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 アリシアが異変を感じたのはその日、皆が寝静まった後だった。
(…なに?)
 夕方張った護符に何かが触れたのだ。
 触れたといってもアリシアにそれを感じることができるわけではないが、確かに護符に何かが干渉した"揺れ"のようなものを感じた。
「悪魔だ」
 隣で寝ている少年がぽそりとそう洩らした。
 真っ暗な部屋の中、アリシアは隣を向いた。
「…今のですか?」
 何を思って呟いた言葉なのかわからず、思いあたることを聞く。すると「ああ」と短い肯定が返ってきた。
「悪魔」
 アリシアは小さく呟き、内心首をかしげる。
 悪魔はどこにでもいる。たいして驚くことではない。しかし、それでも護符を張ったばかりで悪魔の干渉があったとは少し変だ。
 もし、悪魔が一軒一軒人間の家を訪ねて歩いているなら不思議ではないが、そんな地道なことをする生き物ではない。
「『神の家』にいた悪魔の本体かしら?」
 つい先日のことを思い出し、この家がかかわった悪魔祓いを思いだした。
 この町に着いてすぐ、『神の家』に憑いていた悪魔を祓う依頼をされ、聖都からきた神父と共に悪魔祓いをした。
 その件はすでに落着しているが、実のところそこに悪魔本体はいなかった。アリシアたちが祓ったのは悪魔の残り香のようなものだった。
 その悪魔の本体がアリシアを敵として結界に干渉してきたとも考えられるが、それにしてはあまりに中途半端だ。もし、アリシアに報復を考えているのなら、干渉を警戒していない今、精神を直接叩くことも可能だし、それが一番確実にアリシアにダメージを与えられる。
 それとも別の意思が働いているのか、はたまた別の悪魔が干渉してきたというのだろうか…。
「ねえ、バロック。彼らは悪魔にとって魅力的ですか?」
 もし別の悪魔だとすると、この家のハッシュ一家はそれほど魅力があるのだろうかと、そう思ったのだ。
「私に聞くな」
 元悪魔の彼にならわかるだろうと思っての質問だったのに、当の本人に無下にされてしまった。
 言葉の調子からわからないと言っているようだが、アリシアは少し悪戯心で呟いた。
「バロックは選り好みしないタイプですかぁ」
 悪魔にも色々と選ぶタイプと、そうでないものがいる。バロックはどっちなのだろうかと少しだけ興味が湧いた。
 ため息つきのアリシアの言葉に、隣で寝る少年がごそりと動いた。
「それは無節操だということか?」
「そうですね。いえ、一般的に悪魔は選り好みしません」
 きっぱりと言い切ったアリシアの言葉にどう反応したのかは見えない。しかし、訪れた沈黙にアリシアはふふっと含み笑いをした。
「そうですか。バロックは実は選り好みするんですね」
 何も言っていないのに、そう確信めいて言うアリシアに小さなため息が洩らされる。
「貴女には敵わないようだ」
「あら。今頃気がついたんですか?」
 くすくすと笑うアリシアに、かの美少年が微かに眉を寄せているのが想像できて、アリシアはさらに笑いを深くした。
 
 
◇ ◇

 
 朝、この家にきてから人間の生活をほとんど知らないバロックのために、子供たちが必ず迎えにくる。
「法師様、バロック。おはよう」
「おはようございます」
 その迎えが来るとバロックの一日が始まる。
「バロックー。おはようを言わないと立派な大人になれないんだよ?」
 教育係となりつつあるケリーにそう言われ、しぶしぶといった感じで「おはよう」とぼそりと口にする。それを聞いてケリーは満足そうに微笑むのだ。
 この家での生活がバロックに少しずつではあるが、表情を与えているようだ。
「頼みましたね」
 アリシアがそう言うとケリーは大きく頷いてバロックの手を引いていく。
 これから洗面所に行き顔を洗い、歯を磨き、髪をとかすのだ。
 アリシアはすでにそうした身繕いを終えて、町に出る用意を始めていた。
「法師。ちょっといいか?」
 珍しく顔を出したのは主のハッシュだ。
「はい」
 アリシアが頷くと、ハッシュは一度、廊下の向こうにある台所へ視線を走らせてからアリシアを見た。
「今日、クラクベルタ家へ行く。悪いがついてきてもらえないか?」
「かまいませんが。…支配家へ、ですか?」
「ああ。それで外で待ち合わせたい」
 一緒に家を出たくないということだ。
「マリーベルさんに知られたくないと?」
 返事はただ頷いただけだった。
「わかりました。あ、バロックも一緒になると思いますけど」
「かまわない」
 そういい残すと談話室へと戻って行った。
「クラクベルタ…当主の名はセムレス。支配家を継いで一年くらいか」
 ハッシュの言ったクラクベルタについてアリシアは知りえた情報を整理する。
 現当主のセムレスは現在、二十五歳。マリーベルと幼馴染で彼女には弟のような存在だとハッシュが言っていた。
 ここにきた当初、マリーベルは彼のことをとても気にかけていた。悪魔が憑いているのではと、とても心配していたのを知っている。
 (神父の見立てでは悪魔は憑いていないということだけど…)
 アリシアには少しだけ気に掛かっていることがある。
 それは夕べの出来事。バロックが悪魔だと断言した以上は悪魔がいる。
 (それに、マリーベルは何かを確信していた気がするのよねぇ)
 以前相談にのったとき、神父から悪魔は憑いていないといわれたという話に対して、アリシアは肯定した。その時マリーベルは安心したわけではなく、何か言いたそうにしていたことを思い出す。
 (ハッシュには言えないこと…か。そして、ハッシュもマリーベルには言えないことで支配家に…)
 悪魔がらみでまだこの家には何かありそうだ。
「ああ、嫌だ。できれば大事には関わりたくないのよね。バロックもいるし」
 特にいまだこの町にいる聖都からきた神父がいる今は、やっかいなことは避けたい心境だ。
 ここ数年、アリシアは聖都の『神の家』から悪魔憑きの法師として悪評がある。本来ならば排除される対象であるが、今まで無事に過ごせているのはひとえに大きな問題を起こしていないからだ。
「ああいう神父の約束は期間限定だし。バロックの存在だけはなんとか隠さなきゃ」
 諦めというよりは、面倒くさそうなため息を洩らし、アリシアは談話室へと向かった。
 そこには暖かな朝食と子供たちの笑顔、バロックの仏頂面が並んでいた。
「法師様! 見て見て!! ミリーがバロックの髪結ってあげたんだ」
 膝辺りまである美少年の黒髪はいつの間にやら三つ編みにされ、二房後ろに下がっている。
「法師さまと一緒なの!」
 ミリーが頬を紅潮させ、キラキラした瞳でアリシアを見上げてきた。
 アリシアもバロックほどではないが長い髪をしている。薄茶色の髪をいつも一つの三つ編みにしているのだ。
「まあ、そうね。良かったわね、バロック」
 にっこり微笑んでそういうと、眉をよせ言外に「良くない」と言うように冷たい視線をよこした。
「似合ってますよ」
「ええ、とっても可愛いわ」
 笑いを堪えつつからかうアリシアの言葉に、マリーベルもバロックを見て満面の笑みを浮かべ力強く断言した。
 マリーベルには弱いのか、バロックは脱力のため息を吐き出し、朝食のそろうテーブルへと向かった。
 アリシアの隣に腰掛けるとハッシュもやってきて皆で朝食となる。
 賑やかな朝食が終わり、お茶を飲んでいると先にハッシュが玄関へ向かった。
「今日は少し遅くなる」
「はい。わかりました。いってらっしゃい」
 玄関でそんな会話がやり取りされ、一家の主が仕事へ出かける。
 ハッシュの仕事はこの町の警護だ。元『神の家』に仕える兵士だったこともあり、その腕を見込まれて今の支配家クラクベルタに雇われている。
 アリシアはゆっくりお茶を飲み、子供たちの話が途切れる頃合いを見計らってバロックに声をかける。
「今日はどうしますか?」
 この家に世話になってから、アリシアのこの質問も毎日の日課になりつつある。
「行く」
 バロックはそれだけ言うとアリシアについて部屋へ行き、マントを羽織るとハッシュの家、セルビー家を後にする。
 数人の子供たちが見送りをしてくれ、それに手を振って答えるとアリシアはバロックに視線を落とした。
「クラクベルタ家へ行きますね」
「支配家からの依頼があったのか?」
 この町を支配している家だ、こちらから尋ねても簡単には門をくぐらせてはくれない。普通の子供と違うバロックはそれをちゃんと知っているようだ。
「依頼はないのですが、ハッシュさんからの頼みです」
 どこで待ち合わせということも言ってなかったが、クラクベルタ家を目指して歩いていると、前方に見慣れた大きな金髪の男性が立っていた。
「すまないな法師」
 金髪のその男性はアリシアたちに気がつくと声をかけてきた。先に家を出たハッシュである。
「いいえ。お世話になってますし。それより、何があったのですか?」
 あの家での話はハッシュも避けたいのだろうと思い、話があったときは何も聞かなかった。
 しかし、まさか男女のもつれで呼ばれたわけではないと察しはついている。
「マリーには気づかれたくないんだ」
 いつも豪快に笑っているハッシュにしては珍しく、どこか沈痛な面持ちで告げる。
「今回の悪魔について、ですか?」
 端的に短くそう言うと、はっとしたように視線を合わせてきたかと思えば、真剣な形相で上から見下ろし尋ねる。
「法師は何かを知ってるな? それをあえて話していない」
 それは二人の体格差からくる自然な体勢ではあったが、どう考えても「嘘をつくな」という脅迫であった。
「違うか?」
「はい。そうです」
 アリシアのあっさりとした肯定に、ハッシュは一瞬ぽかんとした。
「おそらく知ってます。でも、それは私の憶測でしかありません。よって、話す必要を感じなかったのです」
 怯えるどころか、にっこり微笑むアリシアに、ハッシュは頭をガシガシとかいた。
「さすが法師だな……ここじゃ話難い」
 ハッシュは周りを気にして視線だけでアリシアに歩くよう促した。
 それに黙ってついて歩くと高い壁が囲む屋敷が見えてきた。そこが目的のクラクベルタ家である。
 しかし、ハッシュが向かったのはその家の裏手だった。
 どうやら裏口から入るようだ。
 それもそうだ、支配家に法師が入ったとなれば『神の家』の耳にはいるだろう。正式な依頼を受けていればそれもたいしたことではないが、ハッシュ個人に頼まれ、その上アリシアは無認可の"流下"と蔑まれる法師である。
 『神の家』に知られると色々とまずいことが起きるのは、火を見るよりも明らかだ。
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