜を過ごしたセムレスも、心配した執事のモーリスが迎えにきて、朝早くクラクベルタ家へ帰っていった。
 それを見送り、今日は休みだというハッシュが子供たちを相手に遊んでいるところに、アリシアはバロックを伴い別れを告げた。
「行くのか」
「はい。あれだけの騒ぎがあったのですから聖都から使者がきます。その前に移動してしまいたいんです」
 『神の家』に属さない流下であるアリシアにとって、彼らに会うのはできれば避けたい事態であるらしい。
 ハッシュも強く引き止める理由がなく、「そうか」と頷いて町の門のところまで見送ってくれた。
「では。お世話になりました」
 アリシアが頭を下げると、ハッシュは渋い顔をして首を横に振った。
「世話になったのはこっちだ。またここに立ち寄る事があれば家にきてくれ」
「はい」
「法師…セムレスは大丈夫だよな?」
 確認をとるようなその言葉にアリシアはただ深く頷いて肯定した。
「また会おう」
 晴れやかに笑って手を上げたハッシュに見送られ、クラクベルタを出た。
 
 しばらく街道を歩き、ハッシュも門も見えなくなった頃、隣を歩くバロックが尋ねてきた。
「いいのか?」
「何がですか?」
 バロックが何を聞きたいのかわかってはいるが、あえて聞き返すと、隣の美少年が沈黙を返してきた。視線を下に落とすと黒い瞳と目が合った。
「あの悪魔が報復に来る頃には、あの人間は生きていない」
 つまり、アリシアに祓われた悪魔が、セムレスに報復できるほど回復するのは彼が死んでしまっているほどの時間が掛かるということで、つまり、セムレスに報復が実行される事はないということだ。
 その事実は祓ったアリシア自身がよくわかっているはずなのに、彼らにその説明をしてやるそぶりもなかった。
「いいんですよ。セムレスがそれを受け入れているんです。たとえその日がきてもこなくても、笑顔でいる理由は変わりません」
 二人が幸せならそれで幸せ。
「貴女は幸せか?」
「私ですか?」
 唐突なバロックの質問に、アリシアは足元を見て、それからバロックの髪に触った。
「そうですね。今のところ、それなりに幸せです」
「それなり?」
 にっこり微笑むアリシアを見る限り不幸だという人間はいないだろう。
 なんとなく納得できないものもあるが、バロックは一つ頷いた。
「それならいい」
「いいんですか…バロックはどうなんです? 幸せですか?」
 ちらりと一瞥するとそこに悪戯っぽく笑うアリシアの瞳があり、問いへの答えは完全に沈黙することに決めた。

笑顔の理由 終

end