表側を歩くのは随分久しぶりな気がした。
裏側と表側の違いはそうないのだが、明確な違いと言えば賓客などは絶対に通らないのが裏側だ。
他にあるとしたら、特にそうと決まっているわけではないが、女官や役職にある上位貴族は表側を使う率が高い。
本来なら裏側を通るべきである侍女のミアは、少しだけ周りを気にしながら、それでも静々と廊下を歩く。粗相があっては上位貴族に何を言われるか火を見るより明らかだ。
巨大な城の中を通る比較的大きな廊下は実は薄暗い。建物自体が大きいのでその内部に外の光が届き難いのだ。それでも硝子戸など、色々と工夫を凝らしてあるが、それでもやはり薄暗い印象を崩さない。夜などはその暗さを利用してよく大臣たちや貴族たちが立ち話をしている。遠目には人が立っているのがわかるだけで、顔を判別するには彼らにもわかるほどに近付かなければならないので、ある意味部屋でこっそり話をするよりも聞かれる心配がない。
昼でも廊下に人が沢山いて、尚且つ話をしている場面はこの城では良く見かける。誰が立っていてもそれらに気を配るほどのものではなく、いや、逆に誰が立って話していても注意を向けてはいけないと言ったほうがいい。特に階級の低い者は視線を落として歩くのが普通だ。
ミアもそんなディーディラン城内の事情をよくわかっている。なので、当然誰に視線をやるわけでもなく、静かに速やかにその場を離れるようにして歩く。
今日は珍しい賓客がいるせいで沢山の人がいたが、さすがに中央廊下近くになるとその数も減って行く。謁見の間に続く廊下だけあり、城内一番の広さを持っているその廊下はやはり薄暗いが、逆にそれが威厳を感じさせ人を萎縮させる効果を持っている。
その廊下を横切ってさらに進んだ先にミアが目指す場所がある。
ここにくる間にハロルドに会わなかったし、声もかけられなかったということは、やはりアルジャーノン大臣の執務室へ向かったと考えるべきだ。
エディウス王子の準備もあるため急ぎ足で進む中、ふいに中央廊下から一人男性が姿を現した。歩いている人物には礼をしなければ失礼である。
ミアは礼を取るために一度立ち止まる。
侍従か貴族か、それとも別の人物か。見定めるために視線をその人物の顔へやった瞬間、ミアの思考は完全に停止した。
「久しぶりだな。ミア」
にこやかな笑みを湛え、背筋を伸ばし堂々とした佇まいでこちらを見る顔に覚えがあった。いや、あったどころの話しではない。もう二度と見る事はないと思っていた顔がそこにあった。
一言も発せずに呆然と見つめていると、男性は少し首を傾げてみせた。
「もう忘れたか? まだ三年しか経っていないというのに、寂しいものだな」
そう、最後に会ったのは三年前。
人生が暗転したあの日。
怒りは沸点を越えると凍てつくのだと知った日だ。
「どうして…」
口をついて出たのはその一言だ。
そう。どうして彼がここにいるのか。それが一番知りたかった。
ミアの質問に、彼は「ああ」と短く声を出し、ミアを上から下まで見ながら答える。
「アハナンの王女の使者の一人としてきたんだ」
「アハナン…」
その言葉を聞くまで自分の立場とするべきことが何かを考えられなかった。
「そうでしたか。遠路よりお越しになりお疲れでしょう。では、私はこれで失礼します」
用があるのは向こう側だが、彼の側に近付くことをせず踵を返す。
「ミア」
しかしそれも阻まれる。
つかまれた腕を振り払おうとするが彼はただ笑うだけで離してはくれない。その腕を取られたまま壁際まで押される。元々壁際を歩いていたミアである。すぐに壁に行き着いてしまう。
「久しぶりの再会にそれはないだろう? 少しは昔を懐かしんでもらってもいいのではないか?」
「貴方と懐かしむ昔などありません」
睨みつけると男性はくすりと笑う。
「その瞳、思い出すな。あの最後のひと時を忘れられないよ…ミア」
耳をなぞり不敵な笑みで迫られ拳を握る。
「私は忘れました」
「っ!」
靴のかかとで足の指があると思われる場所を思い切り踏みつける。彼の履いている靴は軍用ではない。効果はすぐに出た。
ミアの腕を放し足を押さえる。その隙にその場をあとにした。
振り返ることも謝罪もすることなく。ただひたすらに、その場から逃げ出した。
ドクドクと血液がさかのぼる音が聞こえる。
思考回路がぐしゃぐしゃだ。
とにかく一人になれる場所と考えていたからなのか、たどり着いた場所はこの城で確実に一人になれる場所だ。
与えられた部屋の扉を閉めると力が抜けた。そのままずるずると座り込む。
「どうして…っ」
それ以上声にならないように手で口を塞ぐ。
なぜ、どうして、彼がこの城にいるのか。
いや。答えは分かっている。彼が言ったのだからそうなのだろう。
でも! どうして、こんなに唐突に目の前に現れるのか。あの時、分かれたときと同じままの姿で、仕草で、声で!
三年前に捨てた感情だ。
忘れろ。
そうだ、忘れろ。
あれは全部偽りだったのだから。
「…うっ…うぅぅ…」
でも、それでも、溢れ出る感情は止められない。
あの場で喚き散らしてしまいたかった。どうしてなのだと、なぜ裏切ったのだと。
「姉上…」
ごめんなさい。ごめんなさい。
三年前の感情がミアという器の中で渦を巻いて、自分が誰なのか、今がどこなのかもわからなくなる。
自分の中に、まだこんなにもあの時の感情が残っているとは思わなかった。
「ふっうぅ…」
唇を噛み締め、口を塞いでも両手の間から嗚咽が零れる。
「ミア?」
突然割り込んだ声に反射的に視線を上げる。
涙で視界はひどく悪い。顔など全く見えないが、それでもそこに立っている人物が誰なのか認識するには十分だった。
「なんだ…どうした?」
驚いたように近付いてくる人物にミアも十分驚いた。
「どう、した、では……ありません。こんなところにいていいのですか!?」
目の前に現れたのは紛れもない、この国の皇太子だ。
彼は今アハナン国からの使者と対面しているはずだ。そう、廊下で会ったのはその使者なのだから。
「ああ、あれな。国王命令で出なくていいことになった」
「それが、どうして、ここにいるのですか」
ここはミアに宛がわれた部屋である。もちろん皇太子が出入りしてはいけないということはないが、それでも、女性の部屋に無断で立ち入ることがどういうことか分かっているはずだ。
「ここなら誰も来ないと思ってな」
視線を逸らして軽く息を吐き出す。
「それで? ミアはどうしたんだ」
ぐしゃぐしゃの顔であることにはたと気がつく。それを両手でぬぐって、とりあえず立ち上がる。
「何でもありません。あまりに懐かしい顔に会ったので、感情が言うことを聞かなくなっただけです」
あまりの驚きに涙はすっかり引っ込んだ。立ち上がると少し膝が震えるが、なんとかごまかした。
「お茶でも飲みますか?」
「……ああ」
じっと見つめてくる視線にとりあえず笑い、退室の口実を作る。この顔をなんとかしなければならない。
給仕の道具はここにはない。この侍従室から給仕室まで当然近い。
今は皆賓客の相手で大忙しなのだから、こちら側はおそらく人も少ないに違いない。少しくらいこの顔を晒しても大丈夫だろうと扉に手をかけ開く。その手を押さえる手が一つ。
「先に部屋に行く。後から来い」
こちらを見ずにそれだけを言って脇をすり抜け去って行く。
ぱたりと静かに閉まった扉をしばらく見つめていたが、はっと気がつく。
この部屋にも洗面の道具はあるのだが、それは部屋の奥。ベッドの側である。それを察して出て行ってくれたようだ。
ミアは急いで顔を洗った。少し目が赤いがなんとか大丈夫だろう。洗面器にぽたりと落ちた雫が涙のようだと他人事のように見つめたが、あれをエディウス王子はどう思ったのだろうと考える。
「説明、しないと駄目かしら」
正直あまり話したいことではない。
三年前。あの時のことはもう終わった事でもあるし、思い出したくもない。立ち直るまでに周りの人に多大な心配をかけた。
「ローズ様のことを言えないわね」
過去をいまだ引きずっているのは自分のほうだ。
愛しい人だった。好きだった。だから、どうしても許せない。
何よりも、自分が。
気を抜くと涙が溢れる。
鏡を覗き込んでしっかりしろと自分に言い聞かせる。
水に濡れた顔を拭き、給仕室へ向かう。
あの問題は終わったのだ。あれからどのくらいの時間が流れているかを冷静に考えろ。整理するには十分な時間だ。
気をしっかり入れ替えてお茶の準備をする。
大丈夫。あの時と違い、自分は世間というものをよく知ったはずだ。
皇太子の部屋への廊下にあの衛兵がいる。それに挨拶をし、廊下を歩く。
大丈夫。いつもと同じだ。
扉を前に深呼吸をして扉を叩く。
入室許可の声に返事をして部屋に入った。