午後になり、ミアはそろそろかと手にしていた繕い物をやめ立ち上がった。
今日はどうしても出なければならない公務はないようで、一日中エディウスは私室に篭っている。こういうときは読書を邪魔されたくないだろうと、水差しを用意してあとは給仕室か、自室になっている侍従部屋にいる。
それでも決まった時間には暖かいお茶を運ぶ。
ほぼ毎日この繰り返しで、エディウスの好みもだいぶ覚えてきた。
給仕室に向かい、お茶を淹れて私室の扉を控えめに叩く。返事はないので勝手に入り、姿を見つけてから声をかける。
読書に没頭しているため、そうとう近付いてからでないと気がつかないのだ。部屋の外で返事を待っていては一日中部屋の外にいることになる。
だいたいいつもいる椅子にその姿、濃い灰色の頭を見つけて声をかける。
「エディウス様。お茶をお持ちしました」
声をかけながら用意をしていたが、いつもくる生返事がない。
それほど没頭しているのかと思ったが、いつもとどこか様子が違う。
「エディウス様?」
どうかしたのかと前に回りこんで思わず微笑んだ。
本を開いたままの状態で居眠りをしていた。難しそうに眉を寄せているのがなんともエディウスらしいと思えるのはなぜだろうなど思いつつ、日の光が眩しいのだと気がついた。
窓近くにある椅子なので、横からの光がまともに顔に当たっている。眩しいだろうし、ずっとここにいたのなら暑いだろう。
起こさないように気をつけながらカーテンを引き、少しだけ窓を開ける。温まった部屋の中に吹き込む風は少しだけ涼しくなっている。年中穏やかな気候の国ではあるが、それでも季節の移ろいはある。
そろそろ雨の日は少し肌寒いだろうか。ひざ掛けを用意しておこうなど考えながら窓の外に目をやっていたのであるが、一度強く風が入り込んだ。
後ろでばさりと音がして、慌てて窓を閉め振り返ると一冊、本の表紙がめくれてしまっていた。
今の音で起きたかと思ったが、あの程度で起きる人ではないと苦笑した。
本を元に戻し、持ってきたお茶をどうするかと思って立ち去ろうとすると、エディウスが身じろいだ。
起きたのかと思って立ち止まるがどうやらそうではないようだ。
「あ」
動いたせいで開いたままにしてある本が落ちそうだ。というか、そのままゆっくり膝から落ちていっている。
落ちきる前にその本を持ち上げて机に置く。
「!?」
その瞬間に腕を引かれ、ぽすんとエディウスの腕の中に納まった。この行動に覚えがあり、どうしたものかと息を吐くと、抱きしめている腕がわずかに上に持ち上がって固まった。
「ミア?」
どうやら一発で覚醒したらしいエディウスが確認を取ってきた。
「はい」
返事をすると頭の上から特大のため息が落ちる。
「すまない」
腕を解いて謝罪を口にするエディウスから離れ、首をかしげた。
「今日は二度目です」
「…そうだな」
「今までこんな事はなかったです」
「ああ。そうだな」
苦虫を噛み潰したような顔で、もう一度ため息を落とす。
寝ぼけていることはよくあるが、抱き込まれた事は今まで一度もない。
いつもと今日とで何が違うのだろうか。座っているエディウスも同じことを考えている様子だった。
「お茶をお持ちしました」
「そうか。もらう」
「はい」
当初の目的を口にしながらも考える。
お茶の用意してある場所へと二人で移動し、席についたエディウスにお茶をいれ、ポットを持ったまま考える。
「夢でも見ましたか?」
「いや」
朝はそれに近かっただろうが、今はそういう感じではない。
「他にも同じ事がありましたか?」
「いや。ない」
つまり、ミアがくる以前の女官たちへの行動である。しかし、それはきっぱり否定されてしまう。もしかしたらこういう無意識の行動が彼女たちを勢いつかせたかたとも思ったのだが、それはないようだ。
今朝の出来事を考え、おそらく今もイレーヌと間違えたのだろうことはミアにもわかった。が、ミアとイレーヌでは全く似ていない。
立場はもちろん。声も容姿も、全てが違う。勘違いする要素など全くないのだ。
「暑いな」
「窓開けますね」
先ほど開けた窓は閉めてしまったため熱が篭っている。
別の窓を開けにいき、戻ってくるとエディウスが妙な顔でミアを見ていた。
「? 何か?」
おかしなものでもあったかと窓の外を見て、自分がおかしいのかと服装を見てみたが特に何もない。そんなミアの行動をエディウスがじっと見つめていたが、ふと視線をそらして呟いた。
「香水か」
「はい?」
ぼそりと呟かれた言葉に首をかしげる。
ミアは香水を使わない。それはエディウスが嫌いだからと知ったからだ。
「あ!」
そういえば昨夜、香水をぶちまけ、それがドレスについた。それは洗って匂いが抜けるまで使えないなと思いながら、部屋に吊るしたままになっている。
「そうです、香水の移り香です。申し訳ありません」
「いや。謝る必要はない」
頭を下げて謝るミアに、エディウスが首を横に振る。
「ミアは不思議だな」
ほんのり微笑んでお茶を口にするエディウスを見て、ミアは目を瞬いた。
昨日も同じことを言われたが、結局その答えをもらっていないため何が不思議なのかさっぱりわからない。
問おうとして口を開くが、扉が叩かれる音がした。
「エド、いるか」
返事も待たずにそう言って入ってきたのはハロルドだ。ミアを認めると眉を少し上げて見せる。
「私はこれで失礼します」
「ああ」
「悪いな」
二人に見送られてエディウスの私室を後にし、まっすぐ侍従部屋へと向かい、部屋に入ると真っ先に窓を全開にした。
「イレーヌ様は香水が好きだったのかしら?」
だからエディウスは香水が嫌い。彼女と勘違いしてしまいそうだから。
そう考えると、女官たちには同じ行動をしなかったというエディウスの答えは嘘か。あるいはそれほどいつも気を張つめていたのか。どちらにせよ気を緩める時間はあまりなかったのだろうと予想できる。
「気をつけないと」
ミアがエディウスの侍女でいるのは、余計な気遣いをさせないためである。
一度息を落としてやりかけの繕い物を再開した。