全ての業務が終了し、とりあえず問題の話を聞くことになった。
田辺さんを連れてやってきたのはあのコーヒーショップ。
とりあえず注文をする。席は奥まった場所を選んだ。
「お昼にちょっと聞いたんですけど」
そう切り出すと田辺さんは大人しく話を聞く体勢に入ってくれた。
お昼に聞いた話をすると、田辺さんは少しだけ面白そうな顔をしてカップに口を付けた。
「どういうことなんですか?」
わからない事は多々あるが、最大に謎なのは一人の男性を二人の女性と取り合いになっているのだということだ。
「なんかすごい具合に広まってるのね」
そんな感想を洩らすと、少し前屈みになって秘密を打ち明けるように楽しそうに話出した。
「発端はね美紀ちゃんなの。えっと、じゃあ最初話すわね。あの日は遠藤君が飲みに誘ったでしょう? だから川上さんのことは遠藤君に話したのよ。そしたら美紀ちゃんがなんでそんな報告するんですかって突っかかってきて、それを椎野さんが諌めたの。でもねそこで大問題が発生して…」
話を聞く限りそこに自分が関与する要素はないような気がした。
しかし、次の言葉に思わず「はあ?」と聞き返すことになる。
「椎野さんは遠藤君の彼女って話でしょう? でもね、それってどうやら違うらしいのよ」
椎野恭子さんは遠藤さんの彼女。それは私の部署内では誰でも知っている事実である。確か話を聞いたのは半年くらい前のような気が…。
「二人で少しもめてたんだけど、お店の中だし、小声だったから何がきっかけかはわからないんだけど、美紀ちゃんが怒鳴ったのよ」
「なんですか! 遠藤さんの彼女だからって!」
それはさして広くない店内に響き渡り、一瞬店内が静まり返ったそうだ。
その怒声に椎野さんも負けじと怒鳴った。
「そんなの関係ないでしょ! ひがむのもいい加減にしなさいって言ってるの!」
椎野さんはわりと美人のほうで、美紀ちゃんは可愛いほうである。その二人が立ち上がって罵り合ったのだそうだから、そりゃ、店内の視線が集まっただろうと想像するのは易かった。
田辺さんの話だと、そこに当人である遠藤さんが割って入った。
「ちょっと待てよ。俺、恭子さんと付き合った覚えないけど?」
その話を聞いた直後の私は、それを聞いた直後の田辺さんの反応そのものだっただろう。
「は?」
聞き返した私に、田辺さんはさらに体を前に出して破顔した。
「でしょ! 何よそれって感じでしょう!?」
勢い付いた田辺さんは少し興奮気味に続きを話す。
「それを聞いた直後の二人もぽかんとしてて、ほんっと! 遠藤君何言ってるの? って感じだったわ。ああいう時って周りもどうしていいかわからないじゃない。とりあえず成り行きを見守ったんだけど」
ある意味、その場に居合わせた同僚たちに同情する。
その後はもう飲み会なんてそっちのけで、二人と遠藤さんの話し合い。どうして付き合ってるなんてことになったのか、そこから話は始まって、どうやら椎野さんの勘違いだという事が判明した。
「そういえば、二人は付き合ってるんですよねって誰かが質問したところ見たこと無いですね」
あまりに当然すぎることで、誰もそんな質問を当人たちにしなかった。
たまに確認をしにくる人なんかはおそらく本人に確認さえしてはいないだろう。
「そうなの。私もその話を聞いてるうちに、そういえば遠藤君から椎野さんと付き合ってるって聞いたこと無いと思ったの!」
話し合いを終えた三人は飲みの席に戻ってきたが、三人よりも周りのほうがとにかく気まずい。聞かなかったことにするには声が大きいし、戻ってきた遠藤さんはにこやかに話は済んだとばかりだし。
田辺さんの呆れたような諦めたような表情を見るに、それはきっと大変だっただろうなと、苦笑しか出ない。
「椎野さんは居たたまれなかったんでしょうね。すぐにその場から帰ろうとしたんだけど、美紀ちゃんがまた爆弾を落としたの」
そこまで聞いて次の展開が見えた。
そりゃそうだろう。椎野さんと遠藤さんは付き合ってなかったのだ。ここはまさに絶好のチャンス到来だ。
想像したとおり、美紀ちゃんは宣戦布告したそうだ。
「お酒もはいってないのに、ほんとすごかったわ」
そこで喉を潤すのにカップに口を付けてごくごくとエスプレッソを飲み干した。
「なんて言ったと思う?」
「さあ、色々想像はつきますけど。遠藤さんの彼女になるから、とか?」
「ずばり」
私の発言に田辺さんは人差し指を一つ立てて頷いた。
「そうしたら、椎野さんも爆弾発言を落としたのよ」
また、にやにやと笑い出した田辺さんはテーブルに両肘を乗せて体を前に出す。
「美紀ちゃんをじっと見てたかと思ったら、不意に笑ってこう言ったのよ」
「あなたが遠藤くんの彼女になれるなら、川上さんだってなれるわよ」
その言葉を聞いてようやく元凶が何かわかった。
「なんでそこで私の名前が出てくるのかが知りたいんですけど」
なんだか非常に疲れた。
目の前に置いたきりになっていたコーヒーを飲み干すと、田辺さんも少し考える様子だった。
「うーん。多分、直前に川上さんの名前を聞いたからっていうのもあるんじゃない? ほら、元はそれが原因でケンカが始まったんだし」
その元を作ったのは田辺さんだろうけど。
「それが、尾ひれ背ひれをつけて今の噂になってるわけですか」
「多分」
少しは責任があると思っているのか、田辺さんは神妙な顔をしている。
「はぁ。…まあ、人の噂ですからね。私はまったく関係ないですし、放っておきます。まさかこんなことでいじめとかないだろうし」
「あ。嫌がらせとかあったら言ってね?」
「あはは。頼りにしてます」
社会問題になっていることもあり、少し焦った表情をした田辺さんに笑って頷いておいた。
話はそれで終わり。
田辺さんは駅とは逆方向なので店の前で別れる。手を振る彼女に手を振り返し、私は駅へと向かう。
本当に疲れた。
なんだこの疲労感は。まるで残業地獄の後のようだ。
こんな時はとにかくお風呂だ。ゆっくり浸かって早めに寝よう。
駅手前の信号が変わるのを待ちながらそんな事を考えていると、目の前にあった背中が振り返った。
「あれ? 川上さん」
「あ」
目の前の背中は今話しに上ったばかりの本人。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
本当にお疲れだ。あんたのせいで。
そんな事を思いながらもとりあえず社交辞令は返しておく。
「川上さん、たしか俺より前に出たよね?」
「はい。ちょっと話をしてたもので」
話の内容は伏せておくのが無難だろうな。そういえば、明日はこの真相を先輩に話さないとダメなのか。ちょっと億劫だ。仕事休みたい。
知らずため息も出ていたのか、遠藤さんが少し首を傾げて尋ねてくる。
「なんか疲れてるみたいだね」
「ええ、ちょっとありまして」
肉体的疲労よりも精神的疲労ではあるが。
「疲れたときは甘いものがいいよ?」
「甘いもの、ですか」
甘いもので思い浮かんだのは甘いものを作っている人だった。そういえばお店の名前教えてもらったなと思っていたら、目の前の人からその名前が出た。
「そういえば、この駅からちょっと行ったところにおいしいケーキ屋があるらしいよ。"楠木洋菓子店"っていう古風な名前のお店だけど、ちょっと有名なんだって。そこのパティシエっていうのがフランス人だとかって話てたの聞いたんだけど…」
まさにその楠木洋菓子店が、あの可愛い歩クンの働いているお店の名前だ。
ん? ということは? 歩クンは見習いとかなのかな? 個人店のオーナーで結構気まぐれとか言ってたか。
そんな事を思い出していると目の前の話が終わっていることに気がついた。
「遠藤さんは甘いの好きですか?」
とりあえず笑って聞いてみる。話は半分くらい聞き逃しているが、女の子に人気でって話だった気がする。
「うん。ケーキとか自分で買って食べたりするよ。川上さんは?」
好き嫌いで聞かれれば確かに好きだけど。
「私は自分で買ってまでは食べたりしませんね」
「そう、なんだ。そっか、残念だな」
どうやら遠藤さんには甘いものが嫌いだと認識されたようだ。
そんな話をしていると信号が変わる。周りが動き出したことで振り返っていた遠藤さんも気がついたようだ。私が動き出して隣に並ぶとそれにあわせて歩きだす。
「そういえば川上さん、最近変わったこととかない?」
質問はまっすぐ前を向いたまま尋ねられた。その横顔をチラリと横目に見てから答える。
「変わったことですか? 特にないと思いますけど」
噂は流れてるみたいだけど、今のところ私の身になにか降りかかってくることはない。「まだ」という域かもしれないけれど。
「どうしてですか?」
その質問を普段されても素朴な疑問を感じることは間違いない。聞き返すと彼は少し言葉を濁した。
「あ〜。何もなければ別にいいんだ、うん。ごめんね。気にしないで」
思いっきり気になる言い方だぞそれは。
でも原因をさっき聞いたばかりだし、これは彼の気遣いなのかもしれない。
今日は疲れた。とにかく最後まで疲れた。
なんだって遠藤さんまで出てくるのか。何かの陰謀だろうかと思ってしまう。こんな一緒にいるところを同僚に見られでもしたら明日大変だろうなぁ、なんて思ったりしつつ、その考えにまた疲れてしまった。
隣を歩く疲れの原因を視界の端に捕らえて呟く。
「甘いものね…」
コンビニに立ち寄って甘いものでも買って帰ろうかと本気で考えてしまう。
沢山の会社帰りの人たちと一緒に駅構内に入ったところで電話が鳴った。その音に遠藤さんが振り返る。
「すみません」
携帯を取り出しながら謝ると遠藤さんは片手を挙げてにっこり微笑む。
「いや。じゃあ、また明日」
「はい。お疲れ様でした」
携帯を手に頭をさげてその場から離れて、通行人の邪魔にならない場所で携帯を開く。開いてみればそこに示されている名前は噂の元となった人物だ。
「はい」
『あ。えっと、あの』
前と同じような反応にちょっと笑う。
「歩クン?」
『はい。今いいですか?』
ちょっとはにかんだ様子の返事に大丈夫だと答える。
「うん。どうしたの?」
時間を見ればお店はとっくに終わったか。
尋ねながら大きなガラスに視線をやると遠藤さんがこちらを見ているのが見えた。まだ用があったのかと振り返るとすでに背中を向けて改札を通っていった。
『川上さん、ケーキ食べますか? あ。パンプキンパイです。お店で残ったもので悪いんですけど、どうですか?』
なんてタイミングかな〜。
「うーん。食べたいけど、歩クン今どこ?」
『えっと……』
それと同時に後ろからコンコンとガラスを叩く音がした。
振り返るとそこに仕事帰りの歩クンがいる。片手に携帯、片手にケーキ屋さんの箱を持ってにっこり微笑んでいる。…なんだろう。ある意味完璧だ。
パチンと携帯を閉じると、ガラス越しに口パクであいさつする。
――こんばんは。
後ろから小さな黄色い歓声が上がったのは気のせいではないと思う。
大きなガラスは壁と同じ扱いのもので、別の場所から入る必要がある。歩クンはすぐに行動に移った。その姿をガラス越しに見ながら、僅かに見える夜空を見上げる。
「第三ラウンド…かな」
今日はこれ以上のダメージはもういらないと切実に思う。