朝食を食べて、迎えに来てくれるカタリナを待つつもりだったが、日が昇るちょっと前に城の使いだという人物がやってきて、あの木の場所で待っていると伝えてきたらしい。
「男の人だったわ」
ウィルナーがそういうのに、もしかしたらトーマスかもと思った。わかったと頷いて家を出ようとするとクライブが少し考えた顔をしてから一緒に家を出る。
「俺も一緒に行こう。港まで行く通り道だから」
ケリーとは家の前でお別れをした。そうしないと別れがつらくなりそうだったし、こちらの身分も知られるがいやだった。
「またね」
それだけ言葉を交わして別れた。再会を約束するその言葉が嬉しくて涙が浮かんだけど、泣くわけにはいかない。だから思いっきり笑顔でうんと頷いて、クライブと一緒に歩き出した。
少し歩いて大きな木が見えてくると隣を歩いているクライブが話しかけてきた。
「いつもくる人は女性かな?」
「はい」
カタリナという名前で男性はまずいないだろう。おかしな質問だと思いながら答えると、見上げた視線に気がついたようにクライブがノリンを見た。
「ウィルナーは男性だって言っていたけど」
「はい。もしかしたらトーマスかもしれません。えっと、護衛の人です」
少し首を傾げてみせたクライブにそう説明すると一つ頷いてくれた。
「それならいいんだけど」
話をしているうちに大きな木の近くまで来た。男性が一人立っている。
こちらに気がついて少し駆け足でやってくる。
「スノーリル様。ご無事でしたか」
男性はトーマスではなかった。気遣わしげに尋ねてくるのに一つ頷く。その様子にほっとして、彼はクライブに頭を下げる。
「ありがとうございました。では、姫。帰りましょう」
そう言って手を差し出してくるその手をじっと見つめた。
何か違和感があるのだが、それが何かわからない。警戒するほど危機感があるわけではないが、妙に胸が騒がしい気がするのだ。
「カタリナは?」
ふと出た素朴な疑問だ。いつも必ずいるカタリナがどうしていないのか。
その質問にクライブがノリンの肩に手を置いた。
男性は膝を折ってノリンの視線にあわせ、優しく微笑むと少し眉を下げた。
「カタリナは陛下に呼ばれまして。でも、こちらに向かっているはずです。代わりに私が行くようにと言い付かってまいりました」
その顔をじっと見つめる。
城の護衛全部の顔を知っているわけではない。カタリナが忙しければトーマスがくると思っていたが、そのトーマスが忙しければ誰が来るのかまではわからない。
彼はノリンをスノーリルだと知っている。つまりそれはカタリナに聞いたということだろう。
肩に置かれていた手の先を見上げる。そこには無表情で男性を見るクライブがいた。ノリン、いや、スノーリルの視線に気がつき確認するように見つめてくる。
「クライブさん。ありがとうございました」
笑ってそう言うと、クライブは少し息を吐き出したようだった。
「ああ。ノリンも元気で。また来るんだよ?」
「はい」
いつもの穏やかな笑顔でそういうと、スノーリルの後ろにいる男性をもう一度見てから手を振って去っていった。
その後姿を見送り、見えなくなった瞬間に後ろから喉をつかまれる。
「いい子だ。そのまま声を出すな」
一瞬何が起こったのかわからず硬直していると、後ろから先ほどの男性の声がする。とっさに逃げようと暴れたがぐっと喉を絞められ、右手を後ろにひね上げられる。
「大人しくしろ。殺すぞ」
低い声で言われ、腕の痛みと恐怖でそれ以上は何もできなかった。
大人しくなったスノーリルを男性はそのまま連れて歩いたが、ケリーの家からきた道とは全然違う方角だ。少し足場の悪い地面を踏みしめるとそこに一頭馬がいた。
その背中に乗せられる前に口に布が巻かれ、頭からすっぽりと布を掛けられた。
そのまま軽々と抱き上げられ腹ばいに乗せられる。固くて痛くて怖くて涙が溢れる。声を出せないのは口に布があるからだけではない、これ以上動いたら何をされるかわからない恐怖からだ。
どこをどうやってきたのか全くわからない。ただ海の音が聞こえる。それだけが心の支えだ。
どのくらいの時間がたったのか、ふいに馬が止まり体が下ろされる。布をかけられたまま歩くように言われ歩き、どこか部屋に入れられた事はわかった。
「連れてきたか」
「はい」
もう一人誰かいるようだ。そう思ったときに布が取り除かれる。
溢れる涙で視界が酷く悪いが目の前に現れたのは枯葉色した髪の男性だ。
「本当にそれがそうなのか?」
「ノリンと呼ばれている小娘だと言いましたよね? 間違いなくそう呼ばれていました。一緒に来た男がいましたが、そいつはクライブ船長でした」
その言葉に満足そうに頷いて、それから首をかしげた。
「その髪は染めているのか」
それはスノーリルへの質問か。後ろの男への質問か。それともただの確認か。
言葉の意図を理解するには恐怖が勝っている。何も答えられずただ呆然としていた。
「このままじゃどうにもならん。おい! ミーナ!」
男がそう呼ぶとどこからか女性が出てきた。
「なあに?」
「髪の色を落とせ。逃げられるなよ」
「あいよ。ほら、こっちに来な」
命令された女性はスノーリルの腕を取って急かした。
隣の部屋に連れられてくるとそこはどうやら台所のようだった。
「水で落ちるのかね」
そう言うとスノーリルの髪を一房摘まんだ。すぐに離すと水桶を持ってくる。
口にされていた布を取ると、その布で後ろ手に縛られる。抵抗をしようとは思わなかった。それ以前に怖くて何も出来ない。ただ、女性の姿を追うので精一杯だ。
髪を染めいてるものは特殊なものではない。ディジの種油で洗うと簡単に落ちる。
されるがままに冷たい水で洗われていると少しだけ思考が回復してきた。
自分に何が起こったのか。
彼らは何者なのか。
何が目的なのか。
これからどうするべきなのか。
必死で考えていると、髪を洗う女性が声を上げた。
「へ〜。本当に真っ白だね」
洗われている間ずっと目を閉じていた。桶の上に前屈みで頭を下にする体勢だから目を開けるわけにはいかない。それでも、彼女が何を指して言っているのかはわかる。
「これが世に言う"白姫"様か」
水気を切って乾いた布で拭いてくれる。それなりに長い髪はその言葉に似合う真っ白な色。これが本来の色でここ最近は見る事がなかった色だ。
その髪を自分で見つめると不思議と心が落ち着いていった。
そこにあの枯葉色の髪の男が入ってくる。
「ほう。こりゃ」
そういうとスノーリルの前に回る。
「こんな髪は二人といない。間違いなくスノーリル姫だな」
口元を歪める男はクライブと同じくらいの年だろうか。
「何か質問は?」
じっと見つめるスノーリルに男はそんな事を尋ねてきた。
こちらから聞くことなどない。どうせ聞いても答えないだろう。スノーリルは沈黙して男をただ見た。
「さっきまで泣いていたのが嘘みたいだな」
泣きもせず、悲鳴もあげず、ただ平静に男を見るスノーリルにくすりと笑う。
「まあ、泣かれたら面倒だし。お姫様は意外にお利口ってことか」
至極楽しそうにそう笑うと、女性に指示をだし出て行った。
もう一度口に布を巻かれ、後ろ手に縛られる。
「逃げたら殺すからね」
そう囁いて女性も出て行った。
まだ外は明るいが、時間がどのくらいかは全くわからない。
濡れた髪が少し重い。最初は寒さを感じなかったが、部屋に人気がなくなると緊張も少し解けたのか背中を悪寒が走る。
きょろきょろと見回してここがどこなのかを探ろうとすると壁から不意に視線を感じた。驚いて振り返るとここに連れてきた男性がじっとこちらを見ていた。
一瞬にして心臓が跳ね上がり、唾をごくりと飲み込んだ。
しかし、男はこちらを見ているだけで何もしてこない。
どうやらまだ殺される事はないらしいと感じた。
自分が攫われたのはわかる。彼らが何者かはわからないが、目的は王家に関することだろう。どうやらスノーリルと知って攫ったようだし、すでに何か要求しているかもしれない。
カタリナの忠告の後にこんな目に合うなんて。今頃父が激しく後悔しているだろうこと、母や女官長、その他大臣などからもきっと非難されていることなどがすぐに思い浮かぶ。
こんなことになるなら城から出なければ良かった。あの時、父と一緒に帰るんだった。
後悔ばかりが心を占めるが、それだけではダメだ。
頭を振って、今自分が何をすべきかを考える。
隙を見て逃げることは無理そうだ。だったら出来るだけその時がきたら逃げられるようにしっかりしていようと思う。
それだけを心に誓って、次に何が起こるのかをただじっと待った。