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06
 いつもと同じように主の部屋に入る。
 すでに見慣れてしまった本の山にため息を落とすのも、もはや日課だ。
 何でも自分でする主の一つだけ苦手なこと。それは朝定時に起きるという、働く人間ならば誰でもすることだ。まあ、その原因になっているのは夜な夜な築かれる本の山のせいではあるのだが。
 ミアはここ一週間やっている同じ行動を開始する。
 つかつかと薄暗い部屋を横切り、朝の爽やかな光を遮っているカーテンを勢いよく開くのだ。
「おはようございます。エディウス様」
 振り返りあいさつをするが、主はやはりいつものようにまだ夢の中だ。今日は片手に本をしっかりと納めたまま寝ている。
 もしかしたら全部暗記してしまったのではないかと思えるほど、呆れるくらい毎日、毎晩、暇さえあれば本を読んでいる。
「できれば山にはして欲しくないわね」
 文字通り。山なのだ。せめて片付けやすいように積み上げて欲しい。
 今日もそんな山を片しながら主の起床を促す。
「エディウス様。起きて下さい。ハロルド様がきますよ」
 最近この文句でも起きなくなってきている。開き直ったのだろうか。
 山を十冊ずつの束にして、一つ息をつくがまだ主は夢の中。いつもはエディウスが起きてからするのだが、窓を全開に開け放した。
「エディウス様。起きて下さい」
 朝の涼やかな風がふわりと吹きぬけ、部屋を満たしていた夜の気だるい雰囲気を拭い去っていく。
 これは少し効果があったのか、エディウスが小さく唸って寝返りをうつ。その時に手にあった本が床へと落ちる。かなり派手な音を立てて落ちたのだが、その音にも目を覚まさない。
「いったい何時まで読んでたのかしら」
 呆れながらも落ちた本を拾い、ベッドの横にある小さな机に本を置き、もう一度声をかける。
「エディウス様。いい加減に起きて下さい」
 するとミアに背を向けた状態だったエディウスが、仰向けになってゆっくりと瞼を持ち上げる。妹のローズアンナと同じ若草色なのだが、エディウスのほうが少し濃いだろうか。寝ぼけて焦点の合わない視線をミアに向ける。
「おはようございます」
 にっこりと笑顔であいさつすると、エディウスが何かを呟いた。
「はい?」
 掠れた小さな声だったのでまるで聞こえず、ミアは少し顔を近づけて尋ね返した。
「ぃ………?」
「なんですか?」
 何か質問されているようなのだが、やはり掠れた声で何を言っているのか、はっきり聞き取れない。ベッドに手をついてもう一度尋ねるといきなりその手をつかまれた。
 あっと思ったときにはベッドの上。エディウスの腕の中にいた。
 どうやら寝ぼけているようだが、さてどうしたものかと逡巡した時、耳元で囁かれた言葉に、先ほど何を尋ねてきたのかを理解した。
「イレーヌ様はカシュレダ国のボーレフ家へ行きましたよ」
 返事をしたミアをおそらく勘違いして抱き込んだのだろう。イレーヌとはエディウスの想い人だった女性だ。
 ミアの説明が聞こえたのか、ふいに抱き込んでいた両腕が緩くなり固まった。
 少し上を見上げるとまだ覚醒しきっていないエディウスの瞳とであい、ミアはにっこりと微笑んだ。
「おはようございます。エディウス様」
 そうあいさつすると、弾かれたようにエディウスがベッドの端まですっ飛んだ。
 あまりの勢いにミアはぽかんと、驚愕してこちらを見るエディウスを見た。
「……何か、したか?……」
 その表情がものすごく驚き、尚且つ動揺しているのにミアはやはりぽかんと見つめたが、ふいにその台詞の意味に顔を歪めた。
 上半身だけを起こしてエディウスを見ていたミアが、突然ぼふっとベッドに突っ伏し肩を震わせる。
「…ミア?」
 何かに耐えるように両手は固くシーツを握り締めている様子に、始めは心配を含んでいた声が今度は不機嫌な色に染まる。
「ミア」
 エディウスがもう一度低い音程で声をかけると、ようやくミアが顔を上げた。
「す、すみません。いいえ、はい。大丈夫です。え、エディウス様は、まだ清らかなままです。ええ…うくくっ……すみませんっ」
 最初は平静を装い目を伏せて報告していたが、途中から堪えきれないというように口元が歪み、最後には結局笑い出してしまった。
 声を抑え、顔を真っ赤にして涙を流しながら笑うミアに、エディウスは眉をピクリと震わせ何かを言おうと口を開くが、結局盛大なため息が洩れただけだった。
「ミア…」
「すみません。洗面の用意はできています。今日もハロルド様は一緒に朝食をとると言っていましたよ」
 ようやく落ち着いたミアはベッドの上で姿勢を正し、エディウスに答える。
 それを受けてようやくエディウスもベッドから降りていった。
 部屋を出るまで見届け、扉が閉まるとミアはもう一度ベッドに倒れこんだ。
「…はぁ…びっくりした」
 まだドキドキと脈打つ心臓に手をあて、落ち着くように息を吐き出す。
「まだお好きなのね」
 耳元で囁かれた言葉。
 ――イレーヌ。
 愛しそうに、切なそうに。幸せそうに、耐えかねたように。熱い吐息と共に囁かれた名前。
 全く違う名前なのに、勘違いしそうなほど愛しさが込められた声だった。
 そしてぼんやりと思う。
 自分はそんな風に名を呼ばれた事がなかったと。
 やはりアレは偽りの上にあった愛に過ぎなかったのだと。
「終わったのよ。ミア」
 言い聞かせるように呟き、一度目を閉じた。
 それからむくりと起き上がり、ベッドを整えて居間に行く。テーブルの上にいつの間にか増える本を本棚へと戻していると、部屋の入り口から声がかかる。
「おはようございます」
 今日もやってきた貴人は朝食を手にしている。
「おはようございます。いつも申し訳ありません」
 本来なら侍女であるミアがする仕事であるのだが、ついでだからといつもハロルドが持ってくる。
「ミア。引越しは済んだのか?」
 朝食を受取りながらその質問に頷いた。
「はい。あの、それで」
「一人より二人、二人より三人のほうが楽しいだろう?」
 妙に爽やかな笑顔で言われ、ミアは束の間沈黙した。
「…否定はしませんが」
「なら、よし」
 一応昨日のエディウスの様子から、言っておくべきことを言おうとしたのだが、そこはハロルド・クロチェスター。さすがというべきか、何も言う前に先手を打たれてしまった。
 朝食を並べ終える頃にエディウスが現れ、いつものように暖かく賑やかな食事が始まる。といっても、実情は爽やかな毒吐きに冷たい視線が飛ぶあまり居心地のよいものではないのだが。
 
 そんな食卓にいてふと最近感じる事があった。
「どうして朝食にこだわるのかしら?」
 食器を下げて、給仕室で仕事をしながら呟く。
 それはハロルドの妙なこだわりである。昼食は忙しいので無理だろうが、夕食を一緒にとることはない。なのに、朝だけは必ず顔を出して賑やかに食事をしている。
 始めはエディウスのためなのだろうと思っていたのだが、ハロルド自身がそれにこだわりがある気がしてきたのだ。
「でも、二人では食べないのよね、きっと」
 いや、おそらく二人では無理だろう。
「何か悩み事?」
 ため息を落としながら洗濯もの出していると、同じく洗濯物を出しにきた侍女に尋ねられる。
「ジェシカ。いいえ。悩みというほどではないです。素朴な疑問とでもいいますか」
 ミアより年上で同じく没落貴族であるジェシカの声に少し苦笑して答えた。
「貴女も大変ね。腹黒狸と根暗王子の間に挟まれて」
「ジェシカ…」
 あまりの物言いに、さしものミアもどう反応すべきかを躊躇った。
 ものすごく美人なのだが、どうも辛口で、その上思ったことをはっきり口に出す性格のせいか、男性はあまり近付いてこない女性だ。
「それで? その素朴な疑問とやらって?」
「ハロルド様の行動です」
「腹黒狸?」
 はい、と言いそうなって、ミアは苦笑してただ首肯した。
「あの男の考えてることなんかわからないわ。わかっても面白くないだろうし。…でもミアは気になってるのね?」
「はい。どうして朝食だけは欠かさずエディウス様と一緒にされるのかと思って」
 さすがに自分も同じ卓を囲んで食べているとは言い難い。
「ミアがいるからじゃないの?」
「私、ですか」
「ええ。そう」
 当たり前のように頷かれたが、ミアは全く意味がわからない。ジェシカの様子だと普通の侍女がするような色恋沙汰を想定してはいないようだ。だからこそ余計にわからない。
 そんなミアの心がわかったのか、ジェシカは長い睫毛を伏せて顎に手をやって話し出した。
「エディウス様のこれまでの話は聞いているでしょう? その影響もあるだろうし。それに、ミアの過去をよく知っているもの。心配なのよ、きっと」
 決して核心を衝かない言葉を使うジェシカの優しさにミアは微笑んでみせた。
「そうですね。確かに、毎朝ハロルド様がきてくれるとわかっているのは、心のどこかで安心できます」
 同じように家が没落し、侍女となったジェシカはミアが侍女として働き出した時にとても世話になっていた。仕事のこともそうであるが、過去も含め、良き相談相手である。
「まあ、飽きるまで付き合ってやりなさい。それが苦痛なら「同じ席にいると食が進まない」とでもいってやればさすがの腹黒狸も止めるわよ」
 同じ席について食事をしていることは、さすがにあまり知れ渡ってはいないのだが、ジェシカはしっかり知っているようだ。
「わかりました。ありがとうございます」
「いいえ。私の可愛いミアが泣くのは嫌だもの」
 姉のように心配してくれるジェシカに、ミアはもう一度感謝を口にする。
「ありがとう」
「ん」
 微笑むミアに、ジェシカも微笑んで頷いてくれた。
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