侍従部屋の片付けが一通り終わり、女官長への報告も終えて侍従部屋へ帰る途中の廊下で呼び止められた。
「ミア! 待ってください」
振り返ると王城の侍女部屋で同室だった侍女が一人、満面の笑みでかけてきた。
「イリア。元気だった?」
「ええ、もちろん。ミアも元気そうでよかったです」
ふわふわの亜麻色の髪の彼女は、現在ミアの後任としてローズアンナの侍女をしている。後宮詰めになった彼女と、王城詰めになったミアとでは会う機会がほとんどない。
「こんなところで何をしているの?」
当然出た質問に、イリアと呼ばれた侍女はにっこり微笑んだ。
「ちょっとお使いで。そんなことより! 今、香売りが来てるんです。ミアも見ていきません? 後宮からの帰りだから、姫様方の残りですけど」
ちろりと舌を出して笑ってみせる。可愛らしいイリアにミアも微笑み返し、一緒に商人専用の通用口を目指して歩き出した。
「ところで、聞きましたか? クラウド王子の噂なんですけど」
歩きながらイリアは仕えるローズアンナの相談をし、ミアが適切な助言をしたりしていたのだが、ふとイリアが後宮に広まる噂話をし始めた。
「近頃クロチェスター様とお仕事をなさっているらしいのですけど、侍従の間でもしかしたらクラウド王子が皇太子の座を狙って、クロチェスター様を引き込んでいるのではないかって噂です」
ミアはその話に隣を歩くイリアを注視した。
「聞いた事ないわ。その噂、いつからあるの?」
「えっと。私がローズ様のところに行くようになった時にはもうありました。ただ、クロチェスター様の名前が出てきたのはここ二日くらいです」
「そう…。でも、クラウド王子が皇太子になるのに、どうしてクロチェスター様なのかしら?」
「クロチェスター様は皇太子殿下の補佐だからじゃないですか? ここ最近はクロチェスター様とクラウド王子で公務のほとんどをされてますし、そういう噂が流れてもおかしくはないみたいですよ」
にっこり微笑んで話すイリアは優秀だ。決して自分の意見であるとは言っていない。ただの噂で、周りの見解を話している。遠まわしに告げてはいるが、しかし、ミアに話しをしているのはイリアの意思だ。
「私たちの間では、クロチェスター様の次の餌食にクラウド王子が狙われているなんて噂にもなっていますよ」
そう悪戯っぽく笑いながら、話を上手く冗談にすりかえる。
その後も後宮に広がっている噂話など尽きることなく話しながら歩いていた。
すると、女性たちの忙しない声と一緒に、ふわりと良い香りが運ばれてきた。
「先客が結構居ますね」
「まだ少ないほうでしょう」
時間はちょうど夕食時であるため、決まった主のない侍女や、ミアのように休みをもらっている侍女しかいない。
ミアたちが現れたことに気がついた商人は軽く会釈する。
その様子に侍女たちも気がつき、ミアたちを振り返ってそれぞれ声をかけてくる。
「ミアさん。イリアさん。お久しぶりですわ。さっそくですけど、後宮ではどれが人気があるのかしら?」
「後宮で売れてしまったのはもうないですよね」
「女官に人気があるものでしたらいくつかあると思いますよ」
こういった香や化粧品、宝石類や装飾品は一番に後宮へと運ばれ、姫たちが買い、取り巻きの女官たちが買い、その後ようやく侍女たちのもとへやってくる。イリアの言った台詞は侍女たちなら誰でも思っていることだろう。
そして、後宮詰めである侍女は限られているため、王城詰めの侍女たちは後宮の姫たちの流行を真似ようと、ミアやイリアを情報源にしている。
あれこれと流行している商品に近いものや、誰が使っているなど話しながら自分に合うものを探していく。侍女とはいえさすがは貴族である。
「ミアは何か買います?」
「いいえ。私は今回はいいわ」
「そうですか」
主である人物がおそらく香の類はあまり好まないのではと思うのだ。半ば付き合いできたミアは夕食もまだであることを思い出し、少し離れたところにいるイリアにそろそろお暇を告げようと歩き出したとき、小さな悲鳴と硝子の落ちる音がした。
ミアは何事かとそちらに顔を向けた瞬間、むせ返るような強烈な匂いに襲われた。どうやら誰かが香水の瓶を落としたようだ。
「ミアさん! ごめんなさい。あの、ドレスの裾に…」
「ああ、大丈夫よ。このくらいならシミになってもわからないから。それより換気、換気」
強烈な匂いを逃がすために通用口を大きく開けさせ、できるだけ扇いでみたが、もうすでに鼻がおかしくなっている。これでは商売もできないからと、商人も苦笑しつつ帰っていった。
「悪いことをしましたね」
「一日で取れるでしょうか…」
「水を撒いたほうがいいかもしれないわね」
「女官長に見つかったりしたら」
「ダメよ! そんな恐ろしいこと考えないで!」
立場の違いや年齢の幅により、一番に気にする事は様々である。
そんな侍女たちを見て、ミアはイリアにお暇を告げた。
「そうですね。では、また」
「ええ、困った事があったらいつでも相談してね」
現在後宮にいるイリアがわざわざミアを香売りに付き合わせたのは、ローズアンナの相談がしたかっただけなのだ。それは経験上すぐにわかったのだが、通用口に行くまでの時間を利用したのは、おそらくミアの今の立場――唯一の皇太子付きの侍女であること――を考慮して、迷惑の及ばないようにとの配慮だ。
その中で、ミアに知らせておいたほうがいいと判断した後宮の噂を、飽くまでも噂として話してくれた。
可愛らしい外見だけじゃなく、侍女としても優秀であるイリアをローズアンナの侍女につけた女官長の目は確かである。
ミアの言葉にイリアもにっこりと微笑んで答えた。
「はい! ありがとうございます」
騒がしいその場を去り、侍従部屋へとりあえず戻る途中、渡り廊下の窓から流れる空気がやたらと新鮮で、思わず深呼吸をしてしまった。
「明日は大変かもしれないわね」
香にも色々種類があり、粉や練ものだったならあそこまで酷くはなかったのだが、水は一気に香りが広まる。その分匂いは飛びやすいが、さすがに当分は開け放しておかねばならないだろう。
つまり、絶対に女官長にばれるのだ。
間違いなく、あの通用口はしばらく使えなくなる。
部屋につき、とりあえず食事にしようかと思ったのだが、匂いにあてられそんな気分もどこかへ行ってしまった。とりあえずドレスについた香を洗い流し、寝ることにした。
ベッドに横になりイリアの話してくれた噂話を思い出す。
「ハロルド様が、クラウド王子と仕事」
エディウスが引きこもり、仕事をほとんどしなくなったのは二ヶ月、いやもう三ヶ月前になる。
「エディウス様は知っているのよね。きっと…」
侍従が話しているくらいの噂だ。いくら引きこもりであってもあのエディウスが、ハロルドと弟の行動を知らないとは思えない。
ふとエディウスの声が蘇る。
「だから俺は皇太子には向かない……か」
エディウスは間違いなく継承権第一位である。それは揺るがない事実だ。
しかし、現在の王妃はクラウドの実母で、エディウスの実母ではない。
母親の地位が大きいディーディランでも、さすがに前正妃の子であるエディウスが突然その地位を奪われる事はない。継承権第一位という地位はそう簡単に動くものではない。
暗い部屋の天井を見つめ、そんなことを考えている自分にふと呆れ、ミアは目を閉じた。
「私にはもう関係ないわ」
補佐官である"ニィ"メディアーグはもうどこにもいない。侍女でしかないミアがそんな事を考える必要もどこにもない。三年前、姉が亡くなったあの時に全てを凍らせた。
「私には関係ない」
言い聞かせるように、噛み締めるように呟き、静かな闇に意識を溶かした。