クラクベルタ。
町の名前はそのまま、この町を支配する者の名でもある。
以前はセルビーという名であったが、二十年以上前にクラクベルタとなった。
町の名前が変わり、支配者が変わっても町の人間にはそれほど重要なことではない。自分たちが暮らしやすければ支配する者など誰でもいいのだ。
ゆえに、以前の支配者の息子はこれといって嫌がられるでもなく、町の一員として働き、その日の報酬をもらう。
「はい、セルビー様。ご苦労様でした。今月分の手当てです」
「あのなぁ、モーリス。その様付けはいつ取れるんだ?」
帰り際に今月の手当てをもらいにきたハッシュは苦笑し、何度目になるかわからない質問を繰り返す。
クラクベルタ家の執事、モーリス。彼は以前の支配家セルビーの頃からこの町の支配家に仕える執事だった。
「歳ですので中々上手く頭が切り替えられないだけです。お気になさいますな」
そしていつもと同じ笑顔と答えが返り、結局苦笑しながらハッシュは家路につく。毎月一度は繰り返されるお約束だ。
もらった手当てを懐に収め、少し気分よく家路につくハッシュは"何か"に気を取られふと足を止めた。
自分でもよくわからず、ただ何か気になったのだ。
暮れてきた空はキレイなオレンジ色に染まっている。家々にも明かりが灯り出した時刻で、視界はまだ悪くない。
ゆっくりと視線を巡らせ、真横を向いたその先に良く知った姿を捉えた。
その人物を見てハッシュは口元に笑みをたたえ、足を向ける。
しかし、近づくにつれその人物の表情が険しいことに気がつく。何かを必死で訴えているようだが、小声で話しているらしく会話は聞こえない。
その必死な姿にどうやら一人ではなく、誰かがいるらしいと察せられる。もしかしたら色事かと、ハッシュは口元の笑みを意地の悪いものへと変えた。
そうとなれば気がつかれないように、相手がどんな娘か見てやろうとしのび足で近づいたのだが…。
「…マリー?」
必死に何かを訴えられているのは、この時刻に街中にいるはずのない自分の妻の姿であった。
会話は微かに聞こえているが、内容までははっきりしない。
二人ともかなり深刻な顔をしていて、やがてハッシュの妻、マリーベルが厳しい顔で何事かを言い、そして逃げるように去って行った。
残された人物は苦々しく顔を歪め、硬く拳を握ってマリーベルの姿を見送る。
しばらくそのままの姿勢で立ち尽くすその人に、ハッシュは何も見ていないふりで近づいた。
「よう、セム。どうした? 世界の終わりみたいな顔して。可愛い子にでもフラれたか?」
ハッシュの問いに振り返るその人はこの町を支配する家の当主。セムレス・クラクベルタその人だった。
「…ハッシュ……いや…」
驚いたように目を見開き、視線を落とし沈黙する。
まだ歳若いこの町の当主が何を悩んでいるのか、薄々気がついているハッシュは、ことさら明るく話しかける。
「悩みがあるなら聞いてやるぞ。俺がダメならマリーもいる」
マリーベルとセムレスは幼馴染である。その二人をハッシュも小さいときから知っていて、ハッシュにしてみれば両方とも弟と妹のような存在だった。
それが今では自分の妻と、自分を雇う主である。
もしセルビー家が安泰であればセムレスの立場はハッシュであっただろうし、もしかしたらマリーベルはセムレスの妻になっていたかもしれない。
無駄な考えであることはわかっているが、つい考えてしまうのはここ最近のことだ。
沈黙したセムレスはちらりとマリーベルの去った方角に視線を送った。
「帰りか?」
「ああ。今日は手当てが出たから早く帰ろうと思ってな」
「そうか…」
じっと通りを見つめていたセムレスはゆっくりとハッシュに視線を向けた。
真剣。というよりは思いつめた顔で、ハッシュを見上げる。
「何かあったのか?」
「…いや」
その表情に、そう問うと視線を外してしまう。
「セムレス」
心配を含んではいるが、沈黙を許さない響きがある。
その声にセムレスはふと口の端を上げた。
「ハッシュにはわかっているんだろうな…」
苦笑と共にため息も吐きだされる。
ハッシュよりも歳下であるはずだが、まるで熟年の男のように苦味のある笑みを浮かべる。
一年前にはこんな表情をするような青年ではなかった。
「セムレス…何があった?」
本当はもっとずっと以前にするべき質問だったかもしれない。いや、今までも遠まわしに聞いてみたことはあったのだが、その度に話を逸らされてきた。
深刻なほどでもなかったし、本当に切羽詰れば相談してくれるだろうと、どこか安心してもいた。
しかし、今目の前にいる青年の憔悴しきった様子はどうだ。
「一年前、お前の爺さんが亡くなったあの日。一体何があった?」
今まで避けていたハッシュの切り込んだ質問に、セムレスは顔色を変えハッシュを見据えた。
「何を知ってる?」
「知らないから聞いているんだ」
警戒するような、怯えているようなセムレスの声に、ハッシュは優しくなだめるように問う。
「だが、何かあったことだけは何となくわかる。あの日、『神の家』の神官長も亡くなっている。その後すぐに、お前の父親も亡くなった。あまりにも立て続けに死者がありすぎた」
日が地平線の向こうへ落ち、太陽の余韻だけが辺りを満たす。しだいに見えなくなる相手の顔から視線を外さずに、ハッシュは続けた。
「町も急激に治安が悪化したし、そのことでお前は悩んでいるんだとずっと思っていた。――……今、俺の家に法師が滞在してる」
突然話が飛び、セムレスは落としていた視線を上げた。
「『神の家』に悪魔が憑いていたのは知ってるな? 『神の家』の悪魔祓いをその法師に手伝ってもらったんだ。俺もその場に立ち会った。あの時は、『神の家』の悪魔を祓ってもらう事ばかりで他を気にしていなかったんだが、後になって気になることがいくつかあるんだ」
ハッシュの話は当然、当主という立場上聞いていただろうセムレスは、この話の流れの行方を読めず、ただハッシュの言葉に耳を傾けていた。
「『神の家』に憑いていた悪魔は結局何がしたかったのか? 神父の悪魔祓いはかなりの時間を要した。その間、悪魔はなぜ抵抗しなかったのか。神官の話が本当だとすると、抵抗しないのはおかしすぎる」
『神の家』に憑いていたのは伯爵クラスということだった。爵位第三位。神父でも祓えるかどうかというクラスである。抵抗しないほうがおかしい。
「それと、法師が何かを隠してる。俺の勘だが、あの人は聖都の神父より強い。それがなぜ、自分より劣る神父に悪魔祓いをさせたのか。保身と考えればそうだといえるが、そういうことを気にするタイプだとは思えない」
どちらかといえば気にすることなく暴言を吐きそうなタイプだ。実際、遠まわしに厭味を本人に言っていたくらいだ。
「その法師がマリーのことを気にかけていた」
「マリーを?」
「そのマリーはお前のことを酷く気にしてる。半年ほど前からだ。悪魔が憑いているんじゃないかって…。
心配しすぎてそんな発想になったんだろうと思っていたし、神父の話じゃお前に悪魔は憑いていないってことだった。だが、あの法師は断言しなかったし、祓った悪魔の目的が何かも言わなかった」
見境なく人を襲う悪魔は階級の低いものだが、今回祓われたのは爵位だといっていた。という事は何かしらの契約があったはずなのだ。
『神の家』に仕える兵士、神隊に所属していたハッシュはそのことをよく知っている。彼らは階位が上がるにつれ、この世界での行動に制約ができる。
力の強すぎる彼らがこの世界で活動するには、界を隔てる壁が邪魔してこちらへは容易にくることができない。だが、もし何かしらの契約が成立した場合、この世界に留まるのに制約や理由はいらない。
裏を返せば、爵位の悪魔がいるということは誰かが契約をしたということだ。
「悪魔祓いは終わった。だが、契約主は誰だったのかそれはまだわかっていないし、法師も言わない」
太陽の残した光も消え、もうセムレスの顔も見えなくなった。だが、兵士であったハッシュには彼が動揺していることを気配だけでつかむことができた。
「なにより、マリーがまだお前に悪魔が憑いているんじゃないかと疑っている。そうさせるほどの何かがある。それくらいは俺にもわかった」
押し黙るセムレスがどんな表情をしているのかはわからない。ただ、真相を聞きだせるのは今を逃せば永遠に失われるだろう。そして、間違いなく近い将来後悔すると確信していた。
悪魔祓いが行われる日。法師の言った台詞が脳裏をかすめる。
「この世の中で一番難しい問題は、案外身近にある……あの法師は何かを知っている。そしてそれをあえて隠している。セムレス、頼む。あの日、何があった?」
切実に訴えるハッシュの声に、沈黙を貫くのかと思えるほどの沈黙が続き、セムレスは重々しく、ただ一言いい残してその場を去った。
「明日、法師を連れてきてくれ」
「セムレス」
呼び止めてももう振り返らない。
近くの家から洩れる光の中に映しだされた背中はとても小さく見えた。
心に闇を引きずったまま、ハッシュは我が家の前に立っていた。マリーベルは帰ってきているらしく、家の中からは子供たちの笑い声が聞こえている。
その無邪気な声に自然笑みがこぼれた。
一度大きく息を吐き出すと、ドアを開け中に声をかける。
「あ!! お父さんだ!」
「おかえりなさ〜い」
一斉に現れる小さな笑顔に、一瞬にして心の闇が吹き飛ぶのを感じる。
「おう。ただいま」
手に足に子供たちをぶら下げていると奥から妻の声が聞こえる。そのごく平凡な日常に、ハッシュは幸せを実感していた。