翌週月曜日。
いつもと同じくおはようございますと部署のドアを潜り抜けると、ふと部屋の会話が止まった気がした。
なんだろう、また何か噂でもされているのかなと、さして気にせず自分の席に着く。
コートを脱いで近くの壁にかけ、バッグを机の下に置き、椅子に座る。
微妙に視線がこちらに向けられているような気がしたが、全て知らないふりをしてパソコンを立ち上げる。
ふと上げた視線の先にいた田辺さんが、にやりと口の端を上げたことでなんとなく事態を察した。
あれか。
先週の金曜日の飲み会を途中…ではないか。ドタキャンした一件について、なにかしらの噂が流れている模様だ。女性ってのはそういうの大好物だからね〜。
業務開始の音楽が流れてくるのに、全ての社員が席に着く。
ここから一時間ほどはほぼキーを打つ音しかしない。
視界はボードに仕切られているからそんなに気にはならないが、それは目の前の視線だけであり、両隣からはそれなりに視線が飛んできているようなきがする。
そんな視線を完全に無視して仕事に集中していたが、名前を呼ばれて顔を上げる。
そのついでに時間を見る。
あれから三時間が経過したようだ。
呼んだ人物に視線をやる。左隣、つまり田辺さんだ。
「なんですか?」
一応こっそり声をかけられたので、こっそり尋ね返すと普通に「これはこれでいいのかな」と仕事の話を持ちかけられる。
ちらりと目を通して、どうやら手書きのそれを見て「そうですね。いいんじゃないですか」と返すと「ありがとう」とやはり意味深な目でにこりと返される。それに眉を寄せて少し声を低めて名前を呟くと、「ごめん」と言われる。
間違いない。これで確信した。
彼女が噂を広めた張本人だ。
まあ、彼女しか知らないわけだから、当然と言えば当然だけど。
何をどこまで話に尾ひれと背ひれをつけたのか。
ため息も出るわ。
カタカタととりあえず仕事をこなし、右隣がそわそわしはじめたことでお昼が近いとわかる。今日は何を食べようかなと考え出して、ふと気が付いた。
「やばい」
「え? 間違ってる?」
「いえいえ。こちらのことです」
ちらりと隣に視線をやったので、勘違いした同僚が声をかけてくるのに首を振る。
お昼。それはつまりお昼ご飯を食べるということだ。わかってる。うん。問題はそこじゃない。
そんな事を考えて手が止まっていると、無情にもお昼を知らせる音楽が鳴り始めた。
「う〜わ〜」
「どうしたんですか?」
さっきから変な声を出しているので、さすがに気になったのだろう。同僚の心配そうな顔にいやいやと首を横に振る。振ってから、逆側に体ごと椅子を回した。
「田辺さん」
「ごめんなさい」
何を言われるのかわかったようで、その前に両手を合わせて謝ってきた。
「何をどこまで話したのか、お聞かせ願えますか」
「あのね、いや。事実しか話してないけど、ええっと、私の憶測もそれなりに…」
冷めた目でそのいい訳を聞いていると田辺さんは天井を仰ぎ、椅子を寄せて小さな声で話しだす。
「川上さんはどうしたの。って聞かれたから、電話があってやっぱり来れないって話したの。でも、多分あの電話は彼氏からだって言っちゃった。でも、それは川上さんも否定しなかったじゃない。んと、そうじゃなくて、だからね? えっと、その飲み会の席で色々ありまして…」
しどろもどろな田辺さんの話で金曜日の夜を思い返す。確かにあの時「彼?」の質問を否定はしなかった。一応お試し期間中の彼氏であることは間違いないことだし。
「まあ、否定はしませんでしたけど。何が色々あったんですか?」
どうやらその飲み会の席でなにか一悶着あったようだ。
「え〜っとね、ちょっとここじゃ…」
話しにくいか。
「わかりました。残業しませんよね?」
「うん」
じゃあ、仕事が終わった後にでも聞くことにしよう。
それよりも、今日のお昼をいかにしてやり過ごすかが重要だ。
………。
「よし」
覚悟を決めて、バッグを持った。
廊下をとりあえず確認し、できるだけ急ぎ足でエレベーターへと突き進む。しかし、その鋼鉄の扉の中の箱は無情にも下へ降りたばかりのようだ。
思わず舌打ちしそうになった、その時。
「ちーいーちゃん?」
「ぅ!」
「いやん。今、悲鳴上げた? 私にそんなに会いたかった?」
いいえ、その真逆です。今の私には会うのが怖ろしい人物以外の何者でございません。ゆっくり後ろを振り返るとやはりいた。極上の笑顔の小悪魔。
「食堂へ行こう?」
小首を傾げて促がすその表情に、男性陣ならば間違いなく二つ返事で受けただろう。しかし、あいにくと私は男性でもなければ、彼女の誘いは嬉しくない。
だいたい、秘書課の彼女がなぜここにいるのか。
答えを保留した私の腕を掴んで、どんどん足を運ぶ。それになかば引きずられながら歩くがこの状況だと周りの人の目を集めてしまう。彼女と歩くこと自体すでに注目を集めるのだが。
「先輩。逃げたりしませんから離してください」
「逃げるつもりだったくせにぃ」
言い当てられて返事に詰まる。
とりあえず手は離してくれたが、ちらりとこちらを窺う目は少し非難が入っている。
仕事中にちゃんと考えるべきだったかもしれない。
面倒な予感にため息が出るのは許して欲しい。
食堂へ行くとすぐにランチセットを頼む。
今日は話しがあるとかで、強引に麺類に決定。さっさと注文をつけてくれる先輩の作業の隣でトレイを持って渋々付き合う。
いつもと違い、食堂の隅に陣取ってとりあえず食べ始める。話があるのなら、腹に入れてしまってから話をしたほうがいいに決まっている。
無言で食べ進め、時々先輩の視線がにやーと細まるのを無視し、時間よ早く進めと密かに命じてみたりした。
食べ終えたのは先輩のほうが早かった。
「それで? あの噂は本当なの?」
食べているこっちに構うことなく聞いてくる。それに視線をやったまま、つるりと麺を啜る。
「その噂っていうのがわからないですけど」
「あら。じゃあ、そこから話してあげよっか」
楽しそうな先輩は一部の社員に流れている噂を話してくれた。
「先週の金曜日、チーちゃんのところで飲み会があったでしょう? それに珍しくチーちゃんも行ったって話じゃない? その時に、同じ課の人と、えーと名前なんだっけ……ああ、そうそう! 遠藤君を取り合ったとか?」
思わず汁を吹き出しそうになった。
むせそうになる私を見て先輩は「大丈夫?」なんて可愛らしく微笑んでくださったりする。
「えっと、突っ込みどころは満載ですけど、誰と取り合ったことに?」
「恭子ちゃんと、美紀ちゃんと、チーちゃんで。遠藤君ってそんなにいい男だったかしら?」
美少年バンザイな先輩の範疇にはないらしい。
「で? どうなのよ」
楽しそうに聞いてくる先輩を見て、田辺さんへの恨みの言葉を吐き出しても絶対に私に非はないと思った。
「そんな事実はありません。そもそも私は飲み会に行ってないですし、遠藤さんは椎野さん…恭子さんとお付き合いしてるんですよ?」
「ということは、美紀ちゃんの横恋慕か〜。でも、そこになんでチーちゃんの名前が出てきたのかな?」
にっこり。表面を見ればただの疑問を尋ねているのだろうが、その下は違う。
「その真相は今日聞くことになってますので」
「あら。そうなの。じゃあ、後で報告待ってるわね」
「報告って…」
「何よ。私をのけ者にするの!? チーちゃんヒドイ!!」
目をウルウルさせて、ヒドイと言いながら顔を覆う。どこの三文ドラマの主人公ですかと聞きたくなるが、この先輩はものすごく目立つのだ。
「わかりました。報告しますから」
その一言でにっこり微笑んで「待ってる」というその目に、涙など欠片も存在していない。そう、間違いなく面白がっているのだ。
「はぁ」
ため息をついてみれば、「幸せが逃げるわよ」と微笑む先輩をとりあえず睨んでみる。
「誰のせいですか」
「え? チーちゃんの幸せを願っているから助言してあげてる私のせいだっていうの?」
にっこり。
「もういいです」
「なんか冷たい」
冷たくもなるわ! 言いたいが言わないほうが良いことくらい学習済みである。
ほんと。なんでこんなことになったのやら。
田辺さんからしっかり聞き出さないと。