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王女の受難
04
 皇太子となってからは基本的に執務室にいることが多い。
 仕事のほとんどがその場所へと持ち込まれるし、地方のいざこざはその地方の領主に一任していることもあり、表面上は平和な現在、必然的に内政に目を向けているという状況でもある。
 白状してしまえば、その内政というのが、明確な勝敗や利害のわかる戦争というものよりも厄介で面倒だ。
 その中でも最たるものといえば、当然身内に関することだろう。
 目の前に差し出された紙切れを思わず握りつぶしたくなる衝動をなんとか収め、ため息と皮肉を飲み込んでから返事を出す。
「わかったと伝えろ」
「はい」
 それだけを告げ、下がらせる。
 ぱたりと重い扉が閉じられるのを見送ってから、執事がちらりとこちらを窺うのを視界の端で捕らえる。何か言いたそうにしているのが気配から窺えるが、結局何も言うことなく中断した作業に戻った。
 実の母から時間があいたら会って欲しいという要望があれば答えるのが普通だろう。その内容と用件を会う前から知っていたとしてもだ。
 束の間の苛立ちをひとまず思考の隅に追いやり仕事を再開し、どのくらいの時間が経ったのか。扉を叩く音がして「失礼します」と声をかけて入ってくる男の訪問も予期していたものだった。
「何かありましたか?」
 顔を見るなり開口一番にそう尋ねられ、たまらず溜めていた息を吐き出した。
「何もない。なんだ?」
 こちらの返答に、ちらりと執事に視線を向けてから言葉をつむぐ。
「陛下から伝えるように言い渡されまして」
 視線だけで問うと、机の前にまで進み出て報告する。
「シルフィナ王女の件を進めることにした。と」
「相手はお前か?」
 報告に尋ねると目の前の男はゆっくりと爽やかに微笑んだ。
「他に適任が?」
「いっそ現実にしてしまえ」
「まあ、それでもいいのですけれど。生憎、不器用な性質もので」
「ほーう」
 どの口がいうのだと非難してもよかったが、どうやらこの状況を面白がっているのは彼自身のほうであるようだ。図らずもいつぞやそこにいる執事が口にした通りの展開になっている。それが現実になるかどうかはさておき、例え本当になっても困りはしない。
「わかった。そっちは勝手に進めてくれ」
「はい。それで、何がありました?」
 もう一度始めの質問――それも確定で――をする男に、椅子を引いて向き合う。
「母上から呼び出しがあった」
「なるほど」
 少しだけ思案してからの返事に納得がいったのか、聞き出すとあっさり「では」と踵を返し扉へと向かう。その扉の向こうに消えるのを目で追っていると、扉の向こうからふいにこちらを振り返った。
「そういえば、トラホスの姫が戻ったようですよ」
 それだけを言い残し一礼して扉を閉めた。
「まったく」
 にっこりと微笑んだ顔は、最初からそれを言いにきたのではと思わせるほど柔らかいものだった。あの大臣のああいうところは本当に兄上に良く似ていて参る。
 もう一度大きく息を吐き出すと今度は執事も声をかけてきた。
「休憩になさいますか?」
「いや。もう少ししたら後宮へ行く」
「はい」
 母のする話の内容はだいたい予想できる。アトラスに絡んだ話にはいまだに過剰の反応を示す人だ。ここまできてまだ息子の地位を案じているというのは、母親らしい反応だといえばそうではあるが。こちらにしてみれば、忌々しいの一言に尽きる。
 わざわざの呼び出しがあったのだから面会せねばならないのは当然であるのだが、時間を作ってまで会わなければならないほどではないだろう。そう思い、来る仕事をこなしていると時間はあっという間に夜になった。
「お食事はどうなさいますか?」
 明かりをつけ終わった執事が尋ねてくるのに、ようやく顔を上げ、どこか困った様子の表情でようやくそういえばと思い出す。
「母上から何か言ってきたか」
「はい。できればご一緒にと先ほど」
 おそらく昼にも同じようなことを言われたに違いないが、それはどうやら自己判断で断ったのだろう。この執事には主に母に関した面で迷惑をかけている。
 ちょうど仕事も一区切りであるし、それを執事も見越して今話を切り出したのだろう。
「わかった。食事をご一緒すると伝えてくれ」
「かしこまりました」
 一礼し部屋を出る執事の後姿を見送ってから一つため息を吐き出す。
 個人的に母に面会するのは久しぶりだ。
 大概は公の場での面会で、交わす言葉も少ない。周りの目もあるため、個人的な話はほとんどしたことはない。
「………」
 いや、個人的な話は幼い頃からしたことはなかったように思える。いつも王子としてのあり方や、そうであるように言われ続けていた。幼い頃は同じ歳のアトラスを羨ましく思ったことも何度と無くあった。
 母はこの地位をずっと狙っていたのだろうと思う。そして、今はそれに固執しているのもよく理解している。今の地位を守るためにならなんだってするだろう。さしあたっては強力な後ろ盾となる姫を迎えること。エストラーダはその筆頭ではあったが、彼女にその気が無いことと、あちら側も彼女を手放すことを良しとしないことを知っただろう。
「そう考えると次はどこか」
 椅子に深く座り込んで天井に向かって溜息を吐き出す。
 もしかしたらそのことでの呼び出しかと思考が動く。確か新たに加えられた候補の中にも他国の姫の名があったが、それほど強国の姫ではないはずだ。
 強国かどうかは別として、トラホスの背景を母が知ればどうなるだろうと取り留めのない思考に蓋をする。たとえそうだと知っても母があの姫を受け入れることはないだろう。
「リル」
 最後に会ったのは何日前だろうか。
 そういえば帰ってきたと報告があった。
「………」
 不意に浮かんだ衝動に苦笑する。
 そして不意に不安になる。
 彼女も同じように思ってくれているだろうか。
 向こうから会いにきてくれることはない。それはできないことは十分理解している。こちらから動くしかないのだが、それもできていない今の状況に、彼女はどう思っているのだろうか。
 いつか忠告に来た兄の言葉を思い出す。
「放って置くつもりはないんだけどな」
 近いうちに時間を見つけて会いに行こうと気分を切り替える。どうしたってこちらから動くしかないのだから。
 そのままにしてあった今日の分の仕事を採決済みのものと、再考のものとに分けた紙の束を箱にしまう。
 その作業が終わったのを見計らったように扉が叩かれた。
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