ディーディラン国。ここは大国と呼ばれて久しく、正統な血脈のない王家だと知られて久しい。
しかしここ四代は同じ血脈の王家が支配している。ようやく安定してきたと言っていいだろう。しかし、次の五代目継承に問題が起こっている。
正妃の子が皇太子となるこの国の制度に問題があるのだが、それも人のいい皇太子のおかげで解決しようとしている。
現在の正妃の子であるクラウド王子が、ようやく兄である前正妃の息子、エディウス皇太子の言い分を飲んだのだ。それを受け、大臣たちはクラウドを皇太子にすべく動き出している。
それでもまだエディウス皇太子に裁決が必要な場合もある。
「エド、いるか」
今日も一つ皇太子の裁決のいる書類があって私室まで持ってきた。
皇太子としての仕事をしないと、周囲に示すために私室にひきこもるようになったエディウスは、いつも本を読みふけっているため返事も待たずに扉を開ける。
扉を開けると、ここ最近エディウスに付いた侍女であるミア・メディアーグが驚いたようにこちらを向いた。
座ったエディウスの手元を見ればどうやらお茶の時間だったようだ。
「私はこれで失礼します」
用があるのを見てとり、ミアがエディウスに退室を告げる。
「ああ」
「悪いな」
俺の言葉に微笑んで会釈して去って行く。
完全に扉が閉まるのを見届けてからエディウスを見下ろして、たった今感じた疑問を口にする。
「いつもなのか?」
失恋してからこのかた、女にいい記憶のないエディウスはここ最近は女を避けている。というより、完全に女性不審というやつだ。それが一つの部屋に二人きりで、どうやら話をしていた様子。これは大きな進歩だ。
「ここに居れば」
「優秀な侍女でよかったな」
話には聞いていたが、ミアはかなり優秀な侍女であるようだ。この朴念仁…いや、甲斐性無しに文句の一つも言わず、また言わせずにいるあたり相当な玄人であるというべきだ。
エディウスに仕事を押し付けてそんな事を考えていると、ふと視線があった。
「何か問題でも?」
一通り目を通してある書類だ。問題点があれば持ってはこないし、目を通したからこそ持ってきている。
「ミアとは昔からの知り合いなのか?」
「なんだ、突然」
「突然か?」
「いや、今更だな。この俺がメディアーグ家のお嬢さんを知らないわけがないだろう?」
にやりと笑ってやると、やはり嫌な顔をした。
「ハロルド」
名前だけで不機嫌を伝える声に笑うと「もういい」とすぐに諦めて紙面に視線を落とし、ペンを走らせる。
「どこまで聞いた?」
「お前がミアの姉と婚約していたというところまでだ」
数枚ある紙面を読みながらこちらの質問にさらりと答える。こういう所は兄弟よく似て器用だ。
「四年前のことだ。あの頃はお前、自分のことで手一杯みたいだったからな。というよりは、あまり現実的な話じゃなかったな」
「メディアーグだろう?」
当時メディアーグ家は、"ニィ"という地位に加え、名門と言われる古い家柄である。"イーチェ"クロチェスターとの婚姻はおかしくはなく、世間も親族も大乗り気だったのだが、当の本人にその気がなかった。ハロルドも、ミアの姉も。
「それに、あの当時俺にはかけもちで色々といたからな」
「………」
じろりと睨みつけてくる目が「当時?」と言っている。それにはいつものように笑ってやる。
「ミアの姉…リディアにも好きなやつがいたしな。俺はてっきりそいつと結婚するんだと思っていたんだがな……」
ひらりと紙面がめくれるのをなんとなく見ていると、その手が止まったのに気がつく。視線を上げると若草色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。ただじっと、こちらを見ている瞳は幼い頃からよく知っている。こちらの傷を本人よりも先に見つける目だ。
思わず苦笑がもれる。俺もまだまだだな。
「ミアのほうが重症だからな。無意識に傷つけたくないならこれ以上は言わない」
「そうか」
言外に聞きたいのなら聞かせるぞと含ませるが、それだけでまた仕事に戻る。
「ただなぁ。俺はミアがこのまま一人でいるつもりでいるのが可哀想でな」
あの事件以来。ミアは人を、特に男性を出来る限り避けて暮らしていた。後宮に収まったと聞いたときは内心ほっとした。あのまま放っておいたら修道院にでも入りかねなかったからだ。
「俺がお前に忠告する事があるとしたら、無理に近付くなってことくらいだな」
そんな心配はないと思うから今回の話も進めたんだが、そこは本人たちに言う必要はないだろう。
若草色の瞳が言葉を飲み込めないように瞬いたが、その上にある眉がよる。
「お前、俺になにか隠してるだろう」
「ああ。なんだと思う?」
頷いてやると不機嫌そうにまた紙面に視線を落として、また一枚ひらりと紙面をめくりペンを走らせる。
「俺にはお前の真っ黒な腹の中を探るほどの気力はない」
「もてよ。楽しいかもしれないぞ」
「そうか」
投げやりな声に笑ってやると紙面をめくる手が止まった。
「おい」
「何か問題でも?」
最後の一枚。そこに書かれている内容はもちろん知っている。
「なんだ、この皇太子婚約というのは。俺のことなのか?」
もちろん、現在の皇太子はエディウス王子である。それでも確認してくるのは、今その皇太子の座が大きく変わろうとしているからなのだが、それは国内の人間でもかなり限られた人物しか知らない。国外の人間が知る由もないことなのだ。
それくらい当然目の前の皇太子殿下がわからないわけもないだろうが、聞いてくるくらいには意外な話だったようだ。
「別におかしくないだろう? 相手はアハナン国の第一王女。かなりの美人で有名らしいが、異称は聞かないな」
異称のある姫はそれだけで商品価値が上がる。アハナンの王女は美人だとは聞くが、異称がないということはその程度だということだろう。
「それについてはおかしくはないだろうが、なぜ、ここにその話が上る?」
「ああ。陛下が直接聞いてこいって言ったらしいが、さすがに直接聞くのは憚れるっていうんで、提案してみた」
「お前のせいか」
額に手をやってため息をつくと紙面をじろりと睨む。
「俺に決断権があるということは、一応受けろということか」
「だな」
王が受けるのと、皇太子が受けるのでは話がまるで違う。
王の決定は国の決定だ。皇太子が否と言っても是で通ってしまうが、皇太子の決定ならば簡単に覆す事ができる。王が否と言えばそれで終わる。
つまりここにその話がきたという事は、王としては受けたくない話であるが、受けて欲しいということだ。つまり探りたい裏があるのだ。
「クラウドは知ってるのか」
「ああ、話した。アハナンって聞いた時点で目つきが変わった」
睨みつけていた紙面を机の上に放ると椅子に背を預けて腕を組んだ。
「……定期船か」
「間違いなく」
さすが、皇太子であるだけはある。
アハナン国はここディーディラン国からかなり遠い国だ。しかし、それはシェハナ海を渡ることで解消されている。その船について以前から問題が持ち上がっている。アハナン側曰く、なぜトラホス国への定期船がアハナン以上に出ているのかということだ。
トラホス国はアハナン国より遠く、アハナン国よりも小さく資源が少ない。そんな弱小国へ頻繁に船が出ていることが気に入らないのだろうし、その分をアハナン国に回してもらえればアハナン国はもっと潤うという思惑が見え隠れする。
しかし、思惑があるのは何もアハナンだけではない。
「トラホスへの定期船は止めるわけにはいかない。彼らに他の港を利用されるのも困る。我が国の最大の利点を他国に取られるわけにもいかない。アハナンはさて、どこまで知っているのか。いや、もしかしたら…」
「クラウドも同じことを考えている。アハナンは"太陽王"の意味を知ったのではないか」
トラホス国の国王は昔から「太陽王」という異称で呼ばれている。それ自体は特に問題はないのだが、その言葉の裏に隠されている歴史は意外に深く、そして国として無視できないものだ。
「ギャレル=ロッシュがなくなった今、一番の脅威だが」
その利用価値は金にも勝る。
「トラホスは平和主義だしな」
「そうでなくては困るし、そうだからこそ、今が成り立っている」
情報を操る彼らを怒らせた場合、何が起きるのか想像もできない。
「アハナンは王女と引き換えに我が国をもぎ取りにきたか」
皇太子の声にはどこか馬鹿にした音がある。
「クラウドはもっと辛辣だぞ」
現在勉強中である王子曰く、「どれほどの美女か知らないが、王女一人など安いだろう。アハナン国王はここには後宮があることを忘れているんじゃないのか? 一族郎党の女を集めてもまだ足りないくらいだと言ってやればいい」と、無表情に言ってのけた。
それを聞いた皇太子は投げやりにこちらに視線を投げた。
「俺はどれほどの女たらしだ?」
「あっははは!」
爆笑するハロルドを横目に一つ息をつくと、すらすらと署名し、印を押す。
「まあ、いずれはくる問題だ。ここで片付けておいたほうがクラウドのためだろう」
「今この時期にこの話がきたことに俺は驚いたけどな」
その指摘にエディウスは紙面をハロルドに渡しながら眉を寄せる。
「なるほど。それなりに情報は洩れているわけか」
「まあ、それなりに」
にやりと口の端を持ち上げてから退室する。
廊下を歩きながら紙面の署名をなんともなしに見つめた。
「少し忙しくなるかな」