クラクベルタ家はこの町の支配家だけあってさすがに大きかった。
裏口であるのにハッシュの家の玄関よりも立派だった。
「セルビー様。お待ちしておりました…その方が?」
ハッシュを出迎えたのはこの家に仕える執事だ。老年の彼は大きなハッシュの影にいる二人を見て問う。
「ああ、こちらが法師のダシュク殿だ」
ハッシュの紹介にアリシアも軽く一礼する。
「さようでございますか。わたくしモーリスと申します」
バロックについての説明はなかったが、それは不思議なことではない。下位の法師とはいえ、バロックくらいの年齢の子供を弟子として持っていることは多々ある。
黒服に、白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、きっちりとお辞儀をして名乗る姿は、長年この職についていたことを窺わせた。
通された屋敷は外観の創造を裏切ることなく、堂々たるものだった。
天井は高く、その高い壁に窓があり光が降りそそぎ、白い壁に反射してとても明るく、悪魔が関係しているとは到底思えなかった。
執事についてハッシュ、アリシア、バロックと歩いていたが、ふと気がつけばバロックが床を凝視して動かない。
「どうしました?」
アリシアの問いに前を歩いていた二人も振り返る。
「あれだ」
大理石の床を真直ぐ見つめる黒い瞳は、光溢れる屋敷だというのにその黒さを増したように見えた。
「あれ?」
バロックの言う"あれ"に、アリシアは首をかしげ、見上げてくる黒い瞳に一つの事実に思い至る。
「…間違いないですか?」
「ああ」
バロックの確信の一言に、アリシアは顎に手をあてた。
「そうですか…クラスはわかりますか?」
「私よりは低い」
「それは、そうでしょう」
バロックの判断にアリシアは抗議する。
元悪魔のバロックの地位――人間が勝手につけた順位――は最高の皇位である。それ以上はなく、必然的にそれ以下となる。
「私の中にいたのよりは?」
「低い」
以前自分が封じていた公爵位の悪魔と比較させ、出た答えにアリシアは少なからずほっとした。
二人のやり取りを見ていた執事とハッシュは顔を見合わせたが、何も言わなかった。
「こちらへ」
執事がもう一度仕切りなおして屋敷を案内する。
案内された場所は屋敷の奥まったところにあった。
木製のどっしりとした質感は長い間ここを守っていた風格があり、ここがこの家の主人がいる場所であると知らせていた。
執事が声をかけると中から男の声が返事をした。
それを受けて執事が扉を開ける。ハッシュが入りアリシア、バロックと続き執事が扉を閉めた。
部屋は広く暗い色の絨毯が敷き詰められ、壁には本棚が建ち並んでいた。
扉から一番離れた場所に大きな机が置いてあり、その机に一人の男性が書類の整理に追われていた。
「すまない。少し待ってくれ」
顔を上げずにそう言われ、ハッシュは一つため息を落とした。
セムレス・クラクベルタ。茶色い髪に青い目をした温和そうに見える男性だ。書類に目を落とす姿はとても悪魔に憑かれているようには見えなかった。
アリシアは隣に立つバロックに視線を向ける。
「彼は"繋ぎ"?」
アリシアの呟きに黒髪の少年はただ頷いてみせた。
「待たせてすまない。どうぞ座ってくれ」
その声に視線を向けると男性が仕事に一区切り打って、机の前にやってきたところだった。
その机の前にあるソファーに座るよう促すと、ハッシュがどかりと腰をかけた。
「ハッシュ。そちらが?」
「ああ。今俺の家にいてもらっている法師殿だ」
「アリシア・ダシュクと申します。こちらはバロック」
そう自己紹介をすると、この部屋の主はアリシアをまじまじと見つめ微笑んだ。
「私はこの町の支配家当主、セムレス・クラクベルタだ。ハッシュから聞いたときはもう少し厳格な方かと思っていました」
そういうと手で座るように促す。
ハッシュの向かい側に座わると、隣にバロックが座わる。
両者の真ん中に位置する場所に、当主であるセムレスが座った。
ちょうど皆が座ると執事がお茶を持って入ってきた。
その様子を見やりながらハッシュがセムレスに問いかける。
「聞かせてもらえるんだよな?」
「…ああ」
どうやら大事な話らしいと、執事が気を利かせて部屋を出るために扉へ向かうと、振り返らずにハッシュが声をかけた。
「モーリスもここにいてくれ。お前も当事者だろうからな」
ハッシュの視線はセムレスを捕らえたまま離れない。セムレスも執事に視線をやり頷いた。
「さて、どこから話すべきかな……」
まるで懺悔するように手を固く握り、視線を落として話し出した。
「…祖父の死は父が望んだものだ」
あの日、セムレスの祖父が亡くなった日は土砂降りで、人の声も消されるほどの雨音があたりを満たしていた。
亡くなる一ヶ月ほど前から祖父は体調を崩しており、当主としての仕事もままならず、仕事は彼の父に任されていた。
セムレスも父の仕事を手伝い祖父の体調を案じていた。その矢先、祖父は心臓発作であっけなく亡くなってしまった。
死因はこれといって不思議なことはなく、高齢であったこともあり誰一人として疑いはしなかった。
しかし、それを不審に思った人物が一人だけいた。
「祖父が亡くなったその日。『神の家』の神官長も祖父を見送るために当然いたのだが、神官長はその時に父に疑いを持った」
それは彼の父が祖父を殺したのではないか、ということだ。
「神官長はこの屋敷に悪魔がいると…」
セムレスの言葉と同時に、部屋中に派手な物音が鳴り響いた。
彼の衝撃的な告白に、執事のモーリスが銀盆を取り落としたのだ。
「申し訳ありません…セムレス様、それは、本当なのでございますか?」
青い顔で尋ねる執事にセムレスは否定も肯定もせぬまま、視線をアリシアへと向けた。
「神官長の話ではクラスのある悪魔で、誰かが契約して呼び出したのだと言っていた。もう一つ、祖父の死はその悪魔がもたらしたものだと…」
そこまで聞いて、誰が悪魔を呼び出し契約し、祖父を死に至らしめたのか考えるまでもなかった。
「父は以前から祖父のやり方が気に入らなかった。自分はもっとこの町を発展させられると豪語してもいました」
そのためには祖父が邪魔であり、野心家の父が悪魔の囁きに耳を貸したのも頷けた。
「神官長はその悪魔を祓うべきだと、そうおっしゃって悪魔祓いを…」
「それが失敗して、神官長は亡くなったのか」
ハッシュの言葉にセムレスが頷く。
「それを期にその悪魔は『神の家』の神官に憑いて、この町に留まってしまったのです。それを先日あなた方が祓い、それで終わりだと思ったのですが…」
セムレスは組んだ両手に顔を埋め声を殺した。
「ええ、何も終わっていません。終わるわけがありません」
「法師?」
アリシアの凛とした声にハッシュが声をかけるが、アリシアはうな垂れたセムレスから視線をそらさない。
「悪魔はどんな小さな願いでも叶えます。そして爵位の悪魔との契約には代価が必要です。悪魔はそれを漠然と示し、当人さえも知らずに大事なものを代価として差し出してしまう」
クラスが上がれば上がるほど、悪魔は明確な代価を告げたりはしない。高位にいる彼らにとって、人間のささやかな代価などどうでもいいからだ。
「その望みを叶えよう。代価はお前を支配しているものでいい」
アリシアの隣から可愛らしい声が言葉を紡ぐ。
その言葉にセムレスは青くなり、ハッシュは呆然とバロックを見つめた。
「支配…」
「知らなかったんだ!」
ハッシュの呟きと同時に、セムレスが叫んだ。
「私は、私を支配しているものはクラクベルタだと思っていたんだ! それは父であり、この町だ!」
セムレスが髪を鷲づかみ悲鳴のように叫びだすと同時に、ハッシュが部屋を飛び出して行った。
「ハッシュ様!?」
その後を驚いた執事が後を追った。
残されたのはアリシアとバロック、そして元凶になっているセムレスだけだ。
「決して、決してマリーベルだとはっ…」
髪をつかんだまま泣き出したセムレスにアリシアはため息を落とした。
「あなたを支配しているものはマリーベルだけではありません」
静かなアリシアの声にセムレスが呆然と顔を上げる。
「なに?」
「闇に飲まれるあなたを支え、励まし、希望の光を与えたものは?」
「アリシア」
バロックが呼ぶとアリシアは頷き、立ち上がった。
「悪魔の契約は反故されることはありません。前当主の契約の代価は"自身"で支払われたのでしょう。そして、あなたの望みの代価はその"望み"で支払うことになった。ただそれだけです」
それだけを言うとアリシアはバロックを連れて出て行った。
部屋にはセムレスただ一人を残し、後は重苦しいだけの沈黙が訪れた。
重く纏わりつくような沈黙のなか、セムレスは闇に喰われる自分を感じ、噛み潰すように呟く。
「は、はは…私はただ、マリーを愛していただけなのに……なのに、なぜっこんなっ…」
押さえられない感情を叩きつけるがごとく、両の拳で机を叩いた。
「頼む。誰かマリーを…マリーを助けてくれっ…」
跪き机の上に手を組んで、一心に祈った。
自分で呼び込んだ過ちを正してくれと、一心に。
こんなことを望んだわけではない。
ただ、あの笑顔を自分だけに向けて欲しかったのだ。
ただ、それだけなのだ。
「っ頼む……ハッシュ…」
知らず声にした自分の言葉に、唐突に理解した。
「私を支配する、もの………」
―― 闇に飲まれるあなたを支え、励まし、希望の光を与えたものは?――