太陽が完全に雲で隠れる前に、明かりを持ってきたのは執事だった。
「雲行きが怪しいですので、鎧戸を落とします」
「そうか」
ここのところ諸外国との諍いが少ないため、仕事量としては少ないほうだ。それでも増える書類の山に埋もれていると、徐々に暗くなり、勝手に部屋が明るくなる。
「休憩になさいますか?」
「いや。もう少しで切りがいい」
「さようですか」
鎧戸を閉め終わったのか目の前に立つ気配に視線をやると、執事は顔を横に向けて眉を寄せていた。
「どうした?」
「いえ。雨脚が速いようです」
そう言われて初めて窓の外に目をやる。
一つだけ外の景色が見えるように頑丈な作りになっている窓に鎧戸はない。その小さな窓から見える雲は、確かにかなりの速さで流れている。
「そうだな」
背筋を伸ばしつつ、急速に真っ暗になる景色を眺めた。
「今日はスノーリル姫がエルバンス家へ行っていらっしゃるそうですが、これではお帰りになれないかもしれませんね」
ディーディランでは貴族でも雨の日の外出は避けられている。ましてや国賓となれば当然その家に足止めされるのが普通だ。
「護衛は?」
憂慮する点があるとしたらそのことだ。
「アドルとフィリオ殿が付いているはずですが」
尋ねると執事が的確に答える。その答えに少し頭痛を覚える。
「それだけか?」
「はい」
普通、国賓の護衛がそれだけなどありえない。しかし、スノーリルの国の規模を考えると、それもありえるといえばそうだ。
しかし、それにしたところで少なすぎるだろう。
これがもしエストラーダであるならば、一個小隊はエルバンス家に張り付かせるはずなのだから。
「スノーリル姫が狙われることはないでしょう。現在の我が国で"白異"を簡単に殺せる人間は少ないと思います」
どこか黒い笑みを浮かべる執事の顔を凝視する。
今現在、本当に平和だ。ついこの間まで国境での小競り合いが頻発していたが、それも静まってきている。おまけに国内の危険因子もスノーリルの一件でだいぶ沈静化されている。ここの所は貴族たちの動きもかなり平和だ。水面下に企みが動いてないとは言い切れないが、それでも、表面上は少し行動を控える貴族が増えた。
「平和なのは結構だ」
「そうだといいのですが」
仕事に戻ろうと姿勢を正したところで執事が苦笑する。
「なんだ?」
そういうからには何かあるに決まっている。執事は「小耳に挟んだのですが」と前置きして話し出した。
「陛下がクロチェスター大臣を呼びつけたと。どうやら "ニィ"ケムフェゼロ殿がいよいよ陛下に泣きついたのではないかと噂されていました」
ケムフェゼロが陛下に泣きつく事柄など一つしかない。
「シルフィナか」
「はい」
ケムフェゼロの息子がシルフィナに求婚しているのは知っている。確か初めの報告から三年が経過している。三年間シルフィナが返事を渋っている状態ではあるが、本人にその気がないのが一番の原因だと知っている。
父上もそれを知っているからこそ、あの歳になったにも関わらず、強いことは言わないでいるのだろう。しかし、泣きつかれたとなれば話は別だ。
ケムフェゼロ家はアトラスの母の実家だ。父上も相当な理由がない限り無下にできないだろう。
「面倒だな」
シルフィナをケムフェゼロ家へ嫁がせることに問題はない。シルフィナは王女ではあるが、母親の地位がそれほど高くないため、おそらく国内の貴族へ嫁ぐだろうと誰もが思っていることだ。しかし、純粋にシルフィナ自身が欲しいとは限らない。
「話が通るとお思いですか?」
「その相談にハロルドを呼んだのだろう」
「そうですね。クロチェスター家は貴族の中でも別格ですから」
ディーディラン国貴族の中で王家の血筋に一番関心がないのがクロチェスターだ。それは見事といえるほど関心がない。いや、恐ろしいほどに関心を持つ人間を知っているから余計にそう感じているのか。
「シルフィナ様の相手がクロチェスター様でしたら、問題にはならなかったのでしょうね」
その言葉に思わず執事を見やる。
「いえ。例えばの話です」
「シルフィナに、ハロルドか」
にこやかに冗談だと表情を作る執事の言うことに、無理はあってもかなり良い案ではある。クロチェスター家ならば誰も文句はないし、言いがかりをつけるほどの力が他家にあるとは思えない。
「確か、まだ結婚はしてないな」
「はい…」
「なるほど。その手があったか…」
「クロチェスター様には婚約者がすでにおられます」
「国の危機だと言えばあの二人のことだ、納得はせずとも、理解はするだろう。貴族の結婚に愛など必要ないとよく知っている。そう考えれば、話の持っていきかたによっては結婚すると思わないか? 二人が駄目でも両家を唆せば…」
実際は無理だ。あのハロルドが黙っているわけがない。
「クラウド様。本気なのですか?」
少しだけ焦った風の執事の顔をまじまじと見やる。
「無論。冗談だ」
口の端を上げて見せると、眉間にしわを寄せてこめかみを押さえた。
「真顔で冗談などおっしゃらないでください」
そんな執事の姿に少しいい気分で仕事に戻る。
「シルフィナの事は父上に任せる。何か問題があればこちらにも回ってくるだろう」
「はい。他に御用は?」
「ない」
「はい。では失礼します」
いつもの応答に、整理の終わった書類を持ち部屋を出て行った。
しばらくは通常の仕事をこなし、切りのいいところで止める。
一息つこうと人を呼んでお茶を頼む。
ガタガタと鎧戸を叩く風の音に、外の見える窓へ目をやると、執事との会話の間はそうでもなかった雨が嵐の様相を呈しているのに気がつく。
窓に近づきその景色を眺め、ここしばらくは平和だった王家問題にまた火種が生じたらしい報告を思い返す。
「アトラスは知ってるのか…」
母親の実家がシルフィナに求婚しているのは知っているだろうが、どこまでを把握できているのかは分からない。シルフィナは後宮に住んでいる。そこを考えれば間違いなくアトラスの母親がなんらかの援助をしていると考えていい。
ケムフェゼロ家に王家の血を入れるのが目的か。あるいは、もう一つ…。
自身に直結した一番の問題でもある話がまた再燃するのか。
夜のように暗くなる景色に、ふいに思い出したくない闇色が広がる。とっさに窓に背を向けるが、追い立てるようにガタガタと窓を叩く音がする。
「くそっ」
吐き気に襲われ、執事の置いていった明かりをじっと見つめて息を深く吐き出した。
まだ捕らわれている自分に腹が立ち、壁を思い切り叩く。
「結局、あなたは何がしたかったんだ…」